第24話 箱舟

 明神要はひと仕事終え、火山の王様キング・ボルケーノの待つ警備艇に帰還した。


 上空には海上保安庁のヘリコプターが巡回しているが、追いかけてくる様子はなかった。警備艇を乗り捨てる手筈の八丈島沿岸に向かう最中、追手らしい追手はない。


 八丈島警察署に増援を求めに、一時帰還したのだろう、と勝手に思い違いをしてくれているようだ。間抜けな海上保安庁にはそう思ってもらっていればいい。すべてが明るみになった頃にはもう何もかもが手遅れだ。


 大量に返り血を浴びたシャツを着替え、凶器の刺身包丁ごと海に投げ捨てる。自身が主犯になることに抵抗はなかった。


 どのみち、明神要という凶状持ちのままでは未来はない。生涯、警察に追われ続けるなんてまっぴらごめんだ。この先、明神要として生きるつもりはない。存在ごと消すつもりであったから、都合が良かった。


「チョロい仕事だったよ、キング」

「手筈通りだったか?」

「ああ、まあね。何もかも計画通りさ」


 すべてを見透かしたような目に咎められ、明神が言い淀んだ。ほんとうは計画通りではなく、多少のイレギュラーがあった。船長室で小見を待ち構え、滅多刺しにした後、そのまま姿を眩ますつもりだった。しかし、去り際に女性船員二人に遭遇してしまった。


 明神も被害者のようなふりをして切り抜けたが、もしかすると、明神の犯行であると露見するかもしれない。だが、そうなったところで問題はない。


 警察という組織は身内に甘い。


 明神の存在が明らかになった頃には、とっくに逃げおおせているだろう。


 王の正体は、ホムラ・シロサキ。


 米国在住の日系イギリス人で、特別買収目的会社――SPACスパック(Special Purpose Acquisition Company)『方舟ジ・アーク』の代表を務める著名投資家だ。


 キング・ボルケーノというイカれた匿名で日本政府に富士山噴火のXデーを告発したが、その際に「火山学者・北折獏の弟子」という、いわくありげなプロフィールを添えた。


「ところで、キング。あんたが北折獏とかいう火山学者の弟子だというのは本当なのかい?」


「私のファーストネームはホムラだ。自分の名の由来と、ルーツである日本に興味があった。留学で日本を訪れたとき、北折教授の講義を受けたことがある。だから広い意味では彼の弟子さ。向こうは私のことなど覚えていないだろうがね」


「火山学者にでもなるつもりだったのか?」


「いいや、使と思っただけさ」


「使える? どういう意味だ」


 キングはそれっきり口ごもり、無用な説明をしようとしなかった。キングと口をきく時は理由もなく緊張する。名前や経歴のどこまでが本当で、どこからが嘘か分からないが、歳の頃はまだ三十代前半といったところだろう。明神と十歳ほどしか離れていないはずなのに、見ている世界はあまりにも違う。


 神奈川県警が押収した大麻をこっそり闇で売り捌いて小金を稼いでいた明神はただの小悪党だが、特別買収目的会社という何の事業も行っていない空っぽの会社を上場させ、投資家から広く資金を募り、未上場の企業を買収する、というスキームを主導するキングは、そんじょそこらの悪党よりもよほど狡猾だ。


 SPACは近年のアメリカで流行りの資金調達術スキームであるが、日本ではほとんど馴染みがなく、スキーム自体が解禁されていない。


 未上場企業は買収された途端、突如として上場企業に化けるが、資金調達の段階ではどの企業を買収するか、明らかにしないことが多く、白地小切手会社ブランク・チェック・カンパニー秘密企業連合ブラインド・プールなど、ダーティーな通り名で呼ばれることもある。


 どの未上場企業に目を付けるかがSPAC経営陣の手腕の見せ所であるが、キングは手の内を明かそうとはしない。説明されたのは、あくまでも計画の断片だけだった。


 明神が理解していることと言えば、キングはケーブル敷設事業を行うオーシャン・コネクト社に目をつけ、それを安く買い叩こうとしているということだけだ。業務中に二人も死亡者を出したところに身売り話を持ちかければ、先行き不安の経営陣は渡りに船とばかりに買収に応じるだろう。


 SPACは二年以内に買収を完了しなければならないという縛りがあり、買収に失敗した場合は投資家に事前に決めた利息を付けて返還する。キングが何を考えているのか想像もつかないが、向こう二年以内に片がつく案件なのだろう。


「オーシャン・コネクト社以外に、どんな買収を仕掛けるつもりだ」

五輪オリンピックを根こそぎ奪う」

「どういう意味だ、それ」

「そのままの意味さ」


 キングの言葉は端的過ぎて、明神にはちっとも理解できなかった。


「キングのために人殺しまでしたんだ。ちょっとは教えてくれてもいいじゃないか」


 キングにもう用済みだと思われたくない一心で、明神が言った。


 命令があれば、いつでも手を汚す覚悟がある忠実な手駒を、まさかあっさりと切り捨てることはあるまい。


「日本政府はどうしてもオリンピックを開催したいのだろう。復興五輪だの、世界一カネのかからない五輪だのと謳って招致したのに、蓋を開けてみれば、一兆三千五百億円もの金を注ぎ込んで、まだ足りない。五輪延期のための追加費用は二千億から三千億円と試算されている」


 キングの目が獲物を狙う猛禽のように鋭くなった。


「世界的にコロナが流行っているのに、オリンピックなんて開けるはずがない。ギリギリまで、やる、やる、と言っておいて、どうせ最後は中止だろう」


 明神が嘲笑うように言った。日本政府や自治体、大会組織委員会がどれほど意欲を示したところで、海外のアスリートや観客が来日を断念すれば、五輪の開催は事実上不可能だ。無理やりに開催したとしても、極めてショボい恥晒しの黒歴史になるだろう。


 しかし、かつてインパール作戦をやらかした国のお偉方には「転進」「撤退」「作戦中止」という選択肢はない。完全開催を前提とした議論しかなされておらず、ギリギリまで中止の決断を下せずにいるだけだ。


 国際オリンピック委員会IOCと日本政府、どちらが先に根を上げて、中止を言い出すかを競うチキンレースだ。先に退いた臆病者には、漏れなく多額の賠償金支払いが待っている。


「一度決めたら止められないのが日本という国の宿痾しゅくあだ。負けると分かっていても愚かな老人たちの面子のために戦い続ける。そして回復不能の傷を負う」


 キングが憐れむように言った。


「どうしてもオリンピックをやりたいと言うのならやらせてやろう。だが、追加費用の三千億はすべて頂く」


「ははは、そりゃいいや」


 明神は腹を抱えて、げらげらと笑った。


「俺もあんたの方舟ジ・アークに乗るぜ。たっぷり儲けさせてくれよ」

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