第12話 特殊救難隊

 嵐を呼ぶ、との謂れのある航空機あるばとろすは時速二〇〇キロメートル超で太平洋上を巡行した。


「あれがクレイトン号でしょうか」と北折が言った。

「そのようだな」陣場が小さく頷く。


 紺碧の海上にクレイトン号と思しき船舶が静止している。船尾に刻まれた船名と船籍港を確認し、救助要請のあった船舶であることをはっきりと確かめた。北折の報告にあったようにクレイトン号は転覆も沈没もしてはいなかったが、奇妙なまでの静けさを湛えた姿はどこか異様な空気をまとっている。


「人が死んでいるというのはあれのことか」


 陣場が双眼鏡を覗く。左舷のクレーンにシーツが結わえてあり、人がぐったりとしているのが見えた。遠目にも首を吊っていると分かるが、それ以外にデッキに人影は見当たらない。


「他の船員はどこに行ったんだ?」


 甲板はしんと静まり返っており、まるで人の気配がない。


「あれは八丈島警察署の方でしょうか」と北折が言った。

「そうっぽいな」陣場が少し呆れたように言った。


 クレイトン号の周りを小型の警備艇が所在なさげにうろうろしている。船の脇腹に警視庁と書かれていなければ、そこらの釣り船と見間違えるぐらいの貧弱さで、船に乗り込んでいるのはスーツ姿の刑事二人だけだった。一人が船の運転で、もう一人がクレイトン号に乗り込もうとしている。


 刑事の片割れが小振りな警備艇から、なんとかしてクレイトン号のデッキによじ登ろうとしているが手が届きそうもない。海面からデッキまでは二階建てのビルほどの高さがあり、縄梯子はかかっていない。人間がジャンプしたところで手がかかるはずもないのは、火を見るより明らかだ。


「デッキまで引き上げましょうか」

「そうしてやるか」


 北折は空中にホバリングしたままのヘリからホイスト降下し、漂流者を保護するのと同じ要領で刑事を抱きかかえた。


「海上保安庁特殊救難隊の北折です。八丈島警察署の方ですか」

「はい。刑事課捜査係の明神みょうじんかなめ巡査です」


 明神は新米巡査を思わせる初々しさで、はきはきと喋った。機長の小松からはヘリの真下の状況が見えず、主翼のプロペラが巻き起こす風が下方に暴風を作ってしまう。強烈な吹きおろしの風ダウンウォッシュを浴びながらも、北折は明神をクレイトン号のデッキに降ろした。


 北折と共にデッキに降り立った明神は律儀にもヘリを見上げ、ぺこぺこ頭を下げている。感謝の気持ちを忘れない清々しい態度だが、何でも疑ってかかる刑事らしさは微塵もない。デッキの捜索を開始した明神は首吊りの現場を見て、情けなくも腰を抜かした。ヘリまで悲鳴が聞こえてきそうな狼狽ぶりだ。デッキから身を乗り出し、警備艇の相棒に向かって何事かを叫んでいる。


「俺も行こう」


 オレンジ色の潜水服に身を包んだ陣場はリぺリング降下の準備を始めた。昇降装置ウィンチを巻き下げるホイスト降下に比べると、格段に速いスピードで降下することができる。ロープを腰に巻きつけた陣場はカラビナを使い、ヘリから垂れ下がった別のロープに繋げた。


かんかけよーし。準備よーし」


 安全確認後、背中から飛び降りた陣場は地面ぎりぎりで減速し、お手本のような着地を決めた。


「陣場さん……」


 冷静な北折でさえ、呆然と立ち尽くしている。陣場はしばし考え込んだ。妙な胸騒ぎがする。


 座礁しているわけでもないのに、海上に静止したままの船。

 爆弾が仕掛けられているかもしれない、という通報。

 人が死んでいるというのに、あまりにも静かなデッキ。


「密航者によるテロの可能性はないか」


 陣場の思いつきに、北折も即座に同調した。


「あり得ますね」

「だとすれば急を要するな。刑事課を待っている余裕はない」


 特殊救難隊は海上保安庁の誇るエリート部隊である。二十四時間体制で羽田特殊救難基地に待機し、特殊な海難事故――危険物を積んだ船が火災を起こした場合などに出動する。


 海上保安官一万四〇〇〇名のうち、潜水士の資格を有するのは、1%足らずの一二〇名だけだ。二十キロもの重量のボンベを背負いながらの潜水業務は、強靭な体力と精神力を必要とする。


