アイザックが知らないこと
管弦 網親
アイザック・J・コネリーと彼の冒険
アイザック・J・コネリーという男は元来、苦労というものを知らない。それは休日にアメリカ大陸の西海岸にあるゲストハウスでBBQをするときも、平日に東海岸にそびえ立つ彼のオフィスのドアをくぐる時でさえ、アイザックは彼の為に働く者たちによって囲まれているからだ。
アイザック・J・コネリーは俗にいう大富豪である。いくらアイザックが自分の財閥が建てた学校を主席で卒業しているといえ、セレブとして生まれた彼はどうやって自分が巨万の富を維持しているかさえ把握していないだろう。 敷かれたレールの上を生きる人間は、綺麗に並んだコードを無機質になぞるAIに似ている。
「クリスティ、今の僕は果たして彼女の期待に応えることが出来るのだろうか」
しかし、今ここにいるアイザックはかつてないほど緊張に支配されていた。初めて自己の世界の枷から外れ、そして彼は、世界でただ一人の娘を自分のレール上に繋ぎ止めようとしていた。恐らくは初めて己に課されたその挑戦を前に、アイザックは辛うじて、自嘲気味に、右口角を上げて笑う。彼の唇にひっかかっているものは重圧だろうか、それとも案外高揚感だったりするのだろうか。
「心配ありません、アイザック。すべて上手くいきます。私を信じてください」
クリスティ・ルイはいつものスーツ姿で、快晴の空を仰いでそう言った。
=
3日前―
「どうだろう?僕には前のスーツの方が似合っていた気もするんだけど」
本日5度目の試着にて、アイザックはクリスティに問いかける。クリスティには正直アイザックの心情などわからない。アイザックがその気になれば店中にある全ての衣類がまとめて手に入る財力があるのだから手早くそうして、事前に毎日コーディネートを依頼してしまえばいいのに、とクリスティが言えばアイザックは、自分で選択することが大切なんだ、と決まって返す。失敗してもすぐに結果を取り返せる彼だからこそ言える言葉だった。そんな彼の性格がその行動力と合わさって、クローゼットにしまってある何着もの衣装を無視して、早朝からクリスティを巻き込んで服を買いに出掛けさせる。
「よくお似合いです、もう本当に。これしかないくらい」
クリスティは時計から目線を外し、真っ直ぐを見つめて、手短に感想を述べた。きっと、このスーツも今日以降はお蔵入りだろう。
「アリシアの会うために着ていく服だからね、しっかりとした服でないと」
アイザックはネクタイを丁寧に装着しながらまたしても鏡を確かめる。時刻は午前9時、アイザックの想い人のアリシアの出勤予定時刻までは時間がある。
「アリシアは赤色がお気に入りではなかったですか?きっと赤のシャツを着ていけば喜んでいただけますよ」
クリスティの助言にアイザックは、そうだね!と応える。彼の屈託のない笑顔は、彼に巻き込まれている人間の気苦労に気が付いていないのは難点だろうけど、この世でもっとも純粋なものなのかも、とクリスティに思わせるには十分だ。俗世に対する彼の無垢な透明感は自分の属する世間ではなかなか得難い。あるいは、彼の行動を好意的に捉える自分の感情こそ一種の職業病なのかもしれない、と試着室の前でクリスティは頭を捻らせた。
「決まりだ!この服装で僕はアリシアに会いに行く」
勢いよく試着室のドアを開けたアイザックは紺のスーツを紅のシャツの上から羽織り、青色のネクタイを締めている。髪の毛をジェルで固めればさしずめ何処かの怪盗のような風貌になるだろう。アリシアに理解されるとは思えないが、仮に怪盗として接すれば会話の種になるかもしれない。一番大事なものを奪いに来ました、貴方のこころです、とか。
「よく似合っていますよ、アイザック」
お買い上げありがとうございます、と店のオーナーが頭を下げる。
アイザックが昼食を食べるとき、クリスティはいつもサラダを2つ頼む。
「同じものを食べてよく飽きないね」
炎天下の中わざわざ店の外側にあるテーブルを選び、アイザックは言った。
「私は菜食主義なんです。それに、ドレッシングは選べますから」
頬杖をついたままクリスティは応える。クリスティがビーガンになったのはおよそ6年前だ。その頃からアイザックが何処で昼食を取ろうと、あるいは、同じ店に幾度通おうとクリスティが注文する品はいつもサラダだ。ほとんどのメニューの選択肢がはなから排除されているというのは実に効率的だ。好き嫌いをするよりも判りやすい未然の問題解決法だ。ソーダ水の向こう側で依然ゆらゆらと揺れているアイザックを眺めながらクリスティは思う。
「世の中にはこんなにおいしいものが溢れているのに。君が一期一会を否定するのは残念だ」
どうやら今日のランチの決断にもアイザックは時間を要するらしい。何度も来ているレストランだというのに初々しい。
「ここのビーフステーキは好きですよ。色がいいですから」
クリスティが推奨するビーガンというのは、ベジタリアンの上位互換のようなもので、ベジタリアンの場合、肉製品でなければ卵、乳製品、はちみつなどを食べても定義上の問題はないのだが、完全菜食主義であるところのビーガンの場合、野菜以外の食事を文字通り一切しない。かつお節やはちみつだって食べてはいけない。はたから見ればビーガン食は淡白に見えるだろう。事実、クリスティはそこまで食事に対してこだわりがあるわけではない。 しかし、彼女がビーガンになった理由は他にある。
「知っていますか?あと20年もすれば畜産業は衰退しているらしいですよ」
文明の進歩は食事の楽しみを大幅に広げた。コクのあるランチドレッシングを野菜から作り出せるほどに。しかし、こと家畜を飼育する過程に関してはどんな学術的発展もその進歩の貢献を受けない。動物を育てるには水と作物を大量に使う他ないのだから、と何かの学者がまるで知り合いとの会話の様な馴れ馴れしさでテレビ越しで弁舌していたのを、クリスティは思い出す。
「そうなると、次にタンパク質の補給源に選ばれるのは昆虫だそうです」
クリスティは工場で大量に飼育される昆虫を想像して身震いする。だから、
「来たるべき未来のために私は今から野菜だけの生活に慣れておくんです」
「食べるものが虫しかなくなるならそれも仕方がないよ。それに、僕の友達には昆虫食を好んで選ぶ人たちもいる。タランチュラとかね。君は君の周りの誰かが虫を食べるようになったら反対するのかい?」
クリスティの記憶ではアイザックが虫食会合に参加したことはないはずだったが、 セレブリティには一般市民が決して触れることのない独自に設立された社会がある。アイザックの友人の中には変わり者も混ざっているのだろう。この世の贅を尽くして、それでも探究心は埋まらない。
「いえ、たぶん気にしませんね。虫人間とは呼びますが」
埋まらない空白が、心にぽっかり空いたムシクイが虫で埋まるなら、どうぞ、そうしてください。クリスティはソーダ水で喉を潤した。アイザックがメニューのページをめくる。
「赤い飴玉があるだろう?夕暮れみたいな色をした、子ども時代なら誰でも好きだったやつ。なんと、あれの着色料は虫なんだって」
…知らないままでいよう。
「おそらくミキサーで砕くんだろうね。そうやって粉々になったものを原料に…」
どうやら献立が決まったらしい。クリスティはアイザックとの会話を打ち切って、早々に呼び鈴を鳴らした。
「あら!もういらしてたんですね、アイザックさんにクリスティさん!」
アリシア・ストレンジは今日も綺麗な歯を存分に見せてはにかむ。エプロンに包まれた彼女は軽快な歩調でこちらのテーブルまで近づいてくる。実際にはスキップなんてしていないのだろう。しかし、彼女の誇張抜きの人懐っこさが事実を曲げてみせているのだ。
「今日はこれから何処かにお出かけですか?お二人とも素敵なお召し物がとても良くお似合いね」
彼女はこのアンティークがお洒落なレストランで働いているウェイトレスだ。クリスティの調べによると休日は彼女が在学している大学院系列の塾で教員として雇われているらしい。なんでも活発で友好的な良識人という話である。
「予定はまだ決まってないんだ。今日は天気がいいから目的地を決めないでドライブするだけでも楽しいと思うけれどね」
アイザックが言うとそれに呼応するようにアリシアが笑う。
「駄目ですよ、アイザックさん。そういうプランはちゃんとクリスティさんに相談しないと」
ふいに向けられた視線にクリスティはつい背筋を伸ばす。アイザックは彼女と話していたのになぜ私に話題を振るのだ。
「いえ、私はどこでも。アリシアさんも一緒に行きませんか?気分転換になるかもしれませんよ」
アリシアはいいですね!と応えたものの、クリスティの提案を断った。
「私は出掛けるよりも、まず沢山働かないといけませんから。お気持ちだけ頂いておきますね」
角の席に座っていた客が呼び鈴を鳴らす。時計が10時を廻ると同時に開店するこのレストランでは、12時を過ぎた時間帯に昼食休憩にやってくる会社員たちで混雑する。アイザックは彼女がいなくなってしまう前に急いでビーフステーキとサラダを2つ注文した。今日はまだ午前中だというのに忙しい。
「聞きましたか、アリシアは多忙みたいですよ」
アリシアが他のテーブルに向かった後、クリスティは小声でアイザックに呼びかけた。
「ああ、聞いた。僕が彼女の助けになれないだろうか」
いまだ会話の余韻に浸っているアイザックを前にクリスティはため息を堪える。当人である彼にその気があるのならこの世界でアイザック・J・コネリーに実現できないことなどそう存在しないだろうに。アリシアは働く必要性を説いていた。つまり、金が要りようなのだろう。それならアイザックが金銭面を支援すればいい話だ。
アリシアがサラダを持って、席に戻ってくる。
「アリシアが資金を貯めようとしている理由は何なんだい?」
アイザックは自分とクリスティの正面にサラダが置かれるのを待ってから、アリシアに質問した。
「私、海外で暮らしてみたいんです。大学院で人類文化学を専攻しているんですけど、そこでは未開の地で暮らす部族の人たちについて研究するんです。そのドキュメンタリー映画で人々が自然と共存しながら生きているのを見て、あぁ、これが人間のあるべき姿なんだ、って感銘をうけて。原住民の友達を作ることが今の私の夢なんです」
っていうと周りはみんな笑うんですけどね、とアリシアは照れながら自分の夢を聞かせてくれた。
「物質主義の現代人よりジャングルで生きる人たちの方が魅力的だとおもいませんか?もしかしたらアイザックさんとクリスティさんにはピンとこないかもしれませんけど、苦難を乗り越える生命力というか、自然と共に在る逞しさというか、そういう生き方に憧れてるんです。きっと私が知らない世界に対する憧れなのかもしれませんね」
笑顔で夢を語るアリシアと感銘をうけた様に相槌を打つアイザックの横でクリスティは二人の前に出されたふたつのサラダを見ていた。彼女が知らない世界なら目の前にもある。アイザックの生きている世界だって、きっとアリシアには想像もつかないだろう。それにしても、このサラダを食べきらないとアイザックのステーキが来ないのではないだろうか…?注文をした時に2つとも自分のサラダだと説明するのを忘れてしまっていた、とクリスティは後悔した。
「驚きでしたね」
レストランを出た後、アイザックの愛車をアイザックの代わりに運転しながらクリスティは言う。アリシアの夢はまったく想像の外だった。あの、現実と夢を繋げようとしている彼女の眼は強い力を秘めていた。
「ああ、凄まじい目標だったね!彼女はすごい。あれほど真面目に学問に向き合う人間は滅多にいないよ。僕は彼女の夢の為に協力したいと思う」
アイザックは自分の拳を胸の前に掲げ、興奮気味に応える。しかし、そんなアイザックとは対照的にクリスティは浮かばない顔を隠せずにいた。
「それは、あまり理想的ではないアイデアでしょうね」
信号が赤になって、停止した車からエンジン音が消え、流行りの曲が耳の周りを飛び回る。軽薄なメロディに乗った場違いな言葉の羅列はそれでも沈黙よりマシだった。青すぎる空が二人の肌を痛めつけている。
「おそらく、お金を渡したらアリシアはいなくなります」
確認の意味も込めて、アイザックはクリスティの言葉を繰り返す。
「アリシアがいなくなるっていうのはどういうことだ?」
対向車線にいた車が視界を遮って左折する。気が付けば信号は再び青に切り替わっていた。クリスティはハンドルを右に切る。レストランで食事を済ませたばかりだが紅茶の店に向かおう。アイザックがドライブを続けたいというならテイクアウトにするのもいい。
「アイザック、もしアリシアの費用を負担すれば、彼女は貴方に感謝するでしょう」
「それに、僕は彼女を純粋に応援したいと思っている。人類が互いに歩み寄れる様な夢は叶えられるべきだよ」
クリスティはアイザックの意見におおむね賛成だ。資産家のアイザックが人類学徒であるアリシアを支援すること自体は理想的な構図なようにみえる。きっと、彼女は感激して、アイザックを抱きしめるに違いない。誰だって自分に理解を示してくれる相手には好意を寄せる。
「返済を催促する気など毛頭ないけれど、たとえば研究に成果が出なくたってアリシアは姿を消したりしないと僕は思うよ」
普段と同じ論調で、同じような態度で、それでも、つい先刻まで掲げられていた彼の拳は静かに元の位置に戻されていた。
「はい、アイザック。私もそう思います」
クリスティはアイザックの言葉を肯定で返す。それでも、
「それを踏まえたうえで、私はやはりアリシアは貴方のもとには戻ってこないと思うんです」
なぜなら、アリシアという女性は、強烈に未知の世界に憧れているのだ。日常からはるか遠く離れたところにあるはずの見たことがない場所に。そしてそれは、アイザックがいる世界からも、クリスティがいる世界からも大きくずれてた所に位置してしまっている。 それは、前向きな現実逃避と言い換えてしまって差し障りないのかもしれない。今いる現実から存在するかも不確かな楽園へ。アリシアの夢を叶えてしまったら、あるいは、彼女が夢を叶えるべく歩を進めてしまうだけで彼女は私たちの住む現実からいなくなってしまう。
「アガペという言葉を知っていますか?」
少し話題を変えよう。くだらなくて、平坦で、ほんのちょっと興味を引く話。 閑話休題。物語の栞の代わりに、ドライブの片手間に運転席と助手席の間にある隙間を埋めるための、何処にでも挟まるようなありきたりな話。
「それはギリシア語のアガペのことを言っているのかい?エロスやフィリア、それとストルゲと同様に愛という意味を持つ」
ギリシアに愛を表現する単語は4つある。エロスは性愛、フィリアは隣人愛、 ストルゲは家族愛。それと並び称されるアガペは無償の愛に分類される。新約聖書を発行する際、『創造主が創造物に向ける愛』を記すために用いられたとされるのがこの言葉だ。
「はい。アイザックは人の愛がアガペに至るための条件をなんだと思いますか?」
アイザックは考える。
「アガペというのは無限の愛によってもたらされる寵愛のようなものだと思う。自分の利益にかかわらず相手の力になる。それは普遍的で在り続けなくてはいけないし、また、永続的である。たとえば相手が自分に対して悪事を働いた場合でも笑って許し、理解し合おうと努力するのがアガペだ」
愛みたいな目に見えないものを定義づけするのは難しい。愛する人に囁く時でさえ、人は想い悩み、正しく表現するための言葉を探している。
「それは言い換えるなら大きな器に溜められた自由に受け取り可能なワインのようなものですか?」
