第10話 シー・ジャック

 陽は起き抜けに甲板に出て、眠気覚ましに海自体操をするのが習慣だった。船員の誰だったかが海上自衛隊第一体操の動画が公開されているのを見つけてきて、それ以来有志でやるようになった。


 陸自体操は身体が壊れんばかりに激しく、朝っぱらから筋肉痛になるので御免蒙るが、海自体操はちょうどいい具合にしんどくて、すぐに汗が噴き出てくる。三厨にも勧めてはいるが、ぎりぎりまで眠っていたい性質の彼女を連れ出すには至っていない。


「三厨、まだ寝てやがるな」


 むしろ三厨が朝っぱらから元気よく海自体操なんぞをしていたら、珍し過ぎて雪が降るだろう。陽が苦笑しながら体操に興じていると、左舷側のデッキクレーンにふと視線が吸い寄せられた。


 ひょっとしてまだ夢の中にいるのだろうかと疑い、ごしごしと目を擦ってみたが、やはり夢ではなかった。


 甲板に向かって頭を垂れたデッキクレーンにシーツが結わえられ、男が首を吊っていた。全身はだらりと弛緩し、一目見るだけで死んでいると分かった。白髪の目立つ初老の男は、見間違いようもなく司厨長の角南であった。


 衝撃の光景に陽は言葉を失うが、ぺこりと小さくお辞儀したような恰好の死体には両目がなかった。本来そこにあるはずの目玉がなく、ぽっかりと落ち窪み、空洞となっている。


 両目を抉られ、首を吊った死体。


「ひっ……」


 あまりにも異常な死に方を目の当たりにして、陽が悲鳴をあげた。


 首を吊るだけならまだしも、両目を抉られた状態で死んでいれば、まさか自殺のはずはない。甲板に船員がぞろぞろと集まってきて、にわかに騒然とした。誰もが左舷側の惨状に釘付けだった。


「おい、110番しろ」

「いや、118番だろう」


 110番は警察直通で、118番は海上保安庁への緊急通報だ。


 海の「もしも」は118番が合言葉キャッチコピー、海難事故、密輸、密航、密漁などが海保案件だが、人が死んでいるとなれば真っ先に警察に連絡すべきなのだろうか。


 横浜の海の玄関口である大桟橋の袂に神奈川県横浜水上警察署が建っており、横浜港湾区域を管轄しているが、クレイトン号の停泊している八丈島近海は東京都の管轄だ。


 これが横浜港近くでのことならば、すぐに横浜水上警察の警備艇が駆けつけてくるだろうが、ここは本土から三〇〇キロ近く離れた海の上だ。


 身体は恐怖に慄いているのに、頭はいやに冷静だった。


 陽は作業着のポケットに入れていたスマートフォンを取り出すと、咄嗟に118番をプッシュした。


「はい、こちら海上保安庁です。事件でしょうか、事故でしょうか」


「事件です。人が死んでいます。場所は八丈島近海。オーシャン・コネクト社所有の海底ケーブル敷設船クレイトン号の船上です」


 陽がほとんど怒鳴るように一気呵成に言い終えると、応対した電話手が冷静に告げた。


「分かりました。直ちに当庁巡視船、航空機を向かわせます」


 通話が途切れ、陽はだらりと脱力した。甲板上にはいつの間にか、三厨の姿があった。首吊りのあった左舷側ではなく、右舷側の海を凝視している。異常な死体を見て気分が悪くなり、気を落ち着かせていたのだろうか。恐怖のせいか、身体が小刻みに震えている。


