カリカリ油揚げのシーザーサラダ 6
母を亡くし、神尾流の一番弟子に招かれる形で日本にやってきた奈央人は、彼らの策略を察知して逃げ出した。まだ日本の生活に慣れないというのに、着の身着のまま、ろくにお金も持たず……。
出会った日、仔ぎつねのように震えていた奈央人。その姿は、あやかしの森にいるたくさんの弟や妹たちの姿を彷彿とさせる。
柔らかで明るい色の毛並みを揺らして縋りついてきた小さなきつねの子供たちの姿が頭にちらついて、瑤子は気が付いたら奈央人に手を差し伸べていた。
たとえ正体がどこぞのお坊ちゃんであろうと、行く当てのない彼を放り出すわけにはいかない。それに、瑤子の『秘密』に比べたら、奈央人の抱えているそれは、ほんの些細なことだ。
最初は、庇護欲をかきたてられた。だがその気持ちが、今は全く違うものに変わっている。
……いや、もしかしたら初めから予兆はあったのかもしれない。あの綺麗な薄茶色の瞳に、見つめられた瞬間から。
(でも、私の本当の気持ちなんて、言えないよね……)
瑤子は心の中を隠すように、そっと胸に手を当てた。
成り行きで奈央人と同居を始めたが、瑤子が仕事に出ているため、一日の大半は顔を合わせない。ただ、家にいるときは、互いに笑い合って穏やかに過ごす。
二人の間に――あやかしと人間の間に、甘ったるいことなど何もなかった。同居人より、ほんの少し近い関係。その距離感が、とても心地いい。ここで瑤子が『本当の気持ち』を打ち明けたら、この暖かな空気が壊れてしまうかもしれない。
それに、瑤子は『あやかし』なのだ。妖術を使う化け物から想いを伝えられても、奈央人は困るだけだろう。
だから……言えない。
「七時四十五分」
そのとき、奈央人がポツリと呟いた。
「えっ、嘘! もうそんな時間?! 会社に遅刻しちゃう!」
慌てて顔を上げると、壁にかかった時計が奈央人の言った通りの時刻を示していた。瑤子は急いで、今いるキッチンから荷物が置いてある部屋に足を向ける。
「あ、ちょっと待って、瑤子」
すると突然、奈央人が瑤子の身体をくるりと半回転させた。狭いキッチンで、二人向き合う形になる。
「瑤子。きつねの耳が出ちゃってる」
「あっ」
苦笑交じりに言われて、瑤子は慌てて自分の頭に手を伸ばした。が、一瞬早く、奈央人の長い指がそこに触れる。
「いくら何でも、このままじゃ会社に行けないだろ」
「うん。引っ込めなきゃ。さっき『変化の術』を使ったから、元の姿がちょっと出ちゃったみたい」
黒い毛並みをたたえる大きなきつね――それが、瑤子の本来の姿だ。
普段は人間そっくりに化けているが、あやかしとして『術』を使う際、油断すると変身が解けてしまう。
「毛並みがふわふわしてる。気持ちいいなぁ」
頭の上にひょっこり生えたきつねの耳を撫でながら、奈央人は無邪気に笑った。
瑤子が自分の正体を告げたときも、初めて術を使って見せたときも、彼はこんな風にして笑い、そして言った。
「あやかしに会えるなんて、俺、すごくラッキーだね」と。
飾りけのないまっさらなその笑顔が、今でも瑤子の心に焼き付いている。
「奈央人は、私が『あやかし』だって知っても、怖がらないんだね」
「何で? あやかしだろうが何だろうが、瑤子は瑤子じゃないか。それに俺、全然怖くないよ。だって、こんなに可愛いし!」
可愛いという一言に、瑤子の胸が高鳴る。
だがすぐに、軽く頭を振った。
(いや、今の『可愛い』は、人間がマスコットキャラとか子供とかに向けてよく使う言葉で、特別な意味はない……はずだよね! うん!)
自問自答していると、ふわりと暖かな感触が瑤子を包んだ。
そのままぐっと引き寄せられる。気付けば頬と頬が触れそうなほど近くに、奈央人の顔があった。
「――可愛いんだから、他の男の前で、耳、出したら駄目だよ」
至近距離で囁かれたその声は、ひどく甘かった。瑤子を半ば抱きしめるような体勢で、奈央人はさらに続ける。
「俺の言ってる意味、分かる?」
瑤子はただ、こくこく頷いた。
言葉は少なくても、背中に回った逞しい腕や、まっすぐ注がれる優しい眼差しから、奈央人の気持ちが伝わってくる。
嬉しさと気恥ずかしさで、瑤子の鼓動は激しくなる一方だった。きっと、体温もうなぎ昇りだろう。少しでも気を緩めると、力が抜けそうである。
早く家を出ないと、会社に遅刻してしまいそうだ。だが、奈央人の腕の温もりを、もう少しだけ味わっていたい。
(ああ、もう、尻尾まで出ちゃいそう!)
ちっぽけな1Kの部屋に、朝日が差し込んでいる。
あやかしと人間。一つ屋根の下に住む二人の一日は、こうして始まった。
了
カリカリ油揚げのシーザーサラダ あやかしと1Kで二人暮らし 相沢泉見 @IzumiAizawa
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