クリスティはまたも問いかける。絶対に壊れない大きな器。そして、絶対に枯渇しない愛。実際に相手を愛する前に相手を愛しぬくという覚悟が無償の愛を支えている、とアイザックは考えている。
「しかし、相手は炭酸飲料が飲みたいのかもしれませんよね」
自分が用意したものは受け取られないかもしれません、とクリスティは否定的に正す。これは、難題である。自分が報われない事実を無視してそれでも愛を貯蓄し続けるのは難しい。それでも現状を維持しようものなら、途方もなく楽観的で、自分に都合がいい結末が訪れるという展望が、あるいは狂信がそこには必要だ。しかし、その期待は巨大な器を支えるにはあまりにも不確かじゃないだろうか。汲み手もいない虚構で満たされつづける器はいつか黒く浸食されかねない。個人で維持できるような重量ではない。それが愛だというのなら、きっとアガペとは狂乱の独善だ。
「私は人がアガペに至る条件は、相手の方を決して見ないことだと思います。アリシアの夢はそういう無理解から生まれた憧れではないでしょうか」
本来近づけないくらいの距離感だから成立する感情なんですよ、とクリスティは言う。その種類の愛情が今のアリシアの最上位に位置しているのなら、きっと彼女が近くにいる人間に持つ好意は優先権のない2番目以降だ。たとえどれだけ彼女を応援しても、それは協力者としての隣人愛で処理される。パートナーでも、それは恋愛感情を抱かないビジネスパートナー止まりだ。
「アイザックはアガペよりもう少し利己的であるべきです。アリシアを自分と同じ場所に留めておきたいでしょう?」
クリスティはドライブスルーの窓口から熱い紅茶を受け取ると窓を閉める。いつの間にか自分たちがティショップに着いていたことにアイザックは今更気が付いたのだった。
「だけど、それは結局根本的な問題を無視していないか?いくらアリシアがどんな想いで目標を定めているのか分かったって、僕に出来ることは変わらない。僕には彼女を応援する以外の選択肢はない」
「そんなことないですよ。期待値が低いなら次に向かうまでです」
アイザックのポケットから着信音が鳴る。友人からホームパーティーの誘いを受け、アイザックとクリスティは都市部へと向かって車を走らせることになった。せっかく海辺まで行こうと思っていたのに残念だ、とクリスティは思う。しかし、どちらにせよ浜までは近寄らなかっただろう。潮風でアイザックの新着のスーツが痛んでしまうのは忍びない。
「それは流石にひどいね。まるで、肉がなくなるから一生野菜だけを食べ続けろって言われている気分だ」
紙コップに入った紅茶を一口だけ啜り、アイザックは話題に戻る。
「そういう意味じゃないですよ」
クリスティは否定したものの、それも間違いじゃない選択肢だと思う。時刻は午後2時を少し過ぎた。クリスティはサングラスを掛ける。太陽の位置は頂点を過ぎてもなお眩しい。
「肉は食材売り場から消えるにしてもアリシアはまだこの世界にいます。なら、彼女を夢から覚ませばいいんですよ。メルヘンな夢は浅いうちに、手遅れになる前にアイザックが手短に叶えてあげて、次の目標に向かわせてあげればいいんです」
海岸線は人通りも少なく、運転していて爽快だ。新鮮な空気を求めてクリスティは車の天井を開ける。額に当たる風が気持ちいい。
「それも十分ひどいと思うけど」
アイザックが隣を見ると悪そうに笑うクリスティの口元からは白い歯が覗いていた。クリスティは時々そんな風に、アリシアみたいに笑う。
車は風を切りながらぐんぐん加速していく。
「アリシアの夢はアイザックにとっては時限爆弾みたいなものです。皆で未来を笑顔で迎えるためには、貴方がコードを切らないと駄目なんです。それがどんなに素晴らしく綺麗に並んでいても、コードに見惚れるのは間違った行いでしょう?」
アリシアはおそらく、想像もできない様なまだ見ぬ世界を夢抱いている。彼女の目的は異文化交流。だが、原住民と親睦を深めるいうよりは未踏で未開な存在事態に興味があるということではないだろうか。
これに対し、アイザックが研究資金を援助するという案は持ち越した方がいい。なぜなら、アリシアはその資金で海外に飛んで行ってしまうし、危険な土地から帰ってくる保証もない。彼女がターザンみたいな原住民にコロッと落とされる可能性もある。彼女にとっては原住民は魅力6割増しくらいに映るのではないだろうか。それを加味してもアイザックがアリシアと一緒にいたい以上、わざわざ彼女を離れたところに送らない方がいい。
なら、答えは一つしかない。アイザックが彼女の理想になればいい。アリシアが未知の世界に憧れているならば彼自信が神秘的な原住部族と関係を持ち、その代表としてアリシアに歩み寄れば全てが丸く収まるのだ。むしろ、アリシアが本格的な調査を行っていない今でしか不可能な壮大な誘導作戦と言える。
人が憧れる広い世界を彼の領域に畳み込むことさえ、アイザックの場合は出来る。大富豪であるアイザック・J・コネリーに不可能など、現世には存在しないのだ。
それから3日後、アイザックとクリスティは船をアフリカ大陸へと運航させた。
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私を信じてくださいとは言ったものの、クリスティに森林探索の経験があるわけではない。そもそも本来のクリスティの正規の肩書きはコネリー財閥の法務処理や経理管理で、その傍ら、昔から務めているアイザックの付き人を続けているのだ。クリスティは未開の地で未開の原住民を相手取ったことなどもちろんない。そんなクリスティが今回の遠征のために出来ることと言ったら、本職の冒険家の手配、客船停泊の手続きが限界だろう。彼女はアイザックに付いてこの甲板を下りることもない。
本当ならアイザックだって現地に赴く必要などなかった。もっと単純に、確認されているある程度社交的な部族の役所に面会の手続きをして、あちらから出向いてもらえばよかったのだ。本当の探検に参加するなんて、未開なんていう言葉に振り回されるからややこしいことになる。アリシアの夢を中途半端に叶える一方で、それを壊すことになる手前、アイザックなりに出来るだけ彼女の期待に応えるというつもりなのかもしれないけれど、本来ならそんな面倒な手順さえ飛ばせたのだ。
豪華客船のバルコニーに設置されたカウンターバーで、アイザックは緊張からかシャンパンをもう2本も開けている。 クリスティはスーツの襟を正して、アイザックの座っているカウンターの二つ隣の席に座る。
「本当にこの時代にいまだに文明から切り離された本物の原住民がいるんだろうか?」
船の上から眺めた対岸に見える森はずいぶんと生い茂っている。あの草木を薙ぎ払って進んでいくだけでもかなり骨が折れそうだ。アイザックが探索から戻ってきたらしっかりとお疲れ様でした、と伝えよう。それと同時に、そんな幻みたいな民族いない方がよかったんですけどね、とクリスティは愚痴をこぼすのだろう。なにせ、本当に歴史上発見されていない集落を見つけて、関わりを持ってしまえば面倒な手続きが山ほどあるのだ。別に発見者の栄誉なんていらないだろうに。本当に、アイザックの行動力は度が過ぎていて、クリスティは制御に手いっぱいだ。
不信感をあらわにしている割に、今日のアイザックの風貌はまさに冒険が待ちきれない探検家といった感じだった。これまで袖を通したことなどないだろうに、不思議と新品のサファリジャケットは彼の身体に馴染んでいる様だ。この探検が終わればお蔵入りになるとしても、赤色の虫除けのスカーフも合わせて小気味いい。
クリスティの前にジントニックが運ばれてくる。あちらの方からです、とバーテンダーはバルコニーの奥に座っている壮年の男を指さす。そこにいたのは今回、探索に同行する依頼を頼んだベル・ミックジャガー。緑の目をした彼はクリスティが信頼できる依頼斡旋人から紹介された腕利きの冒険家だ。なんでも、今までにいくつもの遺跡探索や未開開拓の実績があるらしい。
彼は金を払えばどんな依頼も受けるそうで、金払いのいいアイザックの依頼を快く承諾してくれた。黄ばんだ彼の迷彩服は冒険家というより傭兵を連想させる。
「彼に同じものを」
クリスティはベルを一瞥すると、バーテンダーに話しかけた。
「わかりました。すぐお作り致します」
バーテンダーはそういうとシェイカーを入念に水洗いし始めた。クリスティはバーテンダーを止める。
「私はお酒を頂かないので、新しいものは作らずにこれを彼に渡してください」
クリスティは渡されたジントニックをバーテンダーのほうに押し出す。
「これを、そのままですか?」
クリスティは無表情で彼の質問に応える。
「そのまま」
信頼できる冒険家だとしても、クリスティは警戒を怠らない。ベルには数々の冒険譚のほかに暗い評判もあった。依頼人と金銭面の問題で揉めただとか、機嫌が悪くなると探索を打ち切るだとか。クリスティが調べた限りで一番悪い噂は、探索の途中でまだジャングルを探索中の自分の弟を見捨てて自分勝手に旅を切り上げたというものだ。
確かにベルの経験と技術は信頼における域に達しているのだろう。しかし、警戒はしておくべきだとクリスティは考える。
ベルと相席している若い女性はニーナ・スパロウという最近名を挙げてきた若手の探検家だ。彼女は先ほどから飽きもせずにベルの自慢話に付き合っている。ベルと飲み比べをしているのかと思うほど、お酒の飲み干すペースが早い。彼女はジャケットを脱いでおり、その豊満な身体をタンクトップ一枚で辛うじて引き締めている。彼女の笑い声がバルコニーに響くと、ベルもゲラゲラと下品に笑い出した。
「そろそろお酒は控えてくださいますか、アイザック氏。アルコールの臭いで虫が寄ってきます」
後ろからアイザックを呼んだ男はケリー・ジョンソン。本国から送られてきた森林愛護団体の会⾧補佐だ。強面でオールバックの風貌は愛護団体に似つかわしくない。今はスポーツサングラスで緩和されているが、眼光が厳しすぎて優しい人には見えない。唯一体格は、ああ、レジャーがお好きなんですね、森林好きそう、と納得できるほど屈強だった。これから森林を探索するというのに何故か彼は白いシャツにサスペンダー付きのパンツを着込んでいる。今回、アイザックが探索時に森林を破壊しないよう監視するということで数名の団員を連れて付いてきたが、おそらくはこれを機にコネリー財閥との繋がりを作る気なのだろう。
「僕らはこれから誰も立ち入ったことのない土地に入るんですよ?酔っぱらいばかりの探検団なんて大丈夫なんですか?」
現地調査員のカイル・ヴァンガード。注目しないといけないような人物ではない。しいて言えば眼鏡をかけている。7年も前からこの辺りで活動を続けていたとのことで、現地の地理に一番詳しいということで同行してもらうことになった。いかんせん影が薄く、いまだ発言権を得ていない。落ち着かないのかさっきから船内をそわそわ動き回っている。おそらく、今回のような豪華客船に乗船したのが初めてなのだろう。
「皆さん、くれぐれも危険なことはしないでくださいね。危なくなったらすぐに船に戻ってきてください。それから、なるべく森の深部には向かわず、夜には戻ってくるようにお願いします」
バルコニーに集まった探検団の全員に聞こえるようにクリスティは声を張った。もうすぐ上陸だ。クリスティはこの客船に残るので、ここからはアイザックと探検団が一丸となって困難に立ち向かわなければいけない。出来ればクリスティもアイザックについて補佐をしたいところだが、未開の地でクリスティの力が何の助けにもならないのは分かっている。
客船から上陸した一行を見下ろして、クリスティは小さく手を振った。
ベルを先頭に一行は森を切り開いていく。地理に詳しい現地調査員のカイルがなぜか最後尾に居座っているのには納得がいかなかったが、アイザックは何も言わずに進むことにした。蒸し暑い空気が一行を包み込む。ずいぶんと森の中を進んだはずなのに太陽は未だ枝の隙間から充分に強烈な日光で隅々を晒している。地平線が見えていれば間違いなく蜃気楼が揺れているほどの日差しだ。それが、ここではあたり一面に茶色と深緑しかない。それはそれで遠近感覚が麻痺しそうな風景だった。湿気は濡れたマスクのように呼吸の邪魔をして、意識を朦朧とさせる。進んでも 進んでも同じ景色が続いていくようだった。
ただ、耳をつんざく虫の声は次第に心地よいものへとなっていった。
「貴方の、その、付添人の方。すごい落ち着きがあって端麗ですよね」
ふいに、アイザックはカイルに話しかけられた。後ろから急に話しかけられてアイザックは驚いて笑った。
「クリスティはあれで気が強いんだ。機嫌が悪いときは特に怖い」
実際は端麗とは程遠い、とアイザックはカイルに説明する。
「クリスティが一度機嫌を損ねた時、一週間も口をきいてくれなかった。あいつは意外と細かいし、子供っぽい」
普段は社交的だとしても、その分相手にも一定水準以上の礼節を求める傾向があるのだ。
「どのくらい、その、親密なんですか?」
「僕とクリスティがかい?子供のころからずっと一緒に育ってきたからね、いまでは家族の一員みたいな感じだよ。たまに喧嘩もするけれどね」
それだけ聞くとカイルは黙ってしまった。残念ながらカイルはきっと、クリスティが苦手なタイプだろう、とアイザックは静かに考える。眼鏡は壁ほど目線を遮断しないのだ。眼鏡の後ろ側は丸見えで、そこには人を品定めしている男の顔が見える。どんなに身なりを整えてもクリスティは人の本質を見抜くだろう。
「開けた場所に出られそうだ!一旦キャンプを張るぞ!」
先頭でベルが大きな声を出した。
「我々は本当に正しい道で集落に向かっているのでしょうか」
ベルとニーナがテントを建てるのを待つ間、ケリーはカイルと進路について話している。簡易椅子に座って休息を取っているのはアイザックだけだ。先ほどまでは一切出てこなかった汗がようやく役割を思い出したかのように一気に溢れてくる。
「今回我々が接触しようとしている民族は定期的に住処を、その、変えますからね。縄張りをしらみつぶしにしていくしかありません」
カイルはアイザックが聞いたことがない情報について話し合っていた。おどおどした態度はいけないが、流石は現地調査員だ。少しだけ彼についての考えを改めなくてはいけない、とアイザックは汗を拭きながら考える。
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船は揺れる。縦に、横に、斜めに。この青い海はいつになったら茶目っ気たっぷりに船を揺らすたわむれに飽きるのだろう。海は空に反射して蒼く、しかし、その性質はまったくの真逆だ。空が神なら、海は悪魔だろう。神になり替わろうと企んだ魔物。目的のない渦。深く、静かで、それでいて生物的だ。いろんな命がそこに巣くっているのに、たくさんの命を奪うのもまたこの海だ。
客室の片隅でクリスティは立ち尽くしていた。
人はなぜ突然泣きたくなるのだろう。なんの前触れもなく、唐突に、感情が身体の外に出ようとする瞬間がある。今まで自己の中に存在していなかったはずの何かが自分を包み、取り込んでしまうような感覚。それは脳で処理される様な情報じゃなくて、もっと、 身体全体に奔る条件反射みたいな。あるいは、過去の亡霊が自分を離すまいとしがみついているのか。クリスティの仮説は十分に説得力を備えている。本当に泣きたがってるのは今の自分ではない誰か。それが身体の主導権を握ろうとしていたから、まだ歩き方を知らない赤子のように歩けなくなったのだ。抗うこと自体が哀しいほどに弱弱しい存在がクリスティに憑依して、彼女を支配しようとしている。