「三厨、大丈夫?」


 陽が気遣うと、三厨がすっと指を指した。指先を辿ってみても、何も見えない。凪いだ海があるだけだった。


「陽さん、さっき人が飛び降りました」

「は? 嘘でしょう」

「あれ、水上バイクですかね。走り去っていきました」

「人殺しの犯人ってこと?」

「分かりません。見間違いだったのかな」


 三厨はそれっきり答えず、表情を強張らせていた。甲板には巌谷の姿もあり、大声を張り上げて指示を出している。


「死体には触るな。ひとまず食堂に集まってくれ」


 小柄な三厨が陽の腕にしがみついてきた。お互いがお互いの命綱であるかのようにひしと腕を絡ませて、二人とも無言のまま食堂へ移動した。


 こちらに背を向けた水木の尋常ではない姿が目に飛び込んできて、陽は思わず息を飲んだ。まるで死神のようだ。


 水木颯也はぼたぼたと血の滴る包丁を右手に持ち、魂が抜き取られてしまったかのように放心している。その両目はひどく虚ろで、およそどこにも焦点が合っていない。


 ただ呆然と立ち尽くしており、こちらに向かって切りかかってくるような危険な素振りは見せないものの、船員の誰も近寄れない異様な雰囲気を滲ませている。


 調理台には乾いた血の痕があり、角南司厨長の眼球と思しき二つの球体が無造作に転がっている。その手にある包丁で、生きたまま眼球を抉り取ったのだろうか。生々しい想像が陽の頭を駆けめぐり、強烈な吐き気が襲ってきた。


 生きたまま、眼球を抉る……。


 虫も殺さぬ大人しい顔をして、目の前の若者はそんな悪魔のような所業をやってのけたのだろうか。だとしたら狂っている。はっきりと狂っている。


 船員たちが遠巻きに水木を取り囲むが、刃物を手にしたままの水木がまともな精神状態でないことは明白で、とばっちりで切りかかられやしないかと皆が思っていることだろう。


 皆、示し合わせたように、そこには誰も存在していないかのように振る舞い、生きながらに透明人間と化した恐怖の存在に声をかける者はいない。水木に逃走の意思はないようで、根が張ったようにその場を動こうともしない。


 深海に没したような静寂はまるで時が凍りついたようで、陽の手はじっとりと汗ばみ、首筋に伝う冷たい汗が不愉快だった。かつて感じたことのないほど時間の流れがひどくゆっくりとしているように思えた。


 どれほどの時が立ったのか、さすがに焦れる者もおり、ひそひそと小声で囁く者もいた。


「海上保安庁には連絡したのか」

「警察、いつ来るんだよ」


 ざわめきが次第に大きくなるが、水木がゆっくりこちらに振り向くと、誰もが口を噤み、ぴたりと静かになった。


 水木は目鼻立ちがはっきりとして、肌は浅黒く、異国風エキゾチックな印象の顔立ちであったが、今は白蝋のように血の気がなく、ほとんど生気が感じられない。


「朝ご飯、なににしましょうか」


 水木はまるで感情の混じらない、抑揚のない声で言った。


 反応したら殺される。


 きっと船員の誰もが思っただろう。誰もなにも答えない。


 水を打ったような静けさの中で、水木がぽつりと独り言のように呟いた。


「……目玉焼き?」


 調理台に二つの眼球が転がっているなかでは、まったく笑えない。水木はぐるりと周囲を見渡すが、誰もが視線を合わせるのを避けた。


 反応したら調


 陽の胸に去来したのは、そんな思いだった。恐ろしさに身が竦み、相手は水木たった一人であるはずなのに、立ち向かおうとする者はいない。勇気ある一人が飛びかかって取り押さえてしまえばいいはずであるが、誰もが犠牲者になりたくはない。


 無数の船員が集まる食堂は水木の支配下にあった。


 身を屈めて、こっそりと食堂から逃げ出そうとする者もいたが、すぐに見咎められた。水木の無表情が却って恐ろしい。


「どこに行くの?」


 抑揚のない声に追いかけられ、逃げ足がぴたりと止まった。


「この船に三十人いるんだっけ。ああ、一人減ったから二十九人か」


 怒鳴るわけでもないのに、その声はよく聞こえた。


「全員、いる?」


 明確な指示があったわけではない。だが、船長を含めた全員がこの場に揃わなけれ

 ば誰かが死ぬよ。冷ややかな目がそう訴えている。今更ながらに三厨の忠告を思い出した。


 司厨部の新入り兄ちゃん、あんまり深入りしないほうがいいかもですよ


 常軌を逸した狂人を下手に刺激したらなにをしでかすか分かったものではない。あと何時間かすれば海上保安庁の助けが来る。それまでの辛抱だ。この場は大人しく要求に従うべきだ。陽がちらりと三厨に目配せする。ここに全員を集めて、と伝えたつもりだ。


 しかし、三厨は陽のアイコンタクトを汲んではくれなかった。


「ここに全員集まらないと、爆破されちゃうよ」


 今日の天気でも告げるようなごくごく平坦な物言い。だが、内容は苛烈だった。水木の爆破予告とも受け取れる発言は食堂に大きな波紋をもたらした。ざわめきが広がり、誰も平静ではいられない。


 陽もまた胸中穏やかではなかったが、水木の発した言葉尻のニュアンスに微かな違和感を覚えた。


 ここに全員集まらないと、爆破しちゃうよ……ではない。

 ここに全員集まらないと、爆破されちゃうよ……と言った。


 能動ではなく、受動。爆破するのは水木ではない? 