 過酷な研修を乗り越え「潜水士」となり、さらに「救急救命士」の資格を取得した中から、全国に三十七名しかいない「特殊救難隊」の一員に抜擢される。危険物積載船の火災消火、転覆船や沈没船内からの人命の救出など特殊海難に対応するスペシャリストであるが、テロリストや凶悪犯の制圧などは完全な業務外である。


「海上保安庁特殊救難隊の陣場です。この船はあまりに静かすぎる。密航者に船を乗っ取られている可能性があります」


 首吊り死体の周囲をへっぴり腰で捜査していた明神刑事の表情がみるみる強張っていく。


「……乗っ取り?」


「爆弾が仕掛けられている、という通報もある。まずは船内の状況を確認するのが先決でしょう」


 首吊り死体を捨て置け、と言っているわけではないが、人命保護を最優先すべきだろう。陣場が訴えると、明神がデッキクレーンを見上げた。どうしていいか分からない、といった不安げな表情だ。


「両目が抉られているんです、あの遺体」


 ただならぬ死に方に陣場の表情もまた強張った。幾度もの救助活動のなかで、遺体を探して引き上げなければならないこともあった。漁船のウィンチが巻きつき、腕が切断された状態で助けを待つ漁師もいた。しかし両目が抉られた状態の遺体など、陣場でさえお目にかかったことはない。


「後頭部に殴打の形跡があり、左胸を滅茶苦茶に刺されています。殺してから両目を抉ったのでしょう。ただ殺すだけでなく、そこまでする理由はなんでしょうか。よほどの恨みを抱いていたのか」


 明神は死因よりも、わざわざ死体を損壊し、人目に付くデッキに晒す理由を気にかけているようだ。見せしめのようにも見れるし、あるいは何かしらの儀式めいているようにも思える。


「俺たちは船内の様子を見に行くが、刑事さんはどうする?」


 北折が「それは特殊救難隊の業務外です」と無言のうちに語っている。その通りではあるが、むざむざ見過ごせもしない。


「僕は刑事と言いましても、八丈島は平和なものでして。警察署員は四十名だけですし、防犯係と捜査係は合わせて十人しかいません。島での事件と言えば現金や自転車、スイカやメロンが盗まれたとか、そんなものです」


 慣れない犯罪捜査の現場に駆り出されて大いに戸惑っているのか、明神は八丈島警察の警察らしからぬ緩さについて語った。


「あとはロべ泥棒とか」

「ロべ?」

「フェニックス・ロベレニー。ヤシ科の観葉植物です」


 熱帯トロピカルムードが漂い、飾るだけで陽気な気分になれる観葉植物で、近年人気が急上昇しているという。ちなみに、花言葉は「躍動感」。


 明神はだらだらと脂汗を流しており、緊張感が漲っている。


 緊張を解きほぐすには雑談は有効だ。水難救助の現場でも、応急手当をして状態が落ち着いてくれば他愛ない雑談をする。


「ヘリコプターには初めて乗りましたか。けっこう音がうるさいでしょう」と声をかけたり、元日に救助を行った要救助者には「見てください。初日の出ですよ」と言った。そんな雑談をすると緊張が解けて、徐々に落ち着きを取り戻してくれる。陣場が駆け出しの頃、先輩たちの救助活動に学んだことだ。


 明神はデッキクレーンの近くからなかなか離れようとせず、船内に踏み込むのに躊躇があるようだ。平和な八丈島では、両目を抉られた死体にお目にかかることも、爆弾が仕掛けられた可能性のある船に乗り込むことも、想像だにしなかったことだろう。


「恐いか?」


 陣場が率直に訊ねると、明神は素直に頷きかけて、それから首を横に振った。凶悪な犯罪者を前にして、恐いなどとは言っていられない。恐怖心を超越するのが警察の教育だとすれば、海上保安官は仕事に恐怖心を感じなくなると逆に危険だと教わる。


