弾けるロゼに微笑む夜

クララ

1.

「ねえ、マスター。なんか素敵なお話ないですか?」

「失恋したての心によく効くお薬みたいな」

「ああ、そうですね……」


 小さなバーをオープンしてから随分と時間が経つ。長年の常連さんたちの他に、最近ではレトロな雰囲気が好きだと言う若い世代のお客さんたちも増えてきた。

 そんな彼らと、僕は毎日尽きない会話を繰り広げる。グラスを挟んで僕の前に描かれる無数の人生。もちろんすべてここだけの話だ。誰もが安心して心を開けるよう、僕はこのカウンターにいるのだから。僕の胸の内だけに咲き誇る物語を大切に守り育てる義務がある。

 でもふと、これだけは伝えたいと思うことがある。そう、こんな風に屈託なく夢を求める子たちを前にすると。


「長い間、誰かの話を聞いてると、色々ためになったりしますか?」


 邪推のない真剣な瞳。僕が嘘をついたってちっともおかしくないのに。

 窓から見える空にはあの日みたいな綺麗な満月が昇っていた。彼女たちには届くかもしれないな……。僕はそっと遠い日の扉を開く。


「ため、ですか……そうですね、僕がこの仕事を続けていこう、そう思ったきっかけを与えてくれた方はいましたね。内緒ですよ。僕には守秘義務がありますから。でも今日は素敵な夜なので、こんなサプライズも悪くないでしょう」





「あれ? エリカさん。今日はお一人ですか?」

「ええ、最後にゆっくりあなたと話したくて」

「最後?」


 毎週のように足を運んでくれる素敵な常連さんの一人。いつも決まって賑やかな親友と一緒のエリカさんはとても目立つ人だった。とにかく美しい、存在自体が稀というか。まさに高嶺の花のような。けれど自分のことはほとんど話さない。だから長く顔を合わせてはいたけれど、こうして二人だけで面と向かって話すのは初めてだった。


「この子、雰囲気すごく不思議でしょ。色の揺らめきみたいに。何代にも渡って複雑にミックスしててね。それが作り上げた神秘なのよ」


 かつて彼女の親友のマリコさんがそう教えてくれた。家族から離れて東京で一人暮らししているのだと。そんな彼女がどうやら祖国に帰るらしい。多分もう、よっぽどの理由がない限り来れないからと言われた時、僕の胸はアイスピックで突き刺されたような痛みを覚えた。

 綺麗な人を数多く見てきたし、深い話も聞いているから性格だってバッチリ把握している。そう、僕の相性分析精度は巷で流行りのマッチングアプリよりもずっと高性能だ。だからいつだって向き合う人に深く恋ができた。でもそれは全部、疑似恋愛だと思っている。この仕事が好きでお客さんが好きで、僕の恋はその結果に過ぎないのだ。

 だけど彼女への想いにはそれ以上のものがあったようだ。ああ、プロ失格だ。と言って、仕事を投げ捨ててすがったとして、彼女はもう立ち去っていく人。どうすることもできない。

 苦い想いを噛み締めながら僕は静かな微笑みを作る。物語の始まりをいざなう準備。魅力的な雰囲気をたたえる彼女を真正面に捉え、密かなる失恋は、この仕事における勲章のようなものだと思おうと気持ちを切り替えた。


「私ね、学生時代に好きな人がいたの」


 初耳だ。さぞかしモテるだろうと思うけれど、そんな話題が出ることは一切なかった。


「終わってしまった恋だけどね。でも、今も多分ずっと好きなの。好き過ぎちゃって、どうしようもないのよね。マリコはそれを知ってるから、傷口に触らないというかね。優しいのよ。だけどもうおしまい。最後ぐらい自分で掘り出してさらけ出して、終わりにしたいって思ったの」

「……その相手が僕でいいんですか?」

「ええ、僕だからいいのよ」

「……」

「あなたは茶化さない、バカにしない、そして同情しない、あっ、褒めてるのよ、けなしてるんじゃないから」


 彼女の言葉に僕は笑う。それだけで十分だと思った。僕の中立的な立場が、彼女の絡んだままの気持ちをほぐす何かになれるのなら、僕の恋は昇華したも同然だ。始まる前に木っ端微塵になったけれど、もしかしたら誰よりも覚えていてもらえるかもしれない……そんな希望を胸に、僕は小さく頷き返し彼女の話に耳を傾ける。


「若い頃って背伸びをしたいわよね。届かないものに必死になって。そして成長するんだわ。だけど……誰もが欲しいものを掴めるわけじゃない。惨めな最後だって山のようにあるのよ」

「エリカさんも掴めなかったんですか?」

「ええ、それは見事にね。あがいてあがいて嫉妬して。私、自分が重い女なんだって思い知らされたわ」

「あなたが嫉妬? 浮気でもされたんですか?」

「浮気……そうね、そう言えるかもしれない」


 大好きなその人に出会った日、彼女は袖口に隠されたタトゥーにはっとさせられた。始発の電車内に朝日が差し込む中、夜通し遊んだ友人たちはみな疲れ果て、色褪せて見えた。鼓動さえ弱まって溶けてしまいそうだった。そんな時、ふと彼女の髪を撫でた彼の左手首には真っ赤なイバラが巻き付いていて目を見張ったのだ。そこには熱があった。光の中で、色をなくしていく夜遊び熱帯魚達の群れの中にいて、彼だけは違う色を持っていると感じたそうだ。


「おかしいわよね、顔とか体格とか、もちろん性格もでしょうけど、そんなことで撃ち抜かれて一目惚れ、だったらわかるけど、手首のタトゥーにって、なにそれって感じじゃない?」

「でも、そのタトゥーに気づくほど、彼の動きをつぶさに見てたってことですよね。もう惹かれていたってことでしょ? もしかしてその前に何気ない一言があったりして」

「……さすがね、鋭いわ。でもそれは教えてあげない」

「ずるいです。でもいいですよ。最後には当ててみせますから」


 気がつけば恋人同士だった。けれど彼は忙しすぎて彼女はいつも孤独だった。それでもわがまま一つ言わなかったのは、子供っぽいと言われたくない一心からだった。だから肌を重ね合わせた時、とんでもなく嬉しかった。彼の一番近くにいると感じられて。

 それなのに……。彼の全身にはめくるめく色彩があった。手首のイバラはその始まりに過ぎなかったのだ。

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