12年前のクリスティもまた立ち竦んでいた。今とは全く違う、雪が降っていた冬の頃だ。雪で白く塗り重ねられた鉄の街、クリスティを囲うように赤く揺れているのは炎だった。もう一つの要素、そこにあるのは光と影だ。炎上している家から広がる光はクリスティとその場所を照らす。それ以外をどす黒く包み込まんとしている暗闇。それをみている少年がいる。光の届かない所に立っていた彼は何色の洋服を着ているのかわからなかった。
もう過ぎてしまった思い出だ、と現在のクリスティは頭を振る。今更思いにふけったところで過去が変えられるわけではないし、過去の選択にも今の生活にも十分満足している。お酒の席なら武勇伝にでもなるような話だろう。ただ、順序を無視して出てきてしまっただけの思い出だ。特に脈絡もなく思い浮かび上がっただけの感情。クリスティは少し風に当たろうと再び甲板に向かった。その瞬間、
ドタ、ドタ、という乱暴な足跡がアイザックが居ない船内に響く。
やがて足音は明らかに波の音よりも大きくなり、慌ただしさを加えて増えていく。クリスティは少しだけ警戒しながら操縦室を目指して進んでいく。窓の外には不吉な影が海全体を覆っていた。
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アイザックと一行は再び森を進んでいた。森はまるで迷宮だった。太陽が上へ上へと上がるたび、森自体の生命力が増しているように感じる。巨人の体内に入ったように、生暖かく、うねっているようだ。案外、僕たちは先ほど食べたサンドウィッチのように何かに飲み込まれたのかもしれない。トマトとレタスと卵を混ぜた集団が僕らだ、とアイザックはいたずらに思う。きっと、まだ手を付けていなかったカツサンドは鞄の中で揺れていた。
この人里を離れた異様な所に住んでいる民族が都会のテクノロジーを見たら驚きで声も出ないに違いない。人はなじみのないものを畏怖し、その畏怖を隠すかのように好意的に接し、最後に敵対するか協調するかを決める。もしかしたら、彼らはもう僕たちを見つけているのかもしれない。警戒か、怖れか、理由は知らないが僕たちに声を掛けられずにいるのかもしれない。そんな妄想をしながらアイザックは前に進む。そうでも思っていなければ足を前に動かせる気がしなかった。森はうるさいほどに生命で溢れかえっているのにアイザックに孤独を連想させる。
「人って他の人の目を気にするんですよ」
アイザックの考えてることが伝わったのか、ケリーが呟いた。
「参観日に親が来て挙手率が上がるじゃないですか?あれ、実際に授業速度も上がってるそうです」
「まぁ、子供は親の前で張り切るものだしね」
アイザックは周りを見渡しながら応える。
「それで、試しに肖像画を教室に置いた先生がいたんですよ」
作業の効率が上がるか実験したところ、たしかな結果が出たそうだ。ストレス過多な教室だったことは間違いないだろうけど。
「それに感受性が高い子供は何かの風景に顔みたいな模様を見つけるのが得意だそうです。人を見るっていうことは遺伝子レベルで継承された技術の一つなんですよ」
たしかに、アイザックもいまだ姿も見えない部族からの視線を意識している。
「人里から隔離された部族も一緒なんでしょうかね」
一行からはしだいに会話がなくなっていた。
「今の、見ましたか?」
またケリーだ。
「見逃した。何がいたんだ?」
ベルが振り返る。
「鶏です。こんなところにまでいるんですね、鶏は」
「そりゃ、見間違いだろう。こんな原生林で鶏が生きていけるわけがねぇ。そいつがコカトリスってんだったら話は別だが」
ベルは道を遮るツタを勢いよく薙ぎ払った。
「地面にいる鳥は鼠にだって絶好の的だ。鳥は大地で生きていけねぇから飛ぶんだよ。でなきゃ羽なんていらねぇのさ。生きるために手に入れた進化ってこった。 羽を持ってるやつは総じて弱者だ。ましてや、羽を持って生まれたくせに飛ぼうとしないやつの居場所なんて自然界のどこにもありゃしねぇよ」
あぁ、くそ!とカイルが悪態をついた。ベルが薙ぎ払ったツタが反動で戻って彼にぶつかったのだ。結局、まだ集落は見つからないのか、と一行が意気消沈しそうになった時、アイザックは閃いた。
「野生じゃないのかも。その鶏は」
「つまり、この近くに集落があるってこと!?」
ニーナの声に一行は明るさが戻ってくる。声色と一緒にニーナの赤毛が少し跳ねる。
「ここを中心にして周囲にばらけよう。この辺りに集落がある可能性が高いと思うんだ。固まって動くより円形に広がっていった方が見つけられる確率も高くなる」
アイザックの提案に真っ先に乗ったのはベルだった。少人数の班に分かれて探索をする。そして、3時間後にこの場所に戻ってくる。もし集合地点に全員揃わなかった場合は空に信号弾を打ち上げる手筈になった。集合地点で2回、はぐれたチームはその場で1回だ。何かを目視した場合や、集落にたどり着いた場合、無線を使って全員に連絡する。
チームは3人1組に分けられた。相談の末、アイザックにはベルとカイルが同行することになった。依頼主にはもっとも経験があるプロに付いていった方がいいだろうという判断だ。ベルはなんだか近寄りづらい雰囲気を持つ男だが、やはり専門家、森林深層では彼に頼ることが多かった。目的地がはっきりしない旅路では彼の強引な決定力は貴重だ。またチームが落ち合う頃には陽が落ち始める、おそらく今日の探索はこれが最後だろう。
アイザックとしては集団で行動していた時よりも少人数の時の方が疲労は少なかった。孤独も感じなければ、煩わしさもない。気が向いたときに言葉を交わして、それ以外の時は黙っていればいい。そういうやり取りが許される空間だった。引率者ベル・ミックジャガーに案内されている体験参加者という形だ。
航海前に想像していた通りの探検をついに行なっている。正直、童心に戻ったようで悪くない気分になり始めていた。考え方によっては森の湿気のおかげで、暑くても歩ける。厳しい日差しも日陰に入ればなんとか凌げるし、下を向けば生命力を感じさせる苔が大地を覆っている。 とはいっても、アイザックは本来の目的を忘れたわけではない。
この探検の目標は部族との交流だ。この地に生息する原住民族と接触し、なにかしらの方法で部族の一員に認めてもらう。友好を深めるため、絆の証に何かを渡そう。言葉が伝わらなくても敬意が示せるものがいい。文明の叡智を極めた技術の結晶が鞄の中には詰まっている。無線機、地図、カメラ、そこまで考えてアイザックは笑った。どうやら、森での暮らしに役立てるものは持ってきていないらしい。仕方ない、必要ならカツサンドを渡そう。
森をぐるりと廻っていると、たまにケリーの班とすれ違ったりもした。森林愛護団体の会⾧補佐というだけあって彼は森にあるほとんどの植物の名前を言い当てることができた。彼にとっては森の中も見慣れた光景で、不安になるようなことはなかったのだろう。途中、何回か休憩を挟んだ。休憩のたびにカイルと他愛もない言葉を交わして、ベルが立ち上がればそれを合図に探索が再開される。
「君はここら辺の地理をよく知っているんだよね?」
カイルが頷く。
「といっても、その、僕はほとんど深部までは来ないんですよ。ここから一番近い、といってもかなり遠いんですけど、都に事務所があって、どっちかっていうと普段はその街で暮らしてる人たちの生活を対象に研究してるんです。だから、役に立てるかどうかわからないんですけど」
自信がなさそうに笑う彼だが、彼が部族の存在を提供してくれたのだ。世界中に散らばった彼のような行動力がある人間が大昔から人の世を開拓していったのだろう。専門家でなくてもいい。少しでも事情を精通していれば、ある時にひょんなことから誰かの手助けになることはあるとアイザックは思う。そんな風に、自分の行動がアリシアの夢に繋がっていれば嬉しい。クリスティはアリシアを愚かな夢から覚まさせるといっていたが、やはり未知への情熱は素敵なものだと思う。そんなことを考えていると、
「なんだよ、これは…」
つい前を進んでいたベルの背中にぶつかってしまった。
「すまない、大丈夫かい?」
顔を上げると眼前でベルが見るからに顔面蒼白でたじろいでいる。
其処にあったのは頭部が砕かれた白骨死体だった。
アイザックのものとよく似たサファリジャケットを着た骸骨に、気温が一気に下がったことを肌で感じた。先ほどまでは確かに体中を流れていた血液が一斉に引いていく。
額から吹き出た水滴はすぐに蒸発して、体温を冷まして、目が冴えてもいいくらいなのに、 目の前に広がる、まるで映画に出てくる冒険活劇みたいな、お馴染みのありふれた光景に、ただただ眩暈がする。そのくせ、今倒れてしまえば二度と起きられない予感がする。
=
あぁ、なんということだろう!
操縦室が武装した誰かに占領されている。知らない誰かは大声で笑う。
「本当に簡単な仕事だったな!」
今度は違う知らない誰かが応える。物陰からはよく見えないがどちらも覆面をしているようだ。
「マジっすね!あのコネリーの船を襲うってんで、結構緊張してたんですけどね。いやぁ、よかったっす。正直一人くらい殺すの覚悟してたんすよ」
この二人組のフェリージャックはこの船に誰が乗っているのかを知っている!? クリスティは扉の影に身を潜めたまま、耳を澄ませる。状況は最悪だ。
「こんなことしてただで済むと思ってるのか?」
羽交い絞めされた船⾧がわずかに震えた声で問いただす。
「あぁ!?」
次の瞬間、鈍い音と共に船⾧が吹き飛ばされた。彼はそのままお腹を抱えてうずくまる。クリスティは悲鳴を堪える。見つかったら自分も終わりだ。
「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ、兄貴。目的の船は手に入れたんだからこれ以上乱暴する必要はないっすよ」
「わかってんだ、そんなことは。俺だってこいつが頭にくる態度してなければ殴ったりしてなかっただろうがよ」
お前のせいだよ、と倒れている船⾧に再度蹴りを入れる。もう一人の小柄の方が苦い顔をして船⾧の足もとにしゃがむ。
「あーあ、痛いっすよね。ご愁傷様です。俺ら別にめちゃくちゃ悪い奴らってわけじゃないんですよ。仕事がなくて、兄貴が船酔いしてなけりゃ、どこにでもいる一般人なんす。んで、今回の仕事っていうのがどうも面倒で、とりあえず船を襲えって言われてるんすよ」
最悪でしょ、と笑みを浮かべたまま小柄の男は言った。
「あんたどっから来たの?同郷だったりしないかな?」
小柄がピストルホルダーから拳銃を抜く。
「アイザック・J・コネリーの専属?だったら、死ぬしかないんだけど。俺らと同じ一般人なら監禁、だけで済むかもしれないんで、仲良くしましょうよ」
「おい、ペラペラ喋ってんじゃねぇ、狸。個人情報を掴まれたら殺すしかなくなるだろうが。もうやっちまうぞ」
「じゃぁ狐の兄貴がこの船運転するんすか。俺嫌っすよ、こんなところで兄貴と漂流するの」
二人は口論を始めた。言葉の訛りが強くて少ししかわからないが、狐と呼ばれている大柄の男は短気で思考が短絡的であぶない。しかし、あの男がもう少し船⾧に近づけば、入口近くに設置された無線機を取れるかもしれない状況だった。
「だいたい、覆面してんだから大丈夫っすよ」
二人とも入口の方は向いていない。
「覆面してたってこんなにうるせぇ奴は一人しかいねぇだろうが。逃げられたら一発でバレるに決まってる」
あとちょっとで無線機まで手が届く。船⾧と目が合った気がした。お願いだからそのまま黙っていて…!
「一人しかいねぇって言われてもねぇ。覆面の方は何人いると思ってるんすか? 絶対わからなくなりますって」
狸と呼ばれたがふいにこちらを向きそうになる。刹那、船⾧は声を張り上げた。
「待て!私はコネリー氏とは関係ない」
狸は歪んだ笑いを隠そうともせず、マスクを脱いで船長に銃口を向ける。
「…あぁ、そうなんすか。残念」
そして、クリスティの手が無線機に届く!
「止まれ!」
背後から声がした。
まさか、侵入者は二人組じゃなかったの!?
クリスティはそれ以上考えることなく甲板に向かって駆け出す。後ろを振り返る余裕はない。またあの二人が言い争っている声が頭の後ろの方から聞こえる。見てしまえば動けなくなる!
そして、クリスティは大海原に飛び込んだ。
クリスティは息が続く限り潜る、潜る。
岸にたどり着くんだ。アイザックは無線を持ってる。彼があの犯罪集団に見つかる前にしらせなくては!
「あーあ、逃がしちゃいましたね」
狸は軽口を叩く。
「お前が喋りすぎなせいだ」
狐は狸の頭を殴る。
「あ、いって!ひどいじゃないですか、兄貴!それより依頼主はどこ行ったんすかね?」
「ああ?そりゃ、今頃アイザック・J・コネリーと森の中だろ」
=
「この辺りが危険な地帯という報告は聞いていないぞ」
ケリーは声を押し殺したまま、そういった。誰を責める訳でもない独り言のような調子で、それはおそらくカイルに向けられている。
「僕の専門外ですよ。こんなの、僕が知ってるはずがない」
「でも、これを見てしまったら…」
アイザックは目を背けることができずに立ち尽くしていた。ベルが死体を念入りに調べる。出てきたのは古いジッポライターだ。きっとこの死体は行方不明のまま、何年も野晒しになっていたのだ。
「探索は終わりだ」
ベルはライターをポケットに入れて、来た道を引き返す。
「どこかの探検家だったのでしょうか」
カイルは眼鏡を拭いて、もう一度白骨死体を見る。
「どうだっていい、そんなこと」
ベルはカイルを押しのけてきた道を戻る。周囲を警戒するそぶりも見せず真っすぐ進んでいく。
「あの人、一度この土地に来たことがあって、その時も途中で探索を打ち切ったのよ」
ミックジャガーって言ったらあたしが幼かった頃は結構知られてた冒険家だったんだけどね。そう言って、ニーナはベルの後を追った。
そんな前情報はベルから聞いていない。アイザックは少し不安を感じたまま、船に戻る道を歩き出した。
*
私のことを誰もが指さした。私は誰のことも知らないのに誰もが私を知っていた。何もしなくても光がこちらを向いている。全方位の照明は私に汗を流すことを許しはせず、正体不明でいるつもりだったわけではないのだけれど、私のシルエットを地面にこれでもかというほどに焼き込んだ。光の中で伸ばした細指は何重にも影が重なって、まるで蝙蝠のように歪に見える。
哀れなのは蝙蝠だ。鳥です、本当は獣なんです。両方の顔を立てれば最後にはどちらでもないだなんて仲間外れにされてしまう。牙があるから獣だ。羽があるから鳥だ。初めにそんなことを言い出したのはきっと蝙蝠ではないのに。牙だって、羽だって、光の中では隠せない。だから、蝙蝠は夜にしか飛ばなくなったのだ。羽を千切り、牙を折るよりはずっとマシな選択なのだと信じる様に。
だからこそ私を貫かんとばかりに照らす光は、まるで私の全てを暴こうとしているようで浅ましい。私の転落を見逃さんと目を凝らしているようで忌々しい。誰も私に関わろうとはしないくせに見世物として眺めている。羨望も同情も、あるいは敵意さえそこにはない。ただ当たり前のように誰もが蝙蝠を見ていた。その正体になんて興味もないくせに、いたずらに刺激してのたまうその姿を楽しむために、私は見られていた。私がどんなに嫌がっても彼らは外野からとやかく言うだけだ。どれだけ蝙蝠が話題になっても、当の蝙蝠は会話の中にはいない。何度も読み聞かせられた童話と同じ。
大地を覆いこむほどの炎。純白の雪は溶けだして、その下からさらに冷たい鉄の色をした地面がむき出し始めている。
「君は、だれだ?」
見知らぬ少年が光の外側に立っている。
ずっと見てきたのに。意気揚々と追い回したのに。今になって私が誰かもわからないのか?