 もしかすると水木は遠隔操作された水中ロボットに過ぎないのか、という疑念が陽の脳裏で渦を巻いた。


 だとすれば、どこかに水木を操っている操縦者オペレーターがいる。


 誰だ? 

 この混乱をもたらした黒幕は誰だ?


 冷静に考えを進めようとしたが、さっぱり考えがまとまらない。


「全員、いる?」


 急かすわけでもなく水木はただただ事務的に言った。この場に全員集めろ、という至極単純な要求だが、この要求こそが巧妙なトラップにも思える。


 全員を集めるために誰かが食堂を離脱すれば、その瞬間、この場に全員が存在しないことが(人数を数えるまでもなく)確定する。


 そうなれば、ドカンだ。


「全員を呼びに行く間、爆破される心配は?」


 陽が訊ねても、水木はイエスともノーとも答えない。意味ありげにただ黙っている。


 この場を離れて全員を呼びに行く行動が爆破の引き金を引きかねないとなれば、率先して誰も動くはずがなかった。


「全員を呼びに行く間、爆破される心配はないんですね」


 水木は何も答えないが、陽があえて念を押した。全員を集めている途中で爆破があったら、爆破実行犯の非道ぶりが明らかになるだけだ。この場を離れる許可を暗黙のうちに認めさせてから、陽は改めて三厨に目配せした。三厨はようやく意図を察してくれたらしい。


 陽自身はこの場を離れるつもりはなかった。


 この先、何が起こるにせよ、水木の一挙一動から目を離す隙を与えたくはなかった。


「あたし、船長を呼んできます」


 三厨がおずおずと挙手し、水木の返事を聞く前に脱兎のごとく走り去っていった。水木は逆上することもなく、鷹揚に頷いた。


 海底ケーブル敷設船は作業中は船を定位置に保つ必要があるため、波や風で常に動く船を一定の位置に留める「自動船位保持装置DPS」を搭載している。船長や航海士が持ち場を離れても、短時間であれば、即座に沈没することはないだろう。


「司厨長が見ているから、しっかりやらなきゃ」


 水木は譫言のように呟き、一対の眼球を見つめた。


「次ハオ前ノ番ダ、っていきなり言われても困るよね」


 陽の耳がいつになく鋭敏になっているのか、ぶつぶつ念仏のように唱えている言葉のいちいちをことごとく拾ってしまう。最初はただ虚空に向かって喋っているだけだったが、なんだか水木の様子がおかしい。調理台に皿を並べ出し、ほんとうに朝食を作ろうとしている。食材のストックを確認し、忙しく立ち回り始めた。


 司厨長が見ているから、しっかりやらなきゃ……?


 意味が分からない。水木の認識の上では、司厨長はまだ死んでいないということなのだろうか。陽がじいっと水木の一挙手一投足を凝視していたのが悟られたのか、水木と視線がかち合った。


「根本さん、なにかご要望リクエストはありますか」


 水木はおよそこの場に似つかわしくない微笑を浮かべた。どうしてこんな時に笑えるのかと思うと、ぞくりと肝が冷えた。


 水木の右手は、赤黒い血がこびりついた包丁を手放していない。何と答えるべきなのか、何も答えるべきではないのか。陽は必死に頭の中で考えを巡らせるが、永遠に正解に辿り着けそうもない。


 陽が無言で佇んでいると、水木がひたひたと近寄ってきた。


「フィリピン人の作る日本料理にしましょうか」


 脅すような声が耳に響く。陽はその場に凍りついたように動けなかったが、周囲にいた船員はじりじりと後ずさりした。


「僕、フィリピンの血が混じっていると思います?」


 陽はふるふると首を横に振ったが、水木が徐々に詰め寄ってきた。


「じゃあ、タイかな? それともベトナム? マレーシア? インドネシア?」


 水木颯也という男にどんな血が混ざっているのかなど、知るわけがない。水木の息がかかるほどに顔が近付いてきたが、答えを間違ったら命取りになるということだけは理解できた。


「あなたにどんな血が混じっているかは知らない。でも切ったら、血が出る。それはあなたも私も同じ」


 水木が一瞬、怪訝な顔をした。


 僕とあなたが同じ? 本当かな? 


