5.前の席の女子のブラウスに水をかけてしまった

 謙斗けんとのジョウロから一気に飛び出した水が、優彩凪ゆいなのブラウスをぴったりと優彩凪ゆいなの身体のラインに貼り付けたので。


(思ってたより……優彩凪ゆいなさんって大きい……?!)


 ブラウスに隠された優彩凪ゆいな双丘そうきゅうの形が、あらわになり。

 謙斗けんとは思わずじっと見てしまった。


(やばいやばいやばいやばい! 早く謝らねぇと!)


 謙斗けんとの理性は警鐘を鳴らしているけれど。

 白いブラウスの下の、肌色ではない桃色から謙斗けんとは目を離せなくて。

 優彩凪ゆいなの顔が、羞恥しゅうちで真っ赤に染まるまで、謙斗けんとは濡れたブラウスをガン見していたので。


「もー! 謙斗けんと君のえっち!」

「本当にすいませんでした!」


 当然、優彩凪ゆいなに怒られた。


謙斗けんと君だったら……好きなだけ見てくれても、いいんだよ? でも──私をこんなにした責任、取ってよね?」


 優彩凪ゆいなの顔は、恥ずかしさ以外の色にも染まっているようだった。

 とろんとした優彩凪ゆいなの瞳だが──発言内容が、不穏だ。

 謙斗けんとの背筋を、ぞわっとした悪寒が走り抜ける。


(ゲームならご褒美ほうびだけど、ここは現実! 二次元と三次元を勘違いしたら発動するわなじゃんこんなの! ほんと油断も隙もねえ!)


「ごめん、ちょっと待ってくれ」


 女子の下着姿を、人前にさらしたままにしてはおけない。濡れた服を着ているのは誰でも気持ち悪いだろうし。

 謙斗けんとは教室へと駆け出した。


謙斗けんと君? どこ行ってたの? ……他の女のところだったら、許さないからね」


 花壇に戻ってきた謙斗けんとを、じろりとにら優彩凪ゆいな


「いやそんな人脈ないって! 悪いけど、優彩凪ゆいなさんのブラウスを干してる間、これ着てくれ……俺の体操服だから、汗の匂いとかするかもしれないけど」


 謙斗けんとは教室から持ってきた自分の体操服を優彩凪ゆいなに差し出した。

 その途端に、優彩凪ゆいなの表情がゆるむ。


「ありがと! えへへ」


優彩凪ゆいなさんを濡れさせた責任は、無事に取れたっぽいな……)


 謙斗けんとは胸を撫で下ろす。


「水やりはやっとくから、女子更衣室行ってきなって」

「うん」


 やっぱり優彩凪ゆいなは、濡れた胸を人に見せるのが恥ずかしいのか。

 ぎゅっと謙斗けんとの体操服を胸に抱いて、校舎へと走り出した。


「えへへ……謙斗けんと君の匂いだ……」


 優彩凪ゆいなが何かぶつぶつ言っていたが、ちょうどグラウンドの運動部が歓声を上げていたので、よく聞こえなかった。

 5分後。


「お待たせ! ちょうど先生と会って、ブラウス干すのにハンガー貸してもらえた!」


 優彩凪ゆいなが、謙斗けんとの半袖シャツに着替えて花壇の前に戻ってきた。


優彩凪ゆいなさんは俺より小さいから、ちょっとオーバーサイズだけど……俺のが優彩凪ゆいなさんでも着られる大きさで、よかった)


「汗くさかったらごめんな」

「ううん。そんなことないよ。謙斗けんと君に包まれてるみたいでキュンとしちゃう」

「どういうこと? やっぱりくさいんですか?!」

「えへへ」


 優彩凪ゆいなが自分のジャージを着ているというのは、なんというか……確かに、ちょっとはそそられる。嘘。謙斗けんとは結構ぐっと来ていた。


「このジャージ、謙斗けんと君の名字が書いてあるんですね。同じ名字になった気分……」


 とろけそうな表情の優彩凪ゆいなを見て、謙斗けんとは同じ学年に俺と同じ名字のやつがあと二人いる、という言葉を飲み込んだ。


優彩凪ゆいなさんの幸せそうな顔を見るのは、嫌じゃないし……でもなんで俺の名字で幸せそうなの? 俺、この高校で1番多い名字だから、俺クラスメイトにも名前呼びされてんだけど?!)


 謎は深まるが、アサガオを枯らして担任に怒られる未来を避けるため、謙斗けんとは現実に戻らなくてはならない。


優彩凪ゆいなさん、ジャージはいいから水やりしよう。優彩凪ゆいなさんにかけてしまったから、水をくみ直さないと」

「はいっ♡まるで新婚さんの共同作業の気分……」


 いそいそと優彩凪ゆいなは水場にジョウロを運ぶ。


優彩凪ゆいなさんのしぐさが妙に上品だから、本当に新婚の若妻感出てるんですけど?!)