私の内側から溢れてくる悪感情とは裏腹に、その時はじめて光が私の外側を照らしていく。
静寂なんてない。炎がゴウゴウと燃える音。けたたましい消防車のサイレン。今まで散々聞こえてきた群衆の声は他の騒音によっていとも簡単に潰されてしまっている。それになにより、私の泣き声が一番うるさい。
私も知らない。
本当は知らないのだ。
私は誰なんだろう?
*
「オマエハ誰ダ」
クリスティが目を覚ますと、そこには面妖な仮面を装着した小柄な少年が立っていた。
周りを見渡しても鬱蒼とした森の中には他に誰もいない。クリスティは直前までの記憶を思い出そうと、一旦目の前の現状を無視することに決めた。少し離れたところに砂にまみれた無線機がある。そうだ。たしか、船を襲われて、海の中に飛び込んで…
どうやら、無事に岸まで泳ぎ切ったところで力尽きたようだった。お気に入りのスーツはヨレヨレになってしまってた。体から僅かに潮の匂いがする。
「ヨソ者、カエレ」
仮面の少年はまるで孔雀が求愛ダンスをするかのように両手を広げて自分を誇大化した。よくみると半裸だ。
「ヨソ者、イナクナレ」
なんというか、茂みにでも隠れていた方がまだ威圧感があったのではないだろうか。わざわざこちらの言語を使ってくれているあたり、親近感さえ抱いてくる。仮面の少年は腰に付けた装飾品をジャラジャラと鳴らしながら近付いてくる。きっと、彼の部族の習わしなのだろう。
「喰ウゾ!」
少年はいつの間にか構えていた槍をクリスティに向けて叫んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!私を食べてもおいしくないですよ」
親近感なんて抱いている場合じゃなかった様だ。クリスティは急いで立ち上がる。
「人間なんて食べたら病気なって死にます」
クリスティは木の陰に向かって走りだした。仮面の少年はジリジリと迫ってくる。
「太ク、短ク、イキル事、大切」
なんだこの子、かなり言葉を話せるぞ?発音は片言だが、こちらがちゃんと伝えようとすればしっかりと意思疎通できる相手かもしれない。
「貴方はそれでいいかもしれませんが、私はまだ死ねないんです。アイザックを見つけるまでは、生きていないといけないんです!」
「アイザック…」
少年はこだまの様にクリスティの発声をまねる。
アイザック・J・コネリーは超一流不動産の御曹司だ。その肩書きに似合わず、真っ直ぐな青年だ。あるいは、思慮深さよりも行動力の方が勝ってしまう青年で、町娘の夢を自らの身体を張って叶えに未開の地に足を踏み入れるような無謀なところがある。だからこそ、彼が思い描いている世界は現実とは大きく食い違っている。
彼が考えているより彼の敵は多い。彼は彼自身の富に人生を縛られているのに、その富の使い方をまだ正しく知らない。味方も敵も彼ひとりで対応するには多すぎる。それゆえにクリスティはアイザックの補助を任されているのだった。財閥としての正解不正解は彼女の勝手知ったるところだから。クリスティがアイザックを先導していけば、突拍子もなく海賊のような輩が現れない限りは、アイザックに問題など起こることはないはずだった。
「船が襲われてしまったんです。はやくアイザックに伝えないとひどいことになる」
木の陰からクリスティは言う。槍の圧力から逃げ延びることに必死で無線機を少年の近くに置いたままにしてしまっていたことに気が付く。
「オマエハ、誰ダ」
そうだ。こんな時こそ私がしっかりしないといけない、とクリスティは自らを奮い立たせた。私は誰か。それを確定させるのはいつだって自分自身に決まっている。自己紹介の時ほどもっとも明確に意思表示を出来る瞬間はない。無駄な勘繰りよりも早く、自分の立場を公言する。
「私はクリスティ。アイザックの付き人です」
「ツキビト?」
仮面の少年は不思議そうに首をかしげた。クリスティの少年に対する仮説は確信に変わる。この少年は正しく説明さえすれば理解してくれるのだ。
「そうです。アイザックを助けることが私の役目です」
少年は少し考えて、言った。
「ガイド、ノヨウナモノカ?」
共通の常識があれば会話はさらに簡単になる。
「そうです!コネリー財閥の秘書といえば、わかりますか?」
「アイザック、イナクナッタ。オマエ、イラナイ」
少年は再び槍を構えて近づいてくる。脈絡の見えない発想だ。だが、クリスティは諦めない。相互理解がまだ足りていないだけだ。
「それは違います。勝手に条件を逆さにしないでください。私がアイザックを助けるんです」
「アイザック、何者?ナゼタスケル?」
クリスティは少年が理解できる言葉を探す。世界屈指の億万長者といったところで、紙幣も知らない部族の少年が理解できる言葉ではない。
「アイザックは」
槍が近づいてくる。槍の先端はクリスティに近付くたびに異様な雰囲気を醸し出して、鋭利に尖っていくようだった。
「とてもすごい人なんですよ!この世界のほとんどのものが彼の所有物です!だから、もし貴方が私たちを助けてくれれば十分な恩恵を与えることもできます」
クリスティは咄嗟に叫んだ。どうかこの仮面の少年が正しく理解できますようにと願いを込めて。
「・・・カミサマ?」
辞めた。完全な意思疎通は諦めよう。誤解を解くために摩擦を起こしても仕方ないし、多少の文化の違いは仕方がない。そうに違いない。
「そそそ、そうです!ある意味神様ですね!恩赦はもちろんはずみますよ!大抵の願いなら叶えられるはずです」
クリスティが言い終わるよりも早く、少年は目にもとまらぬ速さでクリスティの後ろに回った。
「オレ、ンゴイ・バンバ、カミサマノ守護者」
「オマエノコト、オババ二聞ク」
ンゴイの手には大事な無線機が握られていた。
=
「これはどういうことだ?」
アイザックが船を目指して森を出た時、夕凪に待機しているはずのそれは蜃気楼の如くその姿を消していた。
「い、いろんなことが起こりすぎて、その、理解が…」
まさしくカイルの言う通りだった。まるで、いつの間にか違う世界に紛れ込んでしまったかのように、不自然なことが当然のように次々と起こっている。
原住民の居住区を探しに森林に足を踏み入れたアイザック一行は、長い探索の末、ついに目的を果たせなかった。現地調査員であるカイル・ヴァンガードによると、この農業に適さない森に住む部族は定期的に森の中を移動するタイプの遊牧民だそうだ。だから、一行が事前に手にしていた位置情報は本来の意味をなさなかった。そこに鶏がいたことから放牧民が現存しているのは間違いない、とわかったところで一日目の探索は終了するはずだった。
そんな中、探索を先導していたベテラン探索家・ベル・ミックジャガーが白骨死体を発見する。丁度いまアイザックが着用しているサファリジャケットに似た衣類を羽織った骸骨だ。その時ベルが一瞬見せた焦燥を気遣ってか、女冒険家ニーナ・スパロウがそれ以降ずっと彼に付き添っている。
「どうして船がないんだ」
アイザックは途方に暮れる。
「誰かに襲われたのかも。とにかく、船がないとこの物騒な場所から出られないですね。これは非常事態ですよ」
本国からアイザック一行の付添いとして同行しているケリー・ジョンソンが取り巻きと共に後方から歩いてくる。
「そんなことどうだっていい!」
アイザックは我を忘れた様に怒声を吐き出した。彼の怒声をケリーはひらりとかわす。まるでアイザックの主張など聞く気がない態度だった。
「この森は危険だと忘れたんですか?明らかに人の手で誰かが殺されていたんですよ。頭が不自然に砕かれていたのを見たでしょう?」
「森の方が危険だと思ったから、僕はクリスティを船に残したんだぞ」
身体の中の熱を抑え込みながら、アイザックは言う。
「森の部族が船を襲ったんでしょうか?」
自分の発言を不安に思ったのか、カイルの眼鏡が彼の鼻の上でカタカタと揺れる。
「それ以外ないでしょう。我々が森に入って船を留守にしている間にまんまと退路を獲られたんですよ」
ケリーは一旦呼吸を正す。
「文明の発達していない原住民だと呑気な想像をしていましたが、現代まで生活体系を変えていないんだから、モウセンゴケの様に狡猾な狩猟パターンがあると考えるべきだった」
モウセンゴケは自分の葉から甘い粘膜出します。それを目当てにやってきた蠅をその粘膜で捕まえます、私たちは蠅だったんですよ。ケリーは持論を立てた。
「ネガティブな予想を吐き出すのはよしなよ。どうせ気が晴れるわけでもないんだし、士気に関わる」
ニーナが赤毛を揺らす。
「変な妄想に関わる余裕なんてあたしらには無いんだから」
突如、無線に通信が入る。
『コレハ?』
『ちょっと、勝手に触らないでく … !』
電波の向こう側から聞こえてきたのはクリスティの声だ。
「クリスティ!」
無意識のうちにアイザックは無線機を強く握りしめる。クリスティが無事だ。張り裂けそうだった彼の心臓から、今度は安堵が身体を巡る。
『アイザック!無事 … たか!』
「君の方こそ。船が見当たらないんだ。僕はてっきり何かあったんじゃないかと心配して…」
『船が、襲われ … 』
無線越しの彼女の声はかすれていて、なんとも聞こえずらい。電波の不調のせいなのか、二人の間にスコールが降っているような重たい音がザーザーと会話の邪魔をする。
『ナンダ、 … ハ』
『今私と話し … のがアイザックです。待って … い!』
向こう側でクリスティが誰かと揉めている。こいつが船を襲った犯人だろうか?
