ミケ
紫鳥コウ
ミケ
その猫の名前は、ミケというらしい。この「三家」家の猫だから、ミケになったと聞いている。何年前からこの家にいるのか、ぱっと思いだせる者はいない。首のところだけ白く、あとはうす茶色の毛を年相応にはやしている。
今年は、やけに曇りの日が多い。窓を開けていれば、退屈と憂鬱が、意地の悪い風に乗って吹きこんでくる。この秋の半ばの日も、いまにでも雷が鳴りそうである。埃だらけの部屋に鼠が走っているかのような雨雲が、空一面に広がっている。
そんななか、この家のおばあさんは、ミケを膝の上でかわいがりながら、もう見飽きたがゆえに新鮮に感じやすい庭を見つめている。石灯籠は傾いて、むかし小さな池があったところは、すっかり干からびて、泥のついた石がごちゃごちゃとしている。
× × ×
生気が脱色された風は、思いだしたかのようにびゅうびゅうと吹いては、先日の台風でうす汚れてしまった窓をがたがたと鳴らしている。それに不快を覚えたのだろう。ミケは、おばあさんの膝の上でイヤイヤともがいた。そして、おばあさんをひとり残して、この寂しい縁先から暗い廊下へと抜けて、台所に入ろうとした。が、そこでは、おばあさんの子供の妻が、今日もまた、だれかと話題らしい話題のない会話に親しんでいた。
「食べるのも遅いでしょう、お風呂も長いでしょう、病気をしたら隣町の病院まで連れていかないといけないでしょう……」
彼女は、本音と建前を器用に使い分けて生活をしていると決めこんでいたが、こうした不満の数々を、もうすでに、おばあさんは感じとっていた。
「野菜のお値段は上がるし……それに、この冬は電気料金がバカにならないでしょうねえ」
× × ×
悠太の「ただいま」の声は、ミケにしか聞こえていなかった。
「ミケ、あっちにいってな」――悠太はもう、ミケをかわいがる情熱を、なかば失っていた。こうした態度に接するたびに、ミケは不安にならざるをえなかった。おばあさんの死後、自分はどうなってしまうのだろうかという厭世は、ミケに沈みがちな声をこぼさせた。秋に続く冬の先に、春というものがあるという事実だけが、ミケの心を奮い立たせていた。
「今日の夜ごはんはなにさ」と母に訊く悠太だが、彼はもうその返答を分かりきっているらしかった。それは、「たまには、思いっきり肉を食いたいんだよなあ」という不満の言明が、あらかじめ用意された言葉のような調子をしていることからも知れた。
相変わらず、台所へと続く引き戸の前に立ちつくしていたミケだったが、くるりと方向を転じてしまうと、暗い廊下へと引き返していった。
× × ×
そんなミケであったが、その日常に楽しみがないわけではなかった。四時間ごとに音楽をかなでる廊下の掛け時計の前に座って、一分ほどの演奏を聴くことは、ミケにとっては、何度も味わうことのできる光ある一時だった。いまもまた、時計の針が四時を指し示したかと思うと、管楽器が紡ぐ軽快なリズムが流れはじめた。
「あの時計もねえ、うるさくてしかたがないから、捨てようと思っているのよ。だって、深夜にも鳴るものですから……」
「あら、もう夕方なのね。今日はもう帰りますわね……」
× × ×
客人と入れ替わりに学校から帰ってきた、この家の長女は、窮屈だった中学時代から垢抜けようともがいていた。しかし、瀟洒な装いをした新しい友人たちとの間にある越えがたい溝に渡す、なにか橋のようなものを見いだせずにいた。が、そんな彼女の心身のあちこちにも、桜の花が咲きはじめていたのは確かだった。
「まどか……夜になったら、もうちょっと静かにしなさい。下の階のおばあちゃんが寝られないでしょう」
「べつに、普通にしてるけど」
「あとねえ、彼氏ができたのはいいけど、あんまり連れてくると困るのよ。こっちだって、気を遣わないといけないんだから」
彼女は、うららかな春を謳歌している間だけは、おばあさんの存在をどこかべつのところへのけてしまいたいと思うばかりだった。しかし、憎しみという感情を家族へと向けはじめた近頃の心境の変化に、とまどってもいた。
「ミケ、今日はなにしてたの?」
台所からでてきた長女は、階段で香箱をつくっているミケに、つまらなそうに話しかけた。ミケは顔をあげることなく、その両の眼に侮蔑の光を浮かべていた。
「あんたはいいわよね、好きなことだけしてればいいんだから」
× × ×
今日も夕陽は差しこまなかった。雨雲はこの町を見下ろすことにすっかり愉快を覚えてしまったらしい。ミケは、なにもかもが枯れきってしまった庭を見ている、おばあさんの膝の上に戻ってきた。だらりと力をぬいて身をまかせていると、白色の首がわしゃわしゃと撫でられた。
「今日も裕二は残業なのかしらねえ……あの子はね、本当は寂しがり屋なものだから……」
ミケ 紫鳥コウ @Smilitary
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