「警察ではどうか知らないが、海保では恐怖心を忘れてはならないと教えられる。常に自然相手の仕事だから、二次災害の危険も高い。危険を知るというより、瞬時に感じとらねばならない」


 海上保安官が相手をするのは海だ。人知を超えた自然の力を恐れ、それでも勇気を奮い、立ち向かっていかねばならない。しかし今回の相手は海ではなく、おそらく人だ。特殊救難隊の陣場が踏み込むべき範疇にない。


「刑事課の到着を待つべきだと思いますけどね」


 北折がやれやれ、と言わんばかりに嘆息した。


「爆弾が爆発する可能性があるのに悠長に待っていられるのか」

「刑事課を乗せた巡視船が到着するのに、三、四時間といったところでしょうか」

「それまでに何かあったらどうする?」

「こっちは丸腰ですけど」

「逮捕術の心得はあるだろう」

「人質が二人増えるだけの気がしますけどね」


 待機か、踏み込むかで意見が割れた。包み隠さず本音を言えば、気の短い陣場は北折の胸ぐらを掴んで「お前は付いてくるのか、付いてこないのか、どっちだ」と凄みたいぐらいに心は急いていた。 


 しかし急ぎたいときほど慎重に事を進めなければならない。いかな陣場とて単独で乗り込むのは危険だ。行動する時は相棒を従えるのが原則だ。


「状況を正確に把握しよう。それが今すべきことだ」


 陣場が断言すると、北折も渋々頷いた。明神はこの場に居残り、万が一の際の伝令役を務めてもらう。


「爆弾が爆発して船が沈んでからが俺たちの出番ですよ、陣場さん」

「爆発してからじゃ遅いんだよ。行くぞ、北折」


 北折が声を張り上げるとクレイトン号がぐらりと揺れた。デッキに高波が打ち寄せてきて、首を吊った遺体に水飛沫が降りかかった。船のどこからも煙は出ておらず、火の手も上がっていない。悲鳴も何も聞こえない。揺れの原因は爆発ではなさそうだ。


「まずは操舵室に向かう」と陣場が厳かに言った。

「俺がテロリストなら機関室に爆弾を仕掛けますけどね」


 船の心臓部ともいえる機関室エンジンルームには、船を推進させるための主機のほか、発電機やポンプ類などの補機が配置されている。北折が主張するように爆弾を仕掛けるのに格好の場所であるが、ひとたび爆発があれば船の乗っ取り犯も爆発の巻き添えを食うだろう。


「船ごと吹き飛ばすのは最後の手段だろう。まずは操舵室だ」


 航海上の重要な機器、計器、警報類が集中装備された操舵室を制圧されてしまえば船はどこへも動けなくなる。陣場の予想したように密航者の船舶乗っ取りであるならば、真っ先に支配下に置かれる場所である。


 陣場は脇目も振らず、狭くて急な階段を駆け上ると、一気に船内の最上階である操舵室に辿り着いた。


 異様なほどの静けさに陣場と北折が身構えるが、操舵室はもぬけの殻だった。乗っ取り犯が物陰に隠れていないか、細心の注意を払いながら見回ったが、やはり操舵室は無人だった。


「航海士はどこに行ったんでしょう」北折が声を低めた。

「分からん」


 航海士が操舵室にいない、というのは紛れもない異常事態である。


 長距離を移動する船は、二十四時間連続で何日間も走り続ける。船が安全に航海できるよう航海士が見張りをするが、船の乗組員が眠らないわけではない。そのため、長期間連続で航海を続ける巧妙な仕組みが存在する。


 航海当直ワッチシステム――休みなく船を動かすために取られる特別な勤務体制だ。


 人間が緊張状態を保ち続けられるのは四時間前後と言われている。そこで二十四時間を四時間ごとに六つに区切り、見張りや操船をする船員を三グループに分け、「四時間操船しては八時間休む」というサイクルを一日二回繰り返す。