「クリスティ!今どこにいるんだ!?」
『アイザック、今はどこかに避難して … さい。 … を狙う … がいます。私は大丈夫で … アイザックの安全 … でき … 救出隊を要請 … い。繰り返しま …。 私は … から … アイザックの … その後、森に … ださい』
「クリスティ!聞こえないんだ!電波が悪くて…」
『待って!その槍を向け … !』
ブツッ。
「クソ!!」
通信は不穏な空気を残したまま、一方的に遮断された。
森の中へと向かうアイザックを力尽くで止めたのは、先ほどまで意気消沈していたベルだ。彼の手のひらは固くアイザックの肩を掴んでいた。
「離してくれ」
アイザックは握られた肩を確認する事もなく。
「駄目だ。俺たちはもう森には入らない」
だか、ベルも引き下がらない。
「ここからしばらく歩かないといけないですが、都市部に近付けば、都の電波をキャッチできるはずです。ぼ、僕の事務所もありますし、仲間が迎えに来てくれるはずです。一旦この森を離れましょう。ここの原住民は、どうやら、危険すぎます」
カイルが二人の後方から頼りなく声をかける。
「どうやらって、あんたね。どう考えたって危険じゃない。外部との接触を避けてるとは思っていたけど、100パーセント敵視されてる」
ニーナは無線の通信を何度も試みた後、力なさげにつぶやいた。
「駄目だ。クリスティを置いてここを離れられない」
アイザックはそう言うとベルの手を剥がす。ベルの目に刹那、殺気が宿る。
「旦那、状況がやばいんだ。もちろんアンタの安全が最優先だが、こう聞き分けが悪いんじゃ俺も手荒になるしかない」
「ベル・ミックジャガー、雇い主は僕だ。僕は部下の救出を敢行する」
ベルは何も言わない。
致死性を大いに含んだ鋭い緊張が部隊全員を刺す。心臓の鼓動と同じリズムで繰り返し肉を抉られるような感覚だ。
しかし、それは緊迫する二人から放たれたものではなかった。
ケリーが、そして彼の取り巻きが、二人に対して銃を向けていたからだ。
「アイザック、貴方は自分に何が起こっているのか、まるで理解していない」
ケリーは銃口を向けたままアイザックをロープで拘束する。
一行の誰もがケリーの放つ異様さに圧倒されていた。いままで隊を指揮していたベルでさえも信じられないような眼差しでケリーを見る。まるで、有無を言う隙などなく、森林愛護団体から派遣されてきたはずのケリーは、むしろこの緊迫状況をこそ慣れ親しんでいるかの如く、ごく当たり前にその場を支配した。彼の取り巻きも初めから決まっているマニュアルに沿っているように連携している。
「だから本当に嫌いなんですよ、この仕事。こういう案件は他に回せばいいのに」
ただ一人、ニーナだけがケリーの呟きを聞き取る。その言葉の意味からこの場を考察するための平常心をかろうじて保っていた。つまり、コネリーが渦中の中心にいるのだ。たった一言でニーナは答えに至る。今回の仕事は大ハズレだ。
=
「まず言葉が出てこなくなるんですよ。その後、歩けなくなって、原因不明の笑いが止まらなくなって、死にます」
オババなる人物を訪ねて歩く道中、クリスティは食人によるクールー病の症状を第一ステージから最終ステージまでできるだけシンプルに後方のンゴイに説明していた。
「太く短く生きるどころか、酷く惨めに死ぬんですよ。嫌でしょう?」
出来るだけ悲惨な描写を踏まえて見たこともない病気の実態を強調、補強する。無線を取り合いになった騒動の後から、少年がこちらに槍を向けてくるからだ。食べられて死ぬなど御免極まる。絶対いやだ。一方的に殺されるうえに味を評価されるなんて、これぞ恥の上塗りの極みである。
「パタンと死にます」
アイザックとの唯一の通信手段だった無線機は先ほど浸水した状態で酷使したせいで壊れたらしい。一度乾くまで待って再度試せばもしかしたら使えるかもしれないが今は使えない。少年が勝手に手持ちの無線機を弄りだした時は驚いたが、結果アイザックと交信できたのは幸いだった。今頃、一行は市街地に向けて移動しているはずだ。どれくらいかかるかわからないが本国に連絡さえ出来れば救助隊が駆けつける。
「呪イ二、ニテイルナ」
ンゴイは考えている。文明が発達していない地域では病はしばしば呪いとして受け入れられる傾向がある。なぜだか人間は理解の及ばないものを魔術のカテゴリーに入れたがる。
「貴方たちは人を食べるんですか?」
もしそうだったら、それは呪いではなく、自業自得の生活習慣病だろう。
「ズット前二、失ワレタ文化ダ。アチコチデ、呪イガ起コッタ」
ビンゴ。
「呪われて当然ですよ。悪食なんて」
ンゴイは槍をクリスティの背中に当てる。
「喰ウコト、悪ク言ウ、ユルサナイ。俺ノ名前、喰ウ人トイウ意味」
クリスティは慌てて歩を進める。
「タベル、チカラモラウ」
「人間を食べても力なんて貰えませんよ。君の身体が汚れるだけです」
発想が前世代すぎる。まるで猿。この少年は世界がどれだけ汚れているか知らない。毎年途絶えることのない大気汚染や病原菌の蔓延を知らせるニュース。現代人はそんな情報を毎日受信しながら生きている。そんな私たちが普段食べているものはもちろん常に誰かによって育てられている。問題が起こったときに責任者を言及する為も含めて、日々の食事の危険性ゆえに管理されているのだ、当たり前だろう。中でも富豪たちが食す最高級の豚は除菌が完璧に行われている環境で、ウルフギャング・アマデウス・モーツアルトの曲を聴きながらストレスフリーに飼育されている。そういう面で考えれば同じ温室育ちのアイザックはたしかに食べられるのかもしれない。だが、私は駄目だ。そうクリスティは思う。
「大体、なんで食べるんですか」
「オマエ、怖レ、ナイ。オマエノチカラ、欲シイ」
それは後ろから向かってくる槍があるから前に進む歩みを止めるわけにはいかないだけだ。彼女の死角で草木がザワザワと揺れる。
「食べるだけで力がもらえるなんて信じているなら、ただの怠慢ですよ。君は鳥を食べれば空が飛べるんですか?それ以前に君の安心のためにどうして私が犠牲にならなくてはいけないんです。そんなことしたら呪いますからね」
クリスティは後ろを振り返って捲し立てる。誰かも知らない赤の他人に分け与えるものなど彼女の人生には無い。奪い取るというのなら戦うまでだ。
しかし、後ろを振り返ったクリスティの視線にはもう槍をこちらに構えているンゴイはいなくなっていた。視界を広げてようやく見つけたンゴイは、クリスティとの戯言にもはや構っていられない様子だった。
どこからか現れた狼の群れが少年を襲おうと身を低くしていたからだ。
狼たちは腹を空かせているらしく、涎を垂らしながら唸っている。森を歩いているときに見つかったのだ。あまりに大きな声を出しながら森を闊歩していたせいで野生獣に気付かれてしまった。環境に馴染んでいない存在を知らしめてしまった。鋭い眼光が獲物の一挙一動を冷静にとらえている。
私のどこが怖れ知らずなものか。現に今、私の足は竦んで動くことすらままならない。クリスティは狼と少年から距離を置くために後ずさろうとしてよろける。前を向いて進むより後ろに下がる方がよほど難しい。恐怖はそんな当たり前のことを忘れさせる。怖れに視覚を奪われた羊がただ食べられるために気絶してしまうのは、きっとそのせいだ。
食べられたくなんて、ない。でも、食べられるなら一撃で殺された方がいいのかも知れない。出来るだけ簡単に殺されよう。逃げられないなら痛くない方がいいに決まってる。ひと噛みで終わるように殺されよう。アイザックの探索隊は先ほどの指示通り無事に森を抜けるはずだし、そうなればこの危険な森にアイザックが2度と足を踏み入れることはない。彼の安全はいま私が懸念しないといけないことではないはずだ。アリシアの夢は残念ながら敵わないだろうけど、きっと彼がなんとか埋め合わせをするだろう。一方的に二人を仲介して、結末を見ないまま無責任に私は消えてしまう。酷いありさまだ。私は、嫌われてしまうのだろうか。
…生きていたい。
結局、死の恐怖はクリスティを動かす。螺旋の様に回転していく彼女の思考を置き去りにクリスティは一目散に走った。
荒い道を走るたびに小枝がクリスティの白い肌に生傷を作る。
仮面の少年がクリスティの後を追う。
狼の群れが好き勝手に吠え散らかしている。
後ろを振り返る余裕などないが、恐らく追われているのだろう。
また何処かで遠吠えが聞こえる。
走る。走る。走る…!
少年が牽制しているのか、狼たちの牙はいまだクリスティの元には届いていない。
そう思った矢先、クリスティの前に白い狼が立ちふさがる。先ほどの群れの中にはいなかった。他の狼より倍は大きい。あまりの驚きにクリスティはつまずく。疾走した勢いのまま地面に転倒した。体のあちこちから送られる沢山の電気信号を脳が上手く認識できずに、全てを合わせて刺すような温度に変換される。痛みは感じないがクリスティは固く瞳を閉じる。
駄目だ。死んだ。
ごめんなさい。
しかし、いつまで経ってもクリスティの痛覚は反応しない。遠吠えが鳴り響く。狼の群れが退いていく足音。何事かと目を開けるとあの大きな白狼を初老の女性が撫でていた。少年と違って仮面はつけていないが、格好は似ている。
「わしは先々代の呪呪。その子の師匠で祖母じゃ。小娘、お前はさっきから随分騒がしいね」
仮面の少年が初老の女性に駆け寄る。
「オババ、タダイマ!」
=
ケリーが率いる一行はアイザックを連れて森のはずれの荒れ地を進む。哀愁が太陽の温度を下げていた。
「も、もう電波がきていてもいいんですが。もう少し西を目指して歩いてみませんか?」
カイルは地図を見ながらケリーに近寄る。恐る恐ると。それでも彼がケリーに踏みよるのは自分の優良性を少しでもアピールするためだろう。もう何度も意味のない提案を繰り返している。
「我々はこのルートで行く」
ケリーは無機質に応答する。端的に会話すれば肺の中の大事な空気を無駄遣いしない、と考えているのかもしれない。
「たしかに街に最短距離で向かうよりはこのルートを使う方が安全だろう。もし誰かが俺たちを待ち伏せをしているとすればだが、一番危ないのは誰でも通るルートだ」
ベルがケリーの言葉を補足する。
「だけど、モタモタしていたら森から追手が来るんじゃない?」
ニーナはベルに付いていく。拘束されているのはアイザックだけだ。
「そ、そうですよね」
一行は再び歩きだす。
日が沈みだし、晴天は徐々に深紅に浸食される。
夕食を賑やかに過ごす覇気などなく、誰もが個別に黙々と用意された塩で味付けされたスープを頬張る。誰もが沈黙している夕食、ベルがアイザックに近付いてくる。アイザックの見張りを申し出る為だ。二人の間に誰もいなくなった後、ベルはぽつぽつと話しだした。
「旦那、話がある」
アイザックは一瞬、無言で彼を見る。
「白骨遺体のことか。あれを見てから君の態度がおかしくなったものな」
沈黙。
「あれな、あいつは俺の弟だ」
ベルが死体から見つけたジッポライターを空にかざす。鉄製のそれは夕焼けに反射して、紅く。
「このジッポはあいつの誕生日に俺が送ったものだ」
ベルはアイザックにライターを放り投げる。ロープで括り付けられた両手でなんとかアイザックはそれを受け止める。
「俺と弟は一度この土地に来たことがあるんだ。誰に依頼されたわけでもなく、自分たちの好奇心や使命感に燃えてた。馬鹿な20代だった」
ベルは唾を吐く。
「その冒険で俺は弟を失った。何週間も探したが、遭難した弟を見つけることができなくてな」
ベルの目線の先をアイザックは意識的に見ないようにする。
「クリスティはまだ生きている」
「旦那、街に着いたら俺がアンタを解放してやる」
敵に発見される危険性を考慮してか、遠くの方でニーナが薪に水をかけた。
「俺は弟を殺した奴らを許さない。だが、俺個人で出来ることなんて限られてる」
アイザックはベルを見る。彼の翠眼は深く、何かを見据えている。
「アンタの金で軍を雇って、この土地の原住民族を根絶やしにしよう。これは俺たちの復讐だ」
かがり火を失った空間。微弱な風が簡単に熱を持ち去る。スープを取ろうと伸ばしたアイザックの手をベルが止める。
「俺は弟の仇を取るまでは死ねないんだ。旦那、頼む」
ケリーの合図の後、一行はふたたび動き出した。後れを取らぬよう、食べ損ねたスープをそこに残してアイザックは立ち上がった。
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オババはクリスティを連れて集落を歩く。幻想的でそれでいて呆れるほど原始的な造りの集落。目の前に広がる深緑の大地。森の奥には苔が生い茂っているポイントがいくつも在るようで、オババ達はそういう土地に動物の革で作られた壁で囲われた村を作って暮らしているそうだ。クリスティは張りぼての秘密基地を連想する。それは集落のどのエリアにも雨風をしのげそうな屋根が設置されていないからだ。その代わり、革の壁を突き抜けていく様に大木の枝々が張りぼての村の頭上に生い茂る。村を作る際、木々の2番目に低い枝より上は手を加えない規定がある、とオババはいう。
大昔からこの森で暮らすオババ達の部族は自分たちのことをラタタタムと呼ぶらしい。ラタタタムの民は魔術の存在を肯定する価値観を持ち、病気などの目には見えない現象を魔障の一種として信じてきた。村に医者はいない。医者の代わりに村人を治療してきたのが祈祷師、呪呪と呼ばれる人物だ。呪呪は村人たちから敬意と共に恐れられていた。ずっと昔から誰も詳しい呪呪の所在を知らず、村人たちの方から直接会うことはかなわない。オババ曰く、魔術とは何かわからないものに対する怖れを原動力としているらしい。呪呪が仮面で素性を隠しているのもそのためで、普段は集落の中で普通の人々と同じように暮らしているが、必要に応じて仮面をかぶった正体不明の呪呪として現れる。オババが仮面をしていないのは彼女がすでに引退しているからだ。廃業の時期に差し掛かった呪呪は次の後継者を指名する。その方法はクリスティには伏せられたが、古い祈祷師はそうやって次世代の祈祷師との間に師弟とも親子とも取れる関係を築き上げる。
思いのほか、クリスティの来航はラタタタムの民に歓迎されているらしかった。通りすがる村人たちが声をかけてくる。言語がわからないので実際に何を言っているのかはわからないものの、どうやらクリスティにお近づきになりたいようだ。
「いつもこんなに友好的な訳じゃない。皆ンゴイが連れてきたお前に興味があるんじゃよ」
オババは他の民に挨拶しながらクリスティを案内する。
「そういえば、ンゴイ君はどこに行ったんでしょうか?」
道中クリスティの背中にずっと槍を向けていたンゴイ・バンバは、一行が集落に着くころには姿を消していた。
「あの子はちょっと特殊での。身元がバレてしまっておるから村には現れんよ」
「呪呪の正体の隠匿性とおまじないの効力の親和性が高いという話でしたよね」
なるほど、ンゴイ少年は自分の怪しさを保つために、わざわざ集落の離れに暮らしているのだろう。一旦正体がバレてしまうとそんな不便な生活を強いられてしまうのか。伝統芸能の世界はどこだって大変そうだ。
クリスティは思い浮かべる。村の外を延々と彷徨っている仮面の少年。彼は自分のことを神様の守護者といった。それはおそらくは呪呪という大役を自分が勤めているという意味だ。そして、彼は自分のことをラタタタムとは一度も口にしなかった。
「すでに身元がバレているなら、村の中にいたほうが便利そうですけどね?」
「呪呪は呪いを解くといったじゃろ?かかる者がおればかけた者がいるのが呪いじゃ」
村人たちは互いに仲良さそうに見える。そう見えるのに、実態はドロドロなのだろうか?
「集落の中にはンゴイに呪いを治された者の同等の数の呪いを解かれてしまった仇がおるということじゃ」
この村の内政は良くないのですか?皆仲が良さそうに見えるのに」
「一緒にいたいから恋の御呪いを施す文化だってある。なんだって捻じれればどうなるかわからん」
それはありそうだ、とクリスティは考える。他人から向けられる感情は大抵、へんな執着が含まれているものだ。受け取るかどうかでラブレターだって果たし状に変身する。
「いろんな想いをンゴイは背負っておるんじゃよ」
クリスティが案内された居住区には沢山の人が集まっていた。
「わしの家族は多い。晩餐は賑やかになるぞい」
ポン!
どこからか、太鼓の音が鳴る。
ポポポン!
居住区を満していた人々は太鼓のリズムに乗ってステップを踏み出した。
「◎△$♪×¥●&%#!」
独特なリズムと共に居住区は熱気に包まれる。若い衆がクリスティの手を引こうとする。
「いえ、私はこのような場は初めてでして…」
よく見ればみんなバラバラの動きをしている。クリスティの近くにいる男性は蛇のようにくねくねと上半身をひねり、その横の女性はひたすらにジャンプともステップとも取れる動きを繰り返している。皆周りにぶつかりそうになりながら、楽しそうに跳ねる。この空間で誰もが好き勝手に踊りまわり、そのくせ皆同じリズムの上にいる。
ポン!タン!ポポポン!タッタ!
衆の誰かが元の太鼓に新しいリズムを加えた。
「◎△$♪×¥●&%#!」
まるで、心臓の鼓動が太鼓のリズムに共鳴していくような不思議な感覚。今この居住区の人たちは太鼓の振動音を通して言語の壁を超越したシンクロをしている。オババに説明されるまでもなく、クリスティは理解した。これは異文化だ。少なくともクリスティはここまで音が鳴り響く空間を知らない。アイザックをよく連れていく社交会はもっと静かで上品だ。パーティー会場では精練されたバイオリンやオルガンがあくまで社交の雰囲気を盛り上げるために奏でられていた。それがどうだ。ここではたとえ言葉が通じたって、騒音でちゃんと聞こえないに違いない。まるで情報交換などする気がないような、自己紹介など不必要だと言われているようだ。
「ほら、お前もまざりな」
後ろからオババがクリスティを押す。いつの間にかオババは片手に蒸し草で包んだ何かを持っていた。
「どうすればいいかわからなくて」
「今踊ってるやつらはどうやって振る舞うべきか知ってるように見えるかの?」
「いいえ」
クリスティは笑う。たしかに、クリスティだってサルサなら踊れる。クリスティは大自然に形作られたダンスフロアに飛び込んだ。
「それで良い。宴で踊らないのは死人だけじゃ」
ポン!タン!
カカカッ!