「あなた、水を入れてしまいましょう?」


 なんて、優彩凪ゆいな謙斗けんとに笑いかけるわけで。


「……優彩凪ゆいなさん、そういうの……誤解されりゅ……ると思うから、やめといた方がいいと思うよ」


 謙斗けんとはキャパオーバーして舌を噛んだ。


「誤解って、どんな?」


 優彩凪ゆいなは、慈愛に満ちた表情で謙斗けんとを見つめる。

 気まずさに、謙斗けんとは顔が熱くなる。


(どうして俺は、優彩凪ゆいなさんが誤解されるのが、嫌なんだろうか?)


 誤解は、優彩凪ゆいなさんが俺と付き合っていると何も知らないクラスメイトに思われることで。

 そのせいで、優彩凪ゆいながからかわれたり、嫌な思いをするのが、嫌だ──優彩凪ゆいなさんには笑っていてほしいから。

 そう考えた自分に気づいて、謙斗けんとは自分の考えを打ち消すため、頭をブンブン振った。


(そんなの──まるで俺が優彩凪ゆいなさんのことを好きみたいじゃないか!)


「ああああああ! 気にすんな!」


 謙斗けんとは気まずくなって、蛇口を最大までひねる。

 大きな音を立てて、水がジョウロの中で渦巻く。


優彩凪ゆいなさんは遊びかもしれないから! 遊びに対して好きです付き合ってくださいとか重たくね? 多分、優彩凪ゆいなさんより俺の方が優彩凪ゆいなさんを好きな状態なんだろうし、今は!)


謙斗けんと君だから、誤解されてもいいのに……」


 優彩凪ゆいなが何か言っていたが、ちょうど水道を全開にしてジョウロに水を入れていた謙斗けんとには、よく聞き取れなかった。


(うーん、こっそり不満を優彩凪ゆいなさんが言ってたらまた怒られるかも。改めて謝っとこう)


「改めて水かけちゃってごめん。水やり再開しよう」

「はーい」


 また水やりを始めたとき。


謙斗けんと君からシャツを借りて思いだしたのだけど、古代の旅人は、旅に出る前に夫や妻と下着を交換したんですって。無事に帰って来れる事を祈って」


 なぜか、優彩凪ゆいなはこんなことを言い出した。


「へー、初めて知った。優彩凪ゆいなさんって物知りだね」


(んえ? どゆこと?)


 謙斗けんとにはわけがわからない。


「現代でも、彼女が彼氏の服を着る彼シャツっていうものが漫画で流行ってるんだけど……謙斗けんと君は、どう?」


(なにこれ? なにこれ? 本当に三次元か???)


 謙斗けんとの鼓動が早まる。


(彼シャツだとしたら思ってたよりも地味とは感じたけど……これ正直に言ったら優彩凪ゆいなさんにまた怒られて世間の冷たい視線が俺に刺さるやつじゃね? というか現状を彼シャツだねー、って言ったら、明日から女子に謙斗けんとって優彩凪ゆいなさんと付き合ってるって勘違いしてるってヒソヒソされるやつじゃない? 無難な!無難な回答をしないと! ……万が一、優彩凪ゆいなさんが俺のこと、好きだったとしても)


「どうって……俺が優彩凪ゆいなさんの服を濡らしてしまったから、俺が優彩凪ゆいなさんに服を貸したっていうのは、人間として当たり前のことだから……あの、なんというか……これだけで優彩凪ゆいなさんの夫婦とか彼氏面かれしづらとかをできるって勘違いはしないので……怒らないでもらえると……」

「……怒らないよ」


 そういって、優彩凪ゆいなはむくれたようにそっぽを向く。


(あっやっべ怒らせた!)


「本当にごめんなさい!」

「怒ってないよ──ただ、私の気持ち、謙斗けんと君はまだ分かってくれてないんだなぁ、って思って」


優彩凪ゆいなさんの、気持ち?)


 首を傾げる謙斗けんとに対して。


「いいの。まだ私の気持ちが足りなかったってだけだから。いつか謙斗けんと君が私だけを選ぶように、謙斗けんと君に私の気持ち、たくさんあげるから──謙斗けんと君が、他の女だとか、クラスメイトなんて、見ないように」


 仄暗ほのぐらさをたたえた、上品で物騒な笑顔の優彩凪ゆいな


謙斗けんと君が、私を選んでくれるまで、待ってるからね……まずは、花火大会で私の気持ち、受け取ってね」


 という会話を最後に。

 春学期は終わり、夏休みが始まったのだった。

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