 この四時間の当直をワッチと呼ぶ。見張りや操船は原則として、航海士と操舵手の二人がペアになって行う。当直が一人だけだと、ヒューマンエラーを起こしたときに取り返しがつかないためだ。


 大抵の船はワッチに則って操船し、航海士は3直制となっている。


 三等航海士  8時〜12時 20時〜24時(殿様ワッチパー・ゼロ・ワッチ

 二等航海士 12時〜16時 24時~ 4時(泥棒ワッチゼロ・ヨン・ワッチ

 一等航海士 16時〜20時  4時〜 8時(ベテランワッチヨン・パー・ワッチ


 薄明りや薄暮れの見張りが難しい時間帯はベテランの一等航海士が受け持つ。全員が起きている時間帯は、新米の三等航海士が受け持つ。真夜中を担当せず、人間の生活リズムにも合っているため、「殿様ワッチ」と呼ばれる。


 午前0時から4時までのゼロ・ヨン・ワッチは深夜の仕事になるので、通称「泥棒ワッチ」と呼ばれている。このワッチに入ると、下手をするとほとんど人に会うことがない。


「操舵室が無人というのは気持ち悪いですね」

「ああ……」


 船長は、必要と考えられるときは常に操舵室にいる必要があるとされており、ある意味では二十四時間勤務である。しかし、船長はおろか航海士の一人さえいやしない。まったくの空っぽだ。


「船員はどこかに監禁されているんでしょうか」

「もしくはすでに避難したのか」


 陣場が口ごもると、北折が思いついたように言った。


「デッキで首を吊っていたのは船長だったのでしょうか」


 首吊り遺体は、無地の半袖シャツにスラックスという軽装だった。


「私服だったから分からないな」


 船の世界は指揮系統が明確な上意下達の階級社会だ。船長、航海士、機関士などの職員の階級は、制服の肩章けんしょうそでしょうを見れば一目で分かるようになっている。


 民間の船員の制服の肩に金筋入りの階級章があるが、金筋四本が船長と機関長、金筋三本が一等航海士と一等機関士という具合に、金筋の本数で「階級」が見分けられる。


 船長や航海士は海の色である黒、機関長や機関士はロイヤルパープル旅客係パーサーは事務を象徴する紙の色である白、陸上との通信を行う無線部は陸上の木々の色である緑、船医は血液の色である赤といった具合に、金筋の間に施された「色」で職務を見分けることができる。


 海上保安官の制服は肩章と袖章の他に胸章が付いており、金色の線が多くて太いほど階級が上となる。組織の長である長官を筆頭に三等海上保安士まで十三階級に分けられており、階級章のデザインは民間の船員とは異なる。しかし、制服に階級章が付いている点に関しては民間の船員も海保も変わらない。


「勤務時間帯ではなく、非番のときに殺されたということですね」

「あるいは勤務中に殺して、着替えさせたのか」


 陣場はそう言いながら、頭の中にとある疑問が湧いてきた。


「制服を着ていれば船員の職務と階級が分かる、というのは船の世界では常識だが、たまたま船に乗っただけの密航者がそんなことを知っているはずはないよな」


「船員の犯行だと言いたいんですか、陣場さん」


 同じ死に方であったにしても、船員が制服を着て死んでいるのと、私服で死んでいるのでは、死体の持つ情報が桁違いだ。


「私服になるときを狙って殺したんじゃないのか」

「だからといって船員の犯行だと決めつけるのは論理の飛躍です」


 北折にはあっさり一蹴されたが、どうにも解せない。船の世界に詳しい人間の仕業ではないか、という思いが陣場の頭に付きまとう。


「船を乗っ取るのが目的ならば操舵室を押さえるだろう。しかし、そうではない。デッキで一人、死んでいるだけだ」


「犯行の目的がいまいち分かりませんね。衝動的に殺したのなら、首吊りに見せかけることはあっても両目を抉る必要はない。これは他殺です、と知らしめるだけです。死因を隠したいのか、広く知らせたいのか、まったく矛盾していますね」


 万事冷静な北折にしては珍しく、怒りを露わにしていた。


「ほんとうに気持ちが悪い。気味が悪くて反吐が出そうです」

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