また新しい音が足された。クリスティは新しいテンポをつかむまでの間、廻った。くるくると廻っていると今日の出来事が走馬灯のようにクリスティの頭の中に巡る。今日一日だけでいろんなことがあった。こんなに一日が目まぐるしいのは少年期以来だ。でも、何とかやり過ごすことができた。
クリスティが廻っている間に、太鼓のペースはまた加速して、この輪の中にいない少年のことを思い浮かべる隙間は次第になくなっていく。
村の若い衆がクリスティの動きを真似した。見よう見まねのサルサは歪さと愛らしさが混同している。悪戯をしたくなる愛嬌だ。たとえば、もっと難しいステップを踏めばどうなるか?とか。クリスティは難易度の高いステップを踏んだ後、少し後悔した。初めて見た動きに練習もなしに付いてこられるはずもない。と、思いきや何人かはなんなく真似をする。じゃぁ、これは?その次はこれ。少し相手を気遣って次のステップはゆっくりと。額には汗が出始め、肌は艶を得る。少しだけ息苦しいような、それすらも太鼓がエスコートするままに呼吸をすれば問題はない。身体の限界を確かめるような楽しさ。
「疲れたら晩餐だ。こっちに来な」
オババは嬉しそうにクリスティに手招きする。クタクタだった。
「この村には活きのいい男がそろっておるじゃろ?目ぼしいのはいたかい?」
たしかに、6割増しだ。慣れない異文化の中で目に入る異性は魅力が増してる。絶対。
「そういえば、オババ様はどうしてそんなに言葉が流暢なんですか?他の人たちは全く喋れないみたいなのに」
「それは、わしが呪呪だったからじゃ。叡智の奇跡、つまり勉強の賜物じゃの」
昔、この森に迷い込んだよそ者に教えてもらったんじゃ。オババは笑う。クリスティにはオババの言いたいことが分かるような気がする。錬金術しかり、魔術しかり、どこかで現代科学と繋がっている。言葉を知るということは他所から生活の知恵を得るということだ。祈祷師が一番必要なものはプラシーボ効果でも怖れでもなく、やはり情報なのだ。理解の範疇にないものを認識しないのが人間。呪呪は勉強と迷信によってその恩恵を得ているのだろう。異文化交流。ふとアリシアのことを思い出す。
「ンゴイ君がすこし喋れるのもそういうことですか」
そうじゃ、とオババはクリスティの肩を叩く。
「わしはもっとすごい。狼とも喋れるからの。見ておれ」
オババは小さい遠吠えをする。それは森で聞いた遠吠えだった。オババの声に反応して遠くで雄たけびが聞こえる。
「すごい。あの白い狼が来たのは偶然ではなかったのですね!」
「あれはわしと恋仲じゃ。わしの言うことは何でも聞きおる。愛の奴隷じゃな」
あれ、このオババ、さっきから色ボケしてる。と、クリスティは思う。口には出さないが。
「して小娘よ、お前はおるのか?ボーイフレンド。それゆえ村の男衆と一線を引いとるのか」
オババは手にした地面にあぐらを掻いて草包みを開けようとしている。
「私は普段アイザックのお世話で忙しくて、あいにく手がいっぱいです」
オババが草包みに苦戦しているのをみて、クリスティは手を貸した。
「つまらんの。今はいいじゃろ。ちょっとくらい男と話してこんかい」
たしかに、半裸の屈強な男に囲まれていれば自然発生のアバンチュールも許される気がする。
「といっても、言葉がわからないんですよ」
「だから余計エキゾチックなんじゃろが」
そんなものだろうか?自分が喋れない言語を使う相手とコミュニケーションを取ることなどめったにないので想像がつかない。そんなクリスティを見かねて、オババが若い村人を食卓に招く。男は草包みを持ちながらこちらにやってきた。
「◎△$♪×¥●&%#」
よくわからないが楽しそうだ。相手が笑顔だとこちらも釣られて笑顔になってしまう。どうやら彼は自分のご飯を分けてくれるようだ。なんて気のいい男だろう。
だが、虫だった。イモ虫。彼の指にぶら下がった香ばしい虫。
よく見たらクリスティがまさに今あけた包みの中身も虫だ。
「わぁ!」
クリスティは飛びのいた。見渡すと周りの人たちはクリスティの奇行に驚いたかのように食事の手を止めている。イモ虫を掴んだその手を。
「ゲテモノ…虫人間ばかりじゃないですか…」
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アイザックを連れた一行は遂に市街地に着くところだ。途中で無線機が街の電波を受信してくれたおかげで、一行はカイルの本拠地から助けを呼べたのだ。大型のトラックに揺られながらアイザックはクリスティのことを考える。
「さすがにお尻が痛くなってくるわ」
ニーナはさりげなくアイザックの横に移動してくる。トラックの荷台はうるさいくらいガタガタ揺れて、大声じゃないと会話すら出来ない。
「それにしても、アイザックさんもとんでもない所に手を出しちゃったわよね。森の原住民は侵入者を容赦なく殺すくらい警戒心が強いのに、付いてきた案内人はこんなへぼ」
カイルが片隅で嘔吐している。さきほど食べていた野菜のスープが時を経てバケツに溜まる。小刻みに震えるカイルの小動物ぶりもこの緊迫した状況では仕方がない。
「ふ、普段は、車酔いなんて、しないんですけど…」
「あー、もういいから、こっち見んな。休んどきなよ」
ニーナは汚物でも見るかのように、実際は汚物を視界に映さないように、手のひらでしっしっとカイルをいなす。
「す、すいません」
ベルは助手席に座っている。市街地から来た運転手となにやら話しているようだ。
「市街地に街に着いたらすぐに帰りの飛行機を手配します。アイザック氏はそれに乗って帰ってください」
アイザックを拘束した張本人のケリーが荷台置きの端から声をかける。
「あいつ、怪しいのよ。覚えてるでしょ、アイザックさんを拘束した時の統率力」
ニーナは体をアイザックに寄せて、口をほぼ動かすことなくアイザックに小声で話しかける。
「大体、あいつだけ団員連れてきてるのもおかしいじゃない。ただの森林愛護団体がなんだって森の探索隊に参加すんのよ」
「彼は、違うよ」
アイザックは短く言葉を切る。この会話は出来れば誰にも聞かれたくない。
「わかってる。普段から訓練されてないと銃の扱いだって普通わからないわよ。その中でもあの男は過激派。世の中には目的の為なら手段を選ばない集団がわんさかいる」
「あたしたちに現場を荒らされたくないだとか、そんなちゃちな理由で探検家を妨害する奴らは何処にでもいるのよね。アイザックさんは映画をみる方かしら?」
ニーナの質問でアイザックは我に返る。
「教養程度には視聴しているよ。あまり詳しくはないけどね」
「子供の頃に上映してた映画なんだけど、文化遺産を延々とひた隠ししてるバカな団体とそれを軍事活用しようとしてる国軍が遺産を巡って戦っていて、最後には主人公の考古学者がパンドラの箱を開けてしっちゃかめっちゃか、みたいな内容の。シリーズものなんだけど、四作目がひどくてね。あたしはあれが嫌いだった。だってまるで冒険家がハイエナみたいに描かれてるんだもの」
知っている。浪漫と冒険心が詰まった映画だから、男がイメージする浪漫を表現するには多少の荒々しさは必要だ。
「その考古学者の名前は確か昔飼ってた犬から取ったんだ」
クリスティがたまに見る映画だ。ニーナは、へぇ、物知りね。と、感心したように声を上げた。
「その映画に出てくる慈善団体っていうのは、大体の場合、火器の扱いに長けてるのよね。まるで、力尽くで言い分を通すのが常套手段みたい」
アイザックは少し笑って、同意した。映画の解決方法は概ね力尽くだ。軍隊、慈善団体、あるいは考古学者も。
しばらくしてトラックが停まる。深夜を過ぎているので辺りがわかりずらいが、どうやら目的地に着いたようだ。トタン張りの拠点から来た迎えは、ぐったりしているカイルを一目して笑う。少しだけ、日常に帰ってきた安堵感と共に体の疲れを感じる。アイザックが隣を見ると、いつの間にかニーナも眠りに落ちている。
「どうしたんすか、カイルさん。きったない顔っすねぇ」
小柄の男がカイルに肩を貸す。
「吐くくらいなら最初っから食わなかったらいいのに」
運転席から大柄の男がベルを担いで出てくる。
「雇い主を笑うんじゃねぇよ、狸」
狸と呼ばれた男はうっす、狐の兄貴と手を振った。三人は顔なじみが軽く顔を合わす程度の挨拶を交わす。
ケリーがトラックを降りようとして地面に落ちた。
「あれ、眠たくないんすか?いい子ちゃんは寝る時間っすよ」
狸はケリーを見て、だが手を貸さない。
「なにか、盛ったのか。カイル」
ケリーは意識が混濁している様だった。彼の取り巻きも数人よろけながらケリーの前に陣を作る。
「さぁ?俺らの任務は野蛮人に襲われたバカな御曹司を救出して、都市拡大計画に邪魔な森に住んでる奴らを間引きするだけなんで、細かい手順まではちょっと。可能性はありますね。たしか、使ったのは睡眠薬でしたっけ?量を間違えばそりゃ毒殺っすよね」
「い、いいから。は、はやく何とかしろよ」
カイルが周りを気にしてそわそわしている。狐が突如、ケリーに向かって発砲した。サイレンサーに隠された発砲音はヒュッっという滑稽なオノマトペを残して暗闇に消えていく。あまりの自然な動きに誰も反応できず、空気がこすれる音と共にケリーを守る陣は崩れた。
「おい。そこの男も起きてないか」
狐が顎でアイザックを指す。
「あー、小食だったんすかね。いいんじゃないっすか、殺っちゃって。皆野蛮人に殺されちゃったってことで」
「アイザックさん。ど、どうして起きて…」
「へぇ、あれが御曹司?殺したら困るんでしたっけ」
ケリーが先ほど打たれた横腹を抑えながら、即座に銃を構える。意識が朦朧とした中では標準が定まっているかまではわからないが、それでも向けられた銃口は狐を制止する役割を全うする。
「狸!!お前がなんもしねぇでペラペラ喋るだけだから全部聞かれちまっただろうが!どうすんだ!」
「そんなこと言ったって、皆起きてると思わないじゃないっすか!当の雇い主が計画通りに動かないなら、俺らにはどうしようもないでしょ!」
狸が抜き身で発砲する。轟音。ケリーの陣からまた一人、堕ちる。
「ほら!見て、兄貴!何の準備もしてねぇから俺だけサイレンサーなしっすよ!?」
狸の発砲で銃撃戦が始まり、ケリーとカイルが遮蔽物を挟んで別れる。
「大体、誰なんすか。あの強面?ちゃんと薬使ったんすよね」
物陰に隠れていたカイルを乱暴に引っ張って、狸は彼を問いただす。ケリーが遮蔽物の向こう側に向かって叫んだ。
「発砲を止めろ!私はCIAだ…!」
ケリーの顎に冷や汗が溜まる。心底辛そうだ。彼はいま朦朧としたその意識だけで睡眠薬と戦っている。
ケリーとその取り巻きは政府がコネリー財閥の御曹司を守るために派遣した、森林愛護団体に扮したエージェントだった。普段からアイザックのことを付かず離れず見守っている護送役がいるらしい。その存在は知っていたものの、彼らが直接前に出てくることは初めてだった。
「ど、どうするんだ!?」
カイルが狐に追い縋る。
「俺らはタダのヤクザもんだ。こまけぇことはそっちが指示する手筈だったろうが」
「そんな!こ、こっちはあんた達が不死身の傭兵だとかいうから高い金払って、や、雇ったんだぞ!」
カイルと狐の討論を静かに狸が止める。
「とりあえずこいつら殺っちまえばいいんすよ。どうせこんな文明後進国に大した捜査技術なんてないんだから、未知の病気にでもやられたことにすりゃいいじゃないっすか」
後ろ首を狸に捕まれて、カイルは辛うじて言葉を絞り出す。
「…そんな行き当たりばったりな。う、うまくいくわけないだろ?」
狸の握り拳がカイルを打つ。
「アンタねぇ。こっちはアンタの尻ふいてやってんだろうが」
カイルたちが揉めている隙を見て、アイザックはトラックの運転席に移る。鍵を探す。この混沌とした場からすぐに抜け出さなければいけないかった。しかし、鍵は見つからない。今しかないのだ。誰もトラックを気にしていない状況は一瞬で終わるだろう。だから、いま鍵を見つける必要がある。
「…約束を忘れんなよ、旦那」
暗闇から伸びた手がアイザックの元に車の鍵を投げ入れた。
「俺の名はベル・ミックジャガー!運命の担い手。黄泉への案内人。伝説を幾つも跨いできた冒険家だ!」
ベルは叫ぶ。それはアイザックがかけるエンジン音よりも轟いて、そして、彼の咆哮は夜空に穿つ。ベルはピストルを構えて駆けていく。狙うのはカイルではない。裏切者でも、彼が雇った謎の傭兵でもない。彼が狙うのはー、車両。誰もアイザックを追えない様に、彼は自分の復讐をアイザックに託した。
「さぁ、かかってこいよ!」
すべての車両を破壊した後、ベル・ミックジャガーは彼の敵と対峙した。
「ほんと、見事に誰も寝てないっすね」
狸はカイルを睨みながら悪態をつく。
「仕方ねぇ。森で待機してる奴らに今すぐ計画を始めるように連絡しろ」
狐の指示でカイルは拠点の無線に手をかける。
アイザックはアクセルを目一杯踏み込む。
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深夜、クリスティは起きる。まだ虚ろな目をこすると朝には鳴くはずの鶏もまだ身を包めて眠っている。
「早いお目覚めじゃの」
オババはクリスティの方を向くことなく、星空で照らされた森を静かに眺めている。
「なんだか眠れなくて」
クリスティの回答にオババは笑う。
「わしもじゃ」
蟲の音が心地よい。食卓に虫が出てきたときは驚いたが、何事にも適材適所だ。
「ついてきなさい。お前に見せてやりたいものがある」
「こんな真夜中にですか?」
夜の踊りのせいでまだ足の裏が張っている。この森には野生の動物だっている。簡易的な集落では、その中ですら安全とは言えないが。
「一食一泊の恩があるじゃろ?年寄りの言葉は素直に聞くもんじゃ」
クリスティがしぶしぶと立ち上がると、これぞ呪呪の魔法の言葉じゃ、とオババは笑った。
この世界の森の夜はどこでも幻想的なのだろうか。泉水が湧き出る音も蟲の音も静かで耳にいい。夜空から照らされる光は青白く、森の深緑を優しく包み込んでいる。自国から遠く離れたこの土地で、なお憩いの作用が働くのは人間が未開拓地で生活していた頃の名残が原因なのかもしれない。
「どこに向かっているんですか?」
クリスティは問う。
