第9話 父の面影

 航海二日目の夕食は、ハムカツとポテトコロッケだった。


 司厨長は薄いハムにパン粉をまとわせ、手際よく揚げていく。


 揺れる船上で揚げ物は注意すべし、との教えを受けたばかりだが、もしかして颯也のリクエストに応えてくれたのであろうか。


「地球最後の日になったらなにを食べたい?」と質問された颯也は、「コロッケとトンカツ」と答えた。ほとんど笑わない角南司厨長は少々近寄りがたいが、案外心根は優しいのかもしれないと思った。


 保管できる食材に限りのある船上であるため、颯也の要望通りのトンカツではなくハムカツであったが、司厨長の心意気は伝わってきた。亡き父が作ってくれた思い出の味とそっくり同じにならず、今日が地球最後の日になったとしても心残りはない。


「揚げ物でよかったんでしょうか」

「地震が来たばかりで、今は海が落ち着いている」


 海が穏やかだから揚げ物にした。べつにお前のためではない、と言わんばかりの仏頂面で、さっさと料理を運べと追い払われた。


 颯也が料理を運んでいると、巌谷が食堂に姿を現した。


「ハムカツか。懐かしいな」


 薄さに反して意外に食べごたえのあるハムカツは、定食屋みずきでも定番のメニューだった。父が亡くなってまだ半年も経っていないのに、ふと郷愁を覚えてしまう。


「親父さんの味を思い出すな」


 巌谷は薄いハムカツを頬張りながら、しみじみと言った。


「颯也もあとで食べてみろ。きっと親父さんの味を思い出すぞ」

「そうだったら、もう思い残すことはないです」


 調理の途中なので長話をしている時間はない。とっておきの愛想笑いを浮かべた颯也は、そそくさとその場を辞去した。


 船内調理室ギャレーでは司厨長が黙々とハムカツとコロッケを揚げていた。


 料理の提供の仕方は司厨長ごとにまちまちで、作り置きのセルフスタイルを採る司厨長もいるようだが、角南は船員が食べに来たら、その都度配食するスタイルだ。惣菜屋と定食屋の違いに似ているが、揚げ物を食べるなら作り置きよりもその場で揚げたほうが美味いに決まっている。


「おい」


 司厨長に呼びかけられた颯也が振り向いた。なにか粗相をしただろうかと脅えるが、身に覚えはなかった。


「はい」

「明日から賄いを作ってくれ」

「僕が、ですか」

「他に誰がいる?」


 いきなり賄いを任され、颯也は戸惑いを隠せなかった。


「船での生活が長くなると、揺れのせいで感覚が鈍くなる。食欲もなくなってくる。味覚も変わってくる。自分が作った料理だけを食べていると、味覚が鈍っていることに気がつかない。だから賄いは自分以外に任せるんだ。味覚を鈍らせないための配慮だ」


「分かりました」


 今日のハムカツとコロッケは食べていいのか、それが疑問だった。颯也の要望に応えての献立であるはずなのに、まさか目の前でお預けを食らわせられるのだろうか。


「ちなみに今日の賄いは……」

「明日からでいい。今日は皆と同じ食事だ」


 一通りの仕事を終えてから夕食にありついた。巌谷の言うほど、懐かしさが込み上げてくることはなかった。ハムカツもポテトコロッケもまあまあの味で、どこか物足りない。


 父の揚げるトンカツは分厚く歯ごたえがあり、コロッケの中身は絶品の蟹クリームで、地球最後の日に食べるに相応しい味だった。


 船の上でならこんなものか、と腹に収めるべきだろうが、期待したぶんだけ物足りなさが募る。父ではない別人が作った淡白な味に思い出が上書きされ、父の面影さえも偽物のように思えてくる。


 夕食の提供と後片付けを終えて、颯也はコックコートを脱いだ。司厨員には専用のロッカーなどなく、調理室裏手にある食料保管庫の片隅に設けられたフックに掛ける。


 もぬけの殻になった食堂を後にして、颯也は個室に戻った。あてがわれた部屋は司厨長の隣室だが、相部屋ではないので気を遣うこともない。


 乗船人数が多いときには司厨部が相部屋行きになるそうだが、新型コロナウイルスの影響で乗船人数が絞られており、空き部屋が余っているため、颯也も個室の利用を許された。


 潜水艦を思わせる丸窓が狭苦しさを助長するが、シングルベッドとソファがあり、シャワーもついている。共用スペースには洗濯室もあり、運動不足解消のためのジムもある。頻繁に揺れることを除けば、差し当たって生活上の不便は感じない。


 問題があるとすれば、それは生活上のことではなかった。


 ベッドに寝そべって無機質な天井を見上げる。一人きりになると、よけいなことばかり考えてしまう。颯也の頭に浮かんでくるのは、父の最期のことだった。


 水木みずき仁男よしお、享年六十八。


 おそらくは生物学上の父ではない男。それでも颯也を我が子として慈しみ、育ててくれた大恩人であることに疑いの余地はない。


 そんな父を焼き殺した。


 間接的にであれ、颯也が父を焼き殺したも同然だった。


 けたたましいサイレンの音。目の前を横切る消防車。真っ黒な炭となったみずき食堂。目を閉じると、父の手が伸びてくる。


 颯也、ほんとうのことを言え。そうすれば楽になる。


 亡霊と化した父がどこまでも、どこまでも追いかけてきて贖罪を迫る。急に背筋が冷たくなった。ぞわりと悪寒がして、颯也はがばっと跳ね起きた。うまく息ができず、海の底で溺れてしまったような心地がした。


 苦しい。息ができない。許して。父さん、もう許して。


 自責の念は声にならず、ただひたすらに苦しさが増していく。


 うたた寝が永遠の眠りに変わったら、楽になれるのだろうか。


 そんなどうしようもないことばかり考えていると、廊下の方から微かな物音がした。扉の隙間に紙が差し入れられている。


 颯也は恐る恐る近寄り、得体の知れない紙に手を伸ばした。内容に目を落とすなり、手がぶるぶると震えた。読み間違えようのない極太のゴシック体で、脅迫めいた言葉が連なっていた。


 次ハ オ前ノ 番ダ

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