第13話 フレンチトースト

 これは食べても安全なやつだろうか。


 絵に描いたような厚切りのフレンチトーストを前にして、陽の手が強張っている。血のついた包丁を持ち、角南司厨長のものと思しき両目を傍らに置いていた狂人の振る舞う朝食に恐怖する。


 水木を除く二十八名の船員が食堂の席に着いた。司厨長が亡くなった異常な朝だというのに、水木は平然と朝食の用意をこなした。


 朝飯なんて食べてる場合じゃないだろう、という声が陽の喉元までせり上がってくるが、それを口にしてはならない無言の圧力をひしひしと感じる。誰も声を発さず、水を打ったような静けさが嵐の前触れを予感させる。ぴんと張り詰めた空気のなかで、誰もナイフとフォークに手を伸ばさず、ただただ目の前の食事を見つめている。


 第一声を発した人間が水木の餌食になる、ということが暗黙のうちに了解され、あまりに不可解な状況に誰も疑問を差し挟まない。皆、状況を受け入れているようだが、互いにちらちらと目配せして、お前が先に食べろよ、いやお前が先に食え、と牽制し合っている。


「どうぞ召し上がってください」


 水木が愛想の良い笑みを浮かべるが、どうしてこんな場面でにやついていられるのだろう、と陽は思った。118番通報をして海上保安庁に助けを求めたが、いまだに救援はやってこない。


 ここに全員集まらないと、爆破されちゃうよ


 水木は船内に爆弾が仕掛けられていることを示唆した。今のところ爆発は起きていないが、水木の気分次第でクレイトン号もろとも木っ端微塵になるかもしれない。ひょっとすると、この食事が人生最後になるかもしれないと思うと、陽は暗澹たる気分だった。


 常人とかけ離れた感性の持ち主である三厨でさえ戸惑っており、「陽さん、これ食べていいやつっすか」と囁くような小声で耳打ちしてきた。


「それは私が聞きたい」

「入っているとしたら毒ですかね。砒素とか青酸カリとか」

「あんたがしみしみしたフレンチトーストが食べたい、なんて言うから」


 陽が責めるような声で言う。


「あたしのせいっすか」


 陽と三厨がこそこそ喋っているところを巌谷に見咎められた。甲板部のお目付け役である巌谷は口元に人差し指を添え、よけいなことは喋るな、というジェスチャーをした。


「さあ、どうぞ召し上がってください。それとも僕の作った朝食なんて食べれないですか」


 水木の声が怒気を孕む。船員の誰もが一向に食事を始めないことに苛立っている様子だ。意を決した陽がナイフとフォークを手にすると、隣に座る三厨も恐々とナイフとフォークを握った。


 黄金色に輝くフレンチトーストはふっくらと膨らみ、雪のような粉砂糖が上品にふりかけられている。それでも甘さが足りなければ、お好みでメープルシロップが供されている。


 およそ怪しいところはないが、命がけの疑いの目で見ると、粉砂糖らしき白い粉さえ怪しく見えてくる。陽は薄目を開けながら、おっかなびっくりフレンチトーストにナイフを入れた。ほとんど抵抗もなく、すっと切れた。


 三厨はありったけのメープルシロップをぶちまけると、荒っぽくぶった切った。目をきつく瞑り、塊を口に放り込む。もしゃもしゃと咀嚼するうち、表情が和らいでいった。


「ふつうに美味しいっす」


 三厨が安心したように言った。水木が作ったフレンチトーストは毒入りでもなんでもなかったようだ。


「そう、よかったね」


 陽は頷きつつ、慎重にナイフとフォークを操った。ひと口大の食べやすさにしてから口をつけようとしたが、ナイフが微妙な抵抗を感知した。


 これまではすっと切れたはずなのに、ぶにゅっと何かが潰れるような奇妙な感触があり、慌てて途中で切るのを止めた。謎めいた感触に戸惑い、陽は細切れになった断面をしげしげと覗いた。


 丸くて、白い。

 球体のようだが、白の中心は黒い。


「なに、これ……」


 フレンチトーストの生地に混ぜ込まれていたそれは、人間の目玉だった。


 おそらくは角南司厨長のものと思われる片目。


 咄嗟に言葉が出ず、陽の手からナイフがこぼれ落ちた。


 隣に座る三厨は喜々としてフレンチトーストを頬張っていたが、妙な食感がしたのか、食事の途中で顔をしかめた。まさか三厨にも目玉が混ぜ込まれていたのだろうか、と陽が思い至るよりも先に、三厨はごくんと喉を上下させた。フレンチトーストを完食する。


 陽が細切れにした断面に、人間の目玉が混ぜ込まれていたことを三厨も目にしたようだ。三厨の顔はみるみる青褪め、その場に跪き、げえげえと嘔吐した。


 昨日まで生きていた人間の目玉を食べるおぞましさには、三厨でさえ堪えられるものではなかった。食堂内は騒然とした空気となり、陽は嘔吐し続ける三厨の背中をさすってやった。


「うえええ、気持ち悪い。目玉食ったんすよ、あたし」


 三厨は吐瀉物と涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。かける言葉がなく、陽はただただ静かに背中をさすってやった。


「女性にはサービスしないと。どうですか、美味しかったですか」


 水木が満足げにフレンチトーストの感想を求めてきた。えへら、えへら、と笑っており、悪気など微塵もなさそうだ。


「SNSで拡散されるにはもう少しえが必要でしょうけど、ここは船の中なのでこんなものかなと」


「……っざけんな。死ねっ!!!」


 三厨はよろめきながら立ち上がると、唇をわなわなと震わせながらナイフを握り締めた。ナイフを腰だめに構えると、水木めがけて突きかかっていった。


「三厨、だめっ!!!」


 陽が体当たりするような勢いで三厨の腰に抱きつくと、二人して吐瀉物の海に頭から突っ込んでしまった。ゲロまみれになった全身に異臭がまとわりつき、あまりの臭さに鼻がもげそうだった。三厨はナイフを握ったまま、おいおいと泣きじゃくっている。


 陽はそっと三厨の手から凶器を取りあげ、優しく包み込むように抱きしめた。小さな子供をあやすように背中をぽんぽんと叩く。


「三厨、助けが来たよ」


 陽が安堵の声をあげる。海上保安庁と思しきオレンジ色の潜水服に身を包んだ男が二名、食堂入り口から駆け寄ってきた。


「海上保安庁特殊救難隊の陣場です。状況を詳しく教えてください」

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