「ンゴイのところじゃ」
あぁ、とクリスティは思い出す。この集落まで案内してくれた当代の呪呪の少年は、だが自分はその集落から勘当されてしまっている。正体がバレてしまった祈祷師はそれ以上のプライベートを明かさないために集落の離れに住む。
「ンゴイ君も村の友達と話せないのは辛いでしょうに、偉いですね」
「あの子に友達はいないんじゃよ」
オババは森の中をゆっくりと進んでいく。
「村の者はみんなンゴイが次の呪呪に選ばれることを知っとったんじゃ。あの子が産まれた時からな。だからあの子と関係を持とうと思うものはいなかった」
「そうなんですか?次代の祈祷師は当代が無作為に選ぶものだと思いました」
「あの子はもともと怖れられておったんじゃよ。正直、前代の呪呪よりも恐れられておった。つまり、幼くして呪呪になる素質が十分すぎるほどあった」
クリスティが顔を上げると、ンゴイ・バンバが木の枝にもたれて寝ているのが見えた。
「あの子はな、わしの娘とよそ者の混血なんじゃ」
いったろ?昔、よそ者から言葉を学んだと、とオババは言った。
「でも、それだったらンゴイ君の家族は何処にいるんですか?ンゴイ君を集落の外に追いやって」
「集落にはおらんよ。娘も死んだし、男も死んだ。死におった」
ンゴイは二人の気配を感じたのか、のそっと上半身を持ち上げる。クリスティはンゴイが仮面を外しているところを初めて見た。おぼろげながらも二人を捉える少年の瞳は、彼を囲むどの木々よりも緑だ。
「さぁ、進むぞい。まだ今夜は長い」
オババが合図をすると、ンゴイはすぐにまた仮面を顔に嵌めてしまった。
初老の女性と仮面の少年、そしてクリスティは森の奥のそのまた奥まで足を進める。足の裏がひりひりする。疲労のせいか、それかどことなく漂う不安のせいだ。
「今度はどこに向かってるんですか?」
たまらずクリスティは声をかける。村までの道を案内するときとはまるで違う雰囲気をンゴイは漂わせている。少年の現状を知ってしまったあとでは、どうにも会話が切り出しづらい。やはり、ンゴイは問いに答えない。
「いまさら言うのも何なんですが、夜の森って危険じゃないんですか?狼だっているでしょうし。いや、オババ様がいれば大丈夫なんでしたっけ?」
気を紛らわすために、尚クリスティは話しかける。
「なんだったら、あの白い狼に守ってもらえば少しは安心できるんですが」
なんて、言いながら今朝の襲撃を思い出して少しクリスティは震えていた。
「着いたぞ」
オババがやっと口を開く。辿り着いた岩陰にはあの白狼が寝そべっていた。石壁のあちこちに自然発生している結晶石が怪しく色めく。
「あぁ!やっぱり護衛をしてもらうんですね!」
安心しているクリスティを余所に、ンゴイは槍を構えた。森の奥から狼の群れが現れる。クリスティの脳裏に今朝の逃走劇が思い起こされる。
「オババ様。あっちの方の狼は危険なんです。早くオババ様の狼に追い払ってもらわないと」
「何を言ってる、娘。この狼たちはこいつの群れじゃ」
白狼は起き上がると、牙をむいて唸りをあげた。それを合図に周りの狼たちは身をかがめる。スパイクを地面にめり込ませる走者の様な、刀を鞘を使って加速させるサムライの様な所作だ。その動作はそれだけで、目の前の獲物を逃さない。
「ンゴイは今日、この狼たちと戦う」
「どうして!?」
今までクリスティの後ろにいたンゴイは槍を思い切り自分に寄せて前に駆ける。
「今がその時だからじゃ」
次々と狼がンゴイに襲いかかる。ンゴイはそれをひとつ、ふたつと躱していく。牙が、爪が、ンゴイの髪をかすめる。躱す動作の慣性でンゴイは自身の腰を捩じる。千切れるほどにねじ曲がった上半身を軸にして繰り出される回し蹴りは、襲い掛かった内の一匹の横腹にめり込む。
「村の誰もがンゴイのことを予言の呪呪だと信じておる。むろん、わしも含めてな」
狼の群れがやみくもに突撃してきたところを今度は槍を地面に固定して、再び空中に身を浮かせる。仮面越しに見えるンゴイの緑の瞳が岩陰の中で不気味な残像を残していく。
「かつて偉大な呪呪が残した予言によると、ラタタタムは森と共に滅びる運命にあるんじゃよ。それがこの森の意思じゃと。もう昔から決まっておった。おおかた、ラタタタムは外界を拒絶していると思っておるのだろう?今のラタタタムに残っておるのは滅びを受け入れておるものたちじゃからな」
一匹の狼がオババの元に突撃してくる。一瞬ンゴイが気を散らしたのを見計らって、違う狼がンゴイに覆いかぶさった。
「危ない!!」
クリスティは叫んでいた。
「大丈夫じゃ。この狼たちがわしらを襲うことはない。今のンゴイの行動は呪呪としては不正解じゃ。理解が足りん」
オババが言うと同時にオババに目掛けて走ってきていた狼は踵を返す。ンゴイの気をそらせる為の罠だ。
ンゴイに覆いかぶさった狼は躊躇もせずにンゴイに噛みついた。仮面が砕ける。咄嗟にンゴイは狼の首元を掴み飛ばした。
「ちょっと!今のは本気じゃないですか!?」
吹き飛ばされた狼を、さらにンゴイは抑え込む。何度も何度も抵抗をして、ついに狼は自ら首を明け渡した。敗北の証だ。野生の動物は自ら弱点を晒すことで服従の意思を表す。そして、ンゴイはもう一匹の狼に槍を突き立てる。
「これは演習ではないぞい」
オババは一言、そういった。
ンゴイが少しづつ群れを撃破していく中、ついに白狼が歩を進めた。遠吠えが轟く。
「そういえば、話の続きじゃったな」
「それどころじゃないですよ!」
クリスティはたまらず叫ぶ。
「いいから聞きなさい。年寄りの話は気を付けねば、次がないんじゃからな」
にじり寄る白狼をンゴイは槍の上から見下ろす。
「ラタタタムにとって予言は絶対じゃ。この森に生まれたものは滅びを受け入れて生きておる。それが最近になって変わったんじゃ。先代の呪呪の新たな予言によってな」
距離を詰める白狼と待ち構えるンゴイ。いつの間にか周りの群れは姿を消している。
「偉大な呪呪は再臨し、神の使いと共にラタタタムを救うであろう。滅びの運命を塗り替える新たな予言はそうなっておった」
最後の攻防が両者の咆哮を合図に始まる。
「それで、ンゴイ君がその予言の呪呪だと」
ンゴイの身体に次々に新しい傷がついていく。辛うじてよけている様に見える爪の攻撃は、かまいたちを作っているかのように時間差でンゴイの皮膚を裂いていく。それに比べてンゴイの攻撃はほとんどが躱されている。
「ンゴイ君はまるで、メアリー・スーですね。本編の気に入らない展開を勝手に書き換える為に作られた二次創作小説の登場人物のようです。とてつもない活躍をして、帳尻合わせに最後には消えてしまう」
自分勝手で、自分本位で、まるで美学もない力任せの願望をあの少年は背負わされている。背負わされて、遠のかされて、今傷ついている。
「それでもわしらは信じておる」
クリスティは自分の中の嫌な感情がオババに伝わっていることを察した。
「その新しい予言がラタタタムの民を試す悪魔のささやきだとは考えなかったのですか?」
しかし、彼女は老婆に尋ねないわけにはいかなかった。なぜ、ンゴイがラタタタムのすべてを背負わなくてはいけないのだろう。少年にそんな力がある様にはとても見えないのに。
「滅びの運命が変わるかもしれんと聞けば、誰も拒否できんじゃろ。人とはそういうものじゃよ」
ンゴイと白狼の攻防も佳境に入り、オババとクリスティも会話がなくなっていた。
ンゴイは壁の結晶石を足場にしながら、当に肩で息をしている。見るからに追い詰められていた。一方、白狼は余裕綽々といった面持ちでンゴイを中心に半円状になめ歩いている。形勢は一目瞭然だ。連戦を強いられているンゴイと違い、白狼は一切疲労していない。疲労困憊の中、ついにンゴイは手に握りしめた槍を地に落とす。クリスティはオババが戦いを止める時を待ってた。しかし、オババは一切動かない。
こんなの変だ。こんな年端もいかない少年に救いを求めて、試練を与え、あまつさえ彼を心配もしない部族の為にンゴイが犠牲になるのは間違っている。
たまらず駆けだそうとしたクリスティの手をオババが握る。怒りにたぎるクリスティの眼はオババを睨みつける。嫌悪感がクリスティを支配していた。あれほどクリスティを歓迎してくれたオババが悪魔のように見えた。呪呪がなんだというのだ。予言がなんだというのだ。一度受け入れた滅びの運命を、ラタタタムはもう一度受け入れてしまえばいい。オババの手を薙ぎ払ってしまいたかった。そうできなかったのは、老婆の手が力なく震えていたから。
ンゴイの腰に掛けてある数多くの装飾品が、今では地面にバラバラに散らばっていた。クリスティはその中の一つを拾う。それは鉄の板状の飾りがついたネックレスに見える。彼女はそれを握りしめる。
「貴方たちは間違っています。どうしても滅びたくないのならこの森を捨ててしまえばいい!」
クリスティの言葉をかき消すように、ンゴイが大声で叫んだ。それは狼の遠吠えよりも轟く。
そして、石壁に刺さっている結晶石を掴み上げる。ンゴイが前方に放った結晶は浅い放物線を描いて鋭く白狼を捉えた。投てき。猟師が狩りに銃を持っていく様に、ンゴイは長距離からの攻撃を選択したのだ。白狼は反撃に出ようとするもンゴイから発せられる怒声に戸惑っているようだった。事実、狼の威嚇が次の行動を決めあぐねる幼児の喘ぎ声に聞こえるほど、ンゴイの声は覇気良く響く。
水晶色の直線が岩陰を何度も通り抜けた。
何度も、何度も。
そして、夜空が白みがかる頃、白狼は自らの首をンゴイに晒す。そこには弱点を敵に晒す敗者の姿はなく、ンゴイの勝利を称えるために首を垂れる戦士がいた。
祝砲が鳴る。集落の方角から響く祝砲にクリスティは顔を輝かせる。ンゴイは運命に勝利しましたよ。オババにそう言おうとしたのに、思考が彼女の邪魔をした。
なぜ村から銃声が聞こえるのか。
=
アイザックは銃声がする方角へ、走る。前方から立ち込める黒雲はカイルが雇った傭兵による原住民への襲撃が始まっていることを告げていた。
「はやく!」
アイザックは後方から遅れて走ってくるニーナをせかした。
「ちょっと待ってよ!まだ頭がフラフラして…」
トラックの荷台から起こされたばかりのニーナは足元をふらつかせながらも草木をかき分けて付いてくる。
アイザック達が都市部の銃撃戦から逃れたのが3時間前だ。乗り潰したトラックは既に森の入り口に乗り捨てていた。
「本当にクリスティはあそこにいるの?」
「そのはずなんだ!無線で話したとき、クリスティは槍を向けられているようなことを言っていた。絶対にあそこにいる!」
「無線は!?使えないの?」
ニーナの言葉にアイザックは鞄の中の無線機のことを思い出し、足を止める。二人とも肩で息をしている。身体を止めたとたんに汗が噴き出す。昨日とは違い、いやな汗だった。
無線機のスイッチを入れる。
ザー、ザー…
やはり、無線機は繋がらない。だめだ、と肩を落とすアイザックの手からニーナは無線機を奪った。
「こちら、ニーナとアイザック。聞こえる?」
ニーナは返事を待たずに続ける。
「あたしたちは今煙が出ている場所に向かっているわ」
何か、方角がわかるものはない?ニーナはアイザックに問う。
「地図が鞄に入っていたはずだ」
「よし!」
ニーナは再び無線機に顔を向ける。
「あたしたちはその地点に向かっている。なにか目印になるようなものがあれば。アイザック、考えて。」
ニーナはふらつく頭を押さえながら、アイザックに目を向ける。彼女は睡眠薬の影響を受けながらも、尚冷静に物事を処理していた。
「なにかあるはずなの。とても単純なことなのに、なんでこんな時に出てこない!」
アイザックには社会経験がない。難しいことを考えるのはアイザックの分野ではない。彼の世話をする人間が付いていたからだ。どこにいてもクリスティがいた。こんな時、いつだって左を向けば彼女が助言を与えてくれた。いつも変わらずに。
「…北極星だ!北極星を目指して歩けば僕らは合流地点で出会える」
ニーナはにやりと笑った。
「とてもいいわ」
ふたりが空を見上げると、白みがかった夜空に北極星はいまだ輝いていた。
「あたしたちは南から北へ直線で向かっている。もし、聞こえているならそこで落ち合いましょう!」
一刻も休憩を挟まず、ニーナとアイザックは走る。森の煙は近づくごとに濃くなっていった。人が争う音がする。この森で初めて聞いた人間の声は僅か数時間前に聞き覚えがある。
「兄貴、もうちょっと離れておきましょうよ。俺、嫌ですよ。なんか匂ってきてるじゃないっすか、肉の焼ける匂い」
「狸、お前は本当にうるせえな」
命からがら逃げだしてきたはずの悪夢が再びよみがえる。
「本当にここにいればあえるんっすかね」
狸はカイルを見やる。カイルは二人の傭兵に囲まれて、背中が小さくなった。
「ぼ、僕たちは一直線の住路を使ったから、迂回道しか、し、しらないあいつらより早くついてるはずだ」
「はー。なんでもいいっすけどね」
狸は冗談めいた動作で頭に手を置いた。
「さっきの無線聞いただろ?この辺りに張ってれば間違いなく捕獲できる」
狐はにやりと笑い、唾を吐いた。
「もしスーツ姿の女性が居れば、そ、その人は襲うなよ」
カイルは狐と狸を呼び止める。草むらに隠れて3人組の会話に耳を澄ませていたアイザックは、悪感情に拳を握りしめる。すべてカイルの仕業だったのだ。
「あー、船に乗ってたねぇちゃんか?」
最初は客船の強奪だ。僕らに原住民の不信感を煽るためにカイルは傭兵たちに船を襲わせた。
「そうだ。僕らの目的はあくまで原住民の排除だからな」
そして、カイルは帰路の夕食に睡眠薬を仕込んだ。おそらく、目撃者であるクリスティが襲撃を潜り抜けたから、こいつは僕たちを誘拐するという強行策に出たのだろう。
「だったら初っ端から船なんて襲わなけりゃよかったんすよ」
全てはアイザックを釣り針に、都市開発に邪魔なこの森の民を追いやるために。
「仕方ないだろ?駆除には大義名分が必要なんだ。僕のせいじゃない」
気付けばアイザックはカイルに殴りかかっていた。ニーナの制止も振り切って。気付けば殴っていた。視界が真っ赤に染まってしまって、自分でも何が起きているのかわからない。
お前がいなければ!クリスティは今も森の中で一人でいるのに!言うこと欠いて、仕方ないだと!?ふざけるな!!!