 目は口ほどに物を言う。まるでそう言わんばかりの表情で、水木は手元の包丁をまじまじと見つめた。


「じゃあ、試しに切ってみましょうか」


 水木は包丁を振りかざすのではなく、自身の左手首に添えた。


 ぴっ、と軽く切りつけてみたが、血がこびりついて刃物の切れ味が悪くなっていたのか、左手首から鮮血が吹き出すことはなかった。


 薄ら笑いを浮かべていた水木の表情がどす黒く歪み、親の仇でも見るかのような憎しみの目で見つめられた。


 切断試験という言葉が不意に陽の脳裏を掠めた。


 水木は包丁を高々と振りかざした。包丁が陽の眼球を目がけて振り下ろされようとしたその刹那、三厨の大声が食堂内にこだました。


「全員、揃いました!」


 包丁を握り締めていた右手の強張りがふっと緩み、水木は三厨を真っ直ぐに見据えた。


「三厨さんは朝食になにが食べたい?」

「鰻丼とシチューを所望します」


 さすがは深人類。こんな命がけの場面で相手を挑発するなんて、常人離れしたクソ度胸を感じた。


「ウナギのストックがなかったかもしれない」


 水木が申し訳なさそうに肩をそやした。


「水木さんも焼き魚のときは味噌汁であるべきと思うタイプですか」

「まあ、そうだね。そういう風に育ったから」

「そういうのを日本人の血というんじゃないっすか」


 フィリピンの血が云々、という会話を三厨も耳にしていたようだ。人種がどうとか、肌の色がどうではない。焼き魚のときは味噌汁であるべき、という感覚を共有できる人間を「日本人」というのだ、と三厨は定義したらしい。


「そうすると、あたし日本人じゃないんすよね。魚の骨とか取るの、めんどくさいし。朝はしみしみしたフレンチトースト食べたいっす」


「じゃあ、フレンチトーストを作ろうか」


「いいんすか! やりぃ」


 三厨は状況に順応しており、水木とごくふつうに会話している。恐怖心が欠落しているようだが、よくよく見ると両足が小刻みに震えていた。いつ刺されるかも分からない状況が怖くないはずがない。


 朝食のメニューが決まった途端、水木の双眸が冷たく凍えた。


「全員、いる?」


 食堂に何人いるかが気になるらしい。一人二人ぐらい、逃げたり隠れたりしていないか、その目で確認したいのだろうか。


「番号」


 水木が低く押し殺した声で言った。


「だから、番号。この場に何人いるの」


 声に苛立ちが混じり始めたのを察して、陽が水木の前に進み出た。


 船員を横一列に並ばせ、小見おみ船長から順々に番号を言わせた。


 船の最高責任者は船長であるが、降って湧いたような船舶乗っ取りシー・ジャックに直面してはまともに指導力を発揮するべくもなく、小見はただただ面食らっている。


「1」

「2」

「3」

「4」

「5……」


 陽は横一列の最後尾に並んだ。


「……26」

「27」

「28」


 クレイトン号に乗船した船員は三十人のため、人数の上では過不足はなかった。しかし、水木はどこか不満そうだった。


「一人、足りなくない?」


 甲板で首を吊った司厨長を除くと二十九名だから、一人足りない、と言いたいのだろうが、水木自身を数え忘れている。


「水木さんを含めると二十九名です」と陽が付言した。


「ああ、そうか。でも一人足りなくない?」


 静寂に支配されていた食堂がざわつき始めた。


「司厨長がお亡くなりになったので、全部で二十九名です」


 司厨長を殺めておいて、その言い草はなんだと虫唾が走ったが、もしかして水木は角南殺しにまったく加担していないのだろうか。


 司厨長殺しをお手伝いする簡単なお仕事です


 定食屋に火を点ける裏バイトがあるならば、司厨長を殺す手伝いだってあるかもしれない。そういう可能性を考えると、水木はただ真犯人を逃がすためだけの時間稼ぎ役でしかない。


 そういえば皆が首吊りのあった左舷側に集まる中で、三厨だけが右舷側の海を凝視していた。


 あれ、水上バイクですかね。走り去っていきました


 司厨長を殺す手伝いをさせられた水木が狂人のふりをしていたとして、なにを伝えようとしているのかがようやく理解できた。


 一人、足りなくない?

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