2.

「一つ一つ指でなぞったわ。首筋、右胸、脇腹、腰、太もも、膝、ふくらはぎ、足首。隆起も窪みもみんな丹念に。彼の吐息に熱がこもるまでずっと。最後に溶かされるのは私だけど、少しでもって。それなのに増えていくのよ。私と会う時間はないのに、肌に刻まれる色は多くなっていく。これはもう、浮気よね。痕跡を残さない逢瀬なら、騙された自分の愚かしさを嘆くだけだけど、久しぶりに肌を合わせたら知らない色に見つめられるって何? 新しく肩に入った人魚の誇らしげな顔が憎らしかった。ああ、左胸じゃなくてよかったって心の底から思ったわ」


 そう言って彼女は最初の一杯を飲み干した。僕は黙って新しいフルートグラスを押し出す。柔らかなロゼ、だけどきりりと辛口。いつもこれ。大好きなのだ。弾ける気泡をエリカさんはじっと見つめた。


「肌に刻まれた色はね、その肌に寄り添う私よりももっともっと彼のそばにあるの。ピッタリくっついて彼を離さない。四六時中ね。いいえ、違うわね、彼の命のある限りずっとよ。そんな相手、どんなにしたって勝てない。私だってずっと彼の熱を感じてたかった。燃え上がった後に、一人残される部屋がどれだけ寒いか……」


 彼女がその唇でロゼ色のグラスに触れる。華やかな色は彼女によく似合う。


「彼がね、ある日見せてくれたの」


 真新しいタトゥーだった。それも彼女が誰にも譲りたくなかった場所に。左胸の鼓動を刻むその上に。紫色の薔薇。「好きだろう? 紫。俺も好きだよ。エリカ、あの日も綺麗なまつ毛だったよね。朝日の中。あんな綺麗な色、初めて見たと思ったよ」そう言って笑う彼に彼女は返す言葉を持たなかった。


「それが最後の会話よ」

「え?」

「心の崩壊、かしらね。もう待っていることに疲れちゃったのよ。やっぱり子供だったの。かまって欲しかった。見える形で、分かる形で大事にして欲しかった。甘やかして欲しかったのよ。いやね、結局わがままだらけ。背伸びしたって、ちっとも大人にはなれなかったということ」

「そんなこと、誰でもですよ。エリカさんは頑張ったと思います」

「……ありがとう」


 もう一口、彼女が飲むのを待って僕は口を開いた。


「その人のことが、今でも好きなんですか?」

「ええ、そうよ。どんどん好きになる。逃がした魚はなんとやら? 思い出は美しくなりすぎたりするものなの」

「それだけですか?」

「……」


 彼女の瞳が揺らぐのを僕は見逃さなかった。


「紫の薔薇。朝日の中で見た紫のまつ毛って……」

「……」

「エリカさん」


 僕はいつもより幾分強く彼女の名を呼んだ。聞けば傷つくのは自分だろう。だけど僕には聞く義務がある。なぜならここは僕のカウンターだからだ。


「……私ね、ミドルネームがあるの。東京では名乗ってないけどね。……ローズマリーって言うの。家族はロージーって呼ぶわ」

「でも彼だけは知ってた?」

「……最後に話す相手があなたでよかった」


 彼女の微笑みが傷だらけの心にしみたけれど僕は踏ん張った。


「じゃあ……褒められたということでもう一つ。彼の胸の上に刻まれたものは、エリカさん、あなたなんじゃないんですか?」

「そうね、そうかもしれない。でもね、幼いながらに気づいたのよ。今の私じゃ無理だって。必死に背伸びした結果、疲れてよろけて彼を巻き込んで共倒れ」

「それでもよかったんじゃ? もしかしたらその方が……」


 彼女が涼やかな笑い声をたてた。


「ほんとね。だけど……」

「だけど……?」

「当人だから分かることがある。残念ながらその時じゃなかったのよ。ああ、今じゃないんだって、そう気づかされたの」


 彼女がまた一口、ロゼを飲んだ。美味しそうに、それはそれは美味しそうに。


「あれこれ大変だったけど、好きなものは好きって言わないとダメだって学んだわ。ここでだってそうでしょ? 飲みたいだけ飲まないと、ああ飲んでおけばよかったって後悔しちゃうもんね。そんなのはもうお断り。と言うことでもう一杯お願い」


 酒に強い彼女がこれくらいで酔うことはない。僕は頷き新しいグラスを出す。丁寧に注ぎ、そしてそこに綺麗なラズベリーを沈めた。より一層華やかな色。


「やっておきたいことをやっておかないと、やっぱり後悔するでしょうから。これ、エリカさんに似合うと思ってたんです。飲んでるところ、見てみたかった。だからプレゼントです」

「まあ」

「エリカさん……会いに行かないんですか? もうじき出発なんですよね? 好きなものは好きと言っておかないとダメなんでしょ?」


 胸の痛みに耐えつつ、僕にできる最後の応援に徹する。


「紫の薔薇は離れていてもずっと一緒だという彼の覚悟なんじゃないですか? 忙しい人だったんでしょ? 彼も寂しかったんじゃ……だからどんな形でもあなたが欲しかった。あなたを思わせるもの、色、香り、形。あなたがいない夜、彼はきっと紫の薔薇を抱きしめて眠ったんだと僕は思います」

「……」

「エリカさん、あの時は今じゃなかったかもしれない。でも今は? ロージーって呼んでくれる彼は、肌よりももっと深いところで、あなたを想ってるんじゃないですか? 今だってまだ」


 エリカさんは静かに泣いていた。綺麗な涙だった。泣き顔さえもこんなに美しいのかと僕は見も知らぬ彼に嫉妬する。こんなに素敵な人を簡単に手放すな! と心の内で激しく罵る。そして、僕の持てるすべてのスキルを駆使して微笑み、そっとグラスを押し出した。


「どうぞ」


 


 店を出た彼女がどこへ向かったのか。何が起きたのか起こらなかったのか。僕には知るすべはない。けれど満月が綺麗だった。信じられないほどに綺麗だった。

 いつかまた、ふらりと彼女が立ち寄って、あの夜の続きを教えてくれる日だってくるかもしれない。僕はその日まで、幾千幾万の疑似恋愛を繰り返して夢を見続ける。ここで素敵な話に耳を傾けて過ごすのは、きっと悪くない。月光の中でそう思った。これが僕の生きていく道なのだと覚悟が決まった瞬間だった。

 今、目の前で涙をいっぱいにためた彼女たちを美しいと思った。遠い日のエリカさんの想いはちゃんと届いたのだ。彼女たちならきっと、この先大切な人と素敵な時間を作り出せるだろう。僕は三つのグラスをそっと押し出した。綺麗なロゼ。もちろん鮮やかなラズベリー入りだ。


「内緒ですよ。さあ、飲んでください。口止め料です」

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弾けるロゼに微笑む夜 クララ @cciel

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