アイザックの拳はいとも簡単に抑えられる。
「それくらいにしとけ」
狐が無表情で顔を近づける。
「でも、ちょっと清々しましたよ。俺らもこいつにムカついてたんで」
ねぇ、と笑う狸に狐は肯定も否定もしなかった。
「前を向け、バカ。狼だ」
振り向きざまに狸の胸に白い狼が噛みついた。気が付けば周囲は狼の群れに囲まれていた。
カイルが殴られて溢れ出した鼻血をぬぐいながら、
「お、おい!なんとかしろ!」
「今なんとかしようとしてるんだろうが」
指示された狐はカイルを担いで群れの中を進撃する。狼を踏みつけるように群れの波を乗り越えていった。
「アイザックはどうする?」
狐は短くカイルに指示を請う。
「ど、どうしようもないだろ。諦めるしか」
もはや彼を担いだ大男はことごとく意思放棄するカイルに嘲笑を隠すことはしなかった。焦ったようにカイルは言い訳をする。
「君の相棒も、残念だけど、た、助けられないよ」
狐はうっとおしそうに肩に着いたカイルの鼻血を拭った。
「狸の事はほっといていい」
周囲からにじり寄る狼の群れ。一度全身全霊の怒りを解き放ってしまったアイザックは絶体絶命だった。視界にはすでに群れから離れようとしているカイルと狐が見える。救いなど求めるつもりはないが、ここで諦めてしまうわけにはいかない。
その時だった、アイザックがクリスティを見つけたのは。
「クリスティ!!」
アイザックは揉まれるように狼の群れをかき分ける。
「アイザック!!!」
クリスティが茂みの向こうから走ってくる。一心不乱にクリスティを受け止めたあと、アイザックは彼女が傷だらけになっていることに気付いた。それが些細なことに感じるくらい、クリスティの存在が目の前にあることが嬉しい。
「もう会えないものかと!」
手足は汚れ、髪が乱れに乱れているクリスティは一旦アイザックから距離を置いて、笑う。
「僕だって!!」
何もかもがいつもと違うのに、そこにいるのは確かにクリスティだ。アイザックはクリスティを抱きしめた。
彼女の後方から、仮面をかけた少年が現れる。
呪呪の少年は仮面の下から緑色の瞳をのぞかせる。
「オマエガ、アイザックカ?」
アイザックは突然声を掛けられて仰天する。
「どうして僕の名前を知っているんだ?」
「私が教えました」
クリスティが少年の代わりに応える。仮面の下にどんな表情が隠れているか、アイザックには測れない。
「オマエニハ、聞クコトガアル」
突然のことにアイザックは驚く。
「え、僕が何かしたっけ」
「予言ノコト」
「あー、アイザックを紹介した時に、ちょっと語弊がありまして」
「俺ハ、ンゴイ・バンバ。カミサマノ守護者」
「神様の守護者?」
ポリポリと、二人の後ろでクリスティが頭を掻く。
「億万長者って、神様に似てるじゃないですか」
「…そうだろうか?」
狐から向けられた緊張感がクリスティに会話を遮らせる。
「すいません、正直分かりません。だから語弊です」
目の前にいる狼の群れは不思議と3人を襲ってこなかった。
「クリスティさん!そ、そこは危ないから、は、はやくこっちに!!」
カイルが遠巻きから叫ぶ。
「救助隊を呼んだんです!原住民に攫われたあなたを、た、助けるために!!」
クリスティはカイルを一瞥する。
「ぼ、僕ですよ!探索隊に参加していた考古学者のカイル・ヴァンガードです」
クリスティは首をかしげる。
「すいません。覚えていないです」
「こんな時に、冗談やめてください!野蛮な未開人にさらわれた貴方を、助けに来たんです!」
カイルはクリスティに手を伸ばす。
「しつこいですね」
クリスティは髪をかき上げて、カイルを睨む。
「でも、貴方のことは覚えてますよ。一度お会いしてますよね、船で」
クリスティは狐を見た。彼女は狐の訛りのある声色を記憶している。
冷たい目線をむけたクリスティを見て、アイザックは少しだけ普段の日常に戻ってきている気がした。
「私は、その人を知っているといったんです」
カイルは狐に持ち上げられたまま、悪態をつく。
「正体を隠せと言ったのに!」
「俺じゃねぇよ。狸が喋りすぎるから、いつもこうなる」
片手で銃口を向けたまま、狐は白狼とこう着状態に陥っていた。
「なんにせよ。この状況はまずいな。どうやら俺たち以外は全員敵らしい。おい、そろそろ起きろよ、バカ」
先ほど白狼の一撃によって絶命したはずの狸が自らの身体を持ち上げて、立った。
「バカバカバカバカ、兄貴はいつもうるさいんすよ…!」
不可解なことに出血が止まっている。
「あー、でも、今日は駄目っす。血が出すぎたっていうか。フラフラするっす」
あまりにも非現実的な現象にアイザックはたまらずクリスティに耳打ちした。
「なんだか、現実とは思えないことが起こっている気がするんだけど」
「ギリギリの出血量で収まったってことなんでしょうか…?」
おもわずクリスティも小声で返す。
「アレハ、魔術ダ」
ンゴイは身を低くして槍を構える。
「そこで待ってろ」
にやりと笑うと狐は銃をピストルホルダーにしまった。
「早くしてください。あと一撃喰らったら絶対死ぬっす」
「うるせえんだよ。お前はいつも」
カイルが何をしているんだ、と呟くが早いか、狐は狼の群れに駆け出した。
襲い掛かる白狼をなぎ倒して、狐は狸の元まで突進する。狼の群れの中にいた狸はあっという間に救い出されてしまった。
狐はまるで何でもないというように2人を担いで何処かに行ってしまう。ンゴイとクリスティと、そしてアイザックは狼の群れの中に取り残されてしまった。
ンゴイが低く唸ると白狼を残して彼の群れは姿を消してしまった。ンゴイはアイザックの方を向く。
「アイザック、俺ハドウスレバイイ。俺ハ、カミサマノ守護者。オマエニ従ウ予言ノ呪呪ダ」
突然の問いにアイザックは首を傾げた。
「ンゴイ君は予言に従って森を救うために育てられたんです。私がアイザックを紹介するときにアイザックのことを神様同然に紹介したので、すこし勘違いをしてしまって」
クリスティはンゴイの代わりにアイザックに説明した。
「僕は、君を助けたら、自国に帰るつもりだったんだ。ここは危ないから」
ンゴイは少し考えて頷いた。
「ワカッタ。オマエニ従ウ」
白狼は少し集落を心配した様子でンゴイの方を見る。
「ソレガカミサマノ言葉ナラ、間違イガナイカラ」
先ほどまで茂みに隠れていたニーナは様子を伺いながら、アイザックとクリスティの前に現れた。
「もし、この子がそれでいいなら、トラックに乗って市街地に帰りましょう。よくわからないけどこの狼は襲ってこないみたいだし、今から集落と逆方向に走れば誰にも会わずに森を抜けられるはずよ」
ニーナは地図を取り出して二人を見る。
「待ってください。集落はどうなるんですか?」
クリスティがニーナを制止した。
「それはあたしたちの問題ではない。どちらにしろ、この人数でどうにかなる問題ではないし、あたしたちはこの森に来て探索をしに来ていただけじゃない。問題が起きたならもう一度体制を整えて出直すべきだと思うわ」
アイザックはニーナを見て、
「集落にはこの子の家族もいるんじゃないのか」
アイザックは少年の方を向く。この優しさが物事をいつもややこしくする、そう思っていながらクリスティは何も言わなかった。
「俺ハ、構ワナイ。カミサマノオツゲ二従ウノガ、予言ノ呪呪ノ役割ダ」
「ンゴイ君、君はそれでいいんですか?」
会話を止めたのはクリスティだ。
「アイザック、この子は昔の私と同じなんです。覚えていますか?幼いころ私が事件に巻き込まれたあの日のことを」
クリスティはンゴイの手を握る。
「この子は、自分が誰なのかわかっていません。周りがそういうから、自分はそういう風なものなんだと考えているだけで」
クリスティはンゴイにネックレスを見せる。
「ンゴイ君。これが何かわかりますか?」
ンゴイは腰の装飾品を確認して、自分のネックレスがなくなっていたことに気付く。
「ソレハ、俺ノダ」
彼女のスーツに太陽の光が当たり、夜が明けたことを一同に告げる。
「そうです。ンゴイ君が狼と戦っているとき、私が拾いました」
クリスティはンゴイの目の前にネックレスを広げる。その首輪には鉄状の板が付いている。そこに書かれた言葉は、きっとこの森を出たことがないラタタタムの民には解読できなかっただろう。
「これに何の意味があるかわかりますか?」
しかし、クリスティにはそれが読めた。
「ソレハ、俺ノ宝物ダ。オ父サン二貰ッタンダ」
太陽が昇っていく。新しい朝が始まる。
「これにはこう書いてあります」
「ピーター・ミックジャガー」
それは、古いドッグタグだった。
「君のお父さんの名前です」
クリスティはンゴイの首にそのタグをかけた。
アイザックは自分の胸に手を置いてンゴイにお辞儀をした。
「僕もちゃんと自己紹介するよ。僕はここからはるか遠い国から来たアイザック・J・コネリーだ。宜しく」
ニーナも右に倣って頭を下げる。彼女の赤毛が数刻遅れて垂れる。
「あたしはニーナ・スパロウよ。アイザックさんとクリスティさんの探索をサポートするために来たの。あなたに会えて光栄だわ」
今度はクリスティが微笑んで、
「私ももう一度、君に自己紹介しますね。私はクリスティ・ルイ。アイザック・J・コネリーの付き人です」
そして、問う。
「君は誰ですか?」
君は、だれだ。
それはクリスティがアイザックと出会ったときに受けた呪いだった。彼女がまだ貴族令嬢として育てられていたころ。彼女の家が没落したスキャンダルによって、クリスティが民衆に追い回されていたころ。アイザックがクリスティにかけた言葉だった。
「親睦を深めるとき、君の役職は言わなくていいんです。君の言葉で君のことを教えてください」
クリスティの言葉にンゴイは、
「俺ハ、偉大ナ祈祷師二ナル呪呪」
緑の瞳は彼の正体を証明している。
「それは君が決めたことですか?」
顔を覆い隠した仮面は彼の役割を証明している。
「ソノ為ニ、今マデ生キテキタ」
手に握られた槍は彼の力強さを。
「誰に言われて?」
付き従う狼は彼の気高さを。
「予言ガソウナッテイル。…チガウ、ワカラナイ」
なれない言葉を使うその姿勢は彼の優しさを。
「誰に何を言われれても、君は君ですよ」
だけど、そのどれもが、いまだ彼自身を証明はしていない。
「ナラ俺ハ、ラタタタムノ民。コノ森ノ一員ダ」
「なら、集落に行こう」
アイザックはにこりと笑った。
「多分、それが君と仲良くなる方法だ。集落はここからどのくらいなんだ?」
やれやれ、とクリスティは頭を垂れる。自分もアイザックの甘さに慣れてしまっていることに、詭弁は使えど、否定できない。
「スグ其処ダ。イイノカ?危ナイカモシレナイ」
ンゴイの声に今まではなかった年相応の活力が表れていた。
「君の部族が今危ないなら、なおさら急ごう!」
一行は狼の群れと共に集落に向かう。
ラタタタムの集落から立ち上る煙は、一同がそこに着いた時には消えていた。カイルと自動小銃を抱えた集団がラタタタムの民の前にならんでいる。アイザックが茂みに隠れると、ンゴイは狼たちを連れて、横に並んだ。
クリスティが後方からンゴイに声をかける。
「なんだか数が少ないですね」
「オババガ、前ノ居住区二民ヲ逃ガスト言ッテイタ」
「あそこにいるのは逃げ遅れた人たちということか」
ンゴイは遠吠えを上げる。ンゴイの遠吠えを合図に狼は兵隊の元に駆け出した。
右手から、左手から、狼たちは兵隊に襲い掛かる。
狼と共にアイザック達もラタタタムの民を救助に向かう。
「◎△$♪×¥!」
拘束していた縄をほどけると、ラタタタムの民はンゴイの指示のもとに避難区に走った。銃声が鳴り響く。兵隊の一人が空に銃弾を撃ち放ったのだ。狼の群れが轟音にひるむ。
ンゴイはすぐさま、武装した兵隊に石つぶてを投げ込んだ。
アイザックは投てきが命中した兵を抑える。もみくちゃになり、アサルトライフルが兵隊の腕から落とされる。その間に、ニーナとクリスティも他の兵隊からライフルを奪い取っていた。
「止まりなさい!」
ニーナが素早く右手を上げると、あっという間に傭兵たちとのこう着状態が出来上がる。
「貴方たちはこの森を開拓したいんでしょう?だったら、手続きを打って和平交渉したらいいじゃない」
カイルがライフルをこちらに向けながら、無表情でニーナの前まで歩いてくる。
「仕方がないじゃないか。過去に何度も交渉したんだ。こいつらの肩を持つアメリカ人が昔いた。僕はそいつと嫌というほど話をした。でも、そいつは森の意思がどうだの、予言がどうだの言って僕の話を聞かなかったんだ」
先ほどまでと打って変わって流暢にしゃべり始めたカイルはニーナの方を伺いながら、少しずつ体の重心を傾ける。
「今までずっと交渉してきたんだ。居住区がころころ変わるからいつもこいつらを探すのが手間だった。まぁ、良かったんだよ。森の中を探索するのも楽しかったしね。呪呪とアメリカ人の夫婦もそれなりに良くしてくれた」
カイルの足元を狙ってニーナは鉛弾を放つ。
「動かないでっていってるの!」
カイルはびくっと、重心を元に戻す。
「ちょっと話しているだけじゃないか。ただ、聞いてほしいんだよ。探検家の君ならわかるだろ?考古学者の僕の気持ちが。もう未開拓文化の研究は終わったんだよ。ここにある価値は資源しかない。知的財産がなくなったら、あとは物資だ。この国はこの土地を得るし、僕たちは資源を得る」
「その資源をまた高く売るんでしょう?」
クリスティがカイルに言葉を放つ。彼女の目線は他の兵隊に向いているが、かろうじて視界の隅でカイルを睨んでいる。
「よくありますよ。財閥間でもそういう話は」
あとひとつ、とニーナが声をかける。
「あと、考古学者も、探検家も、現代では力づくで計画を強行することはないわ。古い考えを持っているのは貴方だけ」
映画の見過ぎよ。というニーナにクリスティは笑う。アイザックはトラック内でのニーナとの会話を思い出す。
「私たちは、ちゃんとまっすぐ生きてるんですよ。誰かから奪うことも、騙すこともなく」
クリスティの言葉にニーナは賛同する。
「わかるかしら?」
カイルは少しだけだまる。なにやら考えて、そしてやめた。
「駄目だ。わからない」
クリスティの耳元で撃鉄がかちゃりの音を鳴らす。
「カイル、こいつを撃っていいんだったよな?」
狐だ。
「本当は仲良くなりたかったんだけど」
「仕方ないか?」
狐の問いにカイルは応える。
「仕事が先さ」
狐は返事をしない。
アイザックは走り出す。握りしめた拳を、さらに、拳の色が赤くなるまで固めて。トリガーを引く狐よりも速く顔面目掛けて打ち抜いた。そのまま、よろめいた狐を馬乗りにする。クリスティがいなかった時はなんなく羽交い絞めにされた相手を、アイザックは一心不乱に殴打し続けた。
「お、おい!」
カイルはすぐに取り乱す。それを見ながら狸はうっとおしそうに銃を掲げた。
「うるせぇ、こいつホントに。大丈夫っすよ。俺もいるんだから。兄貴も俺も慣れてるんだよ」
アンタはどう?とその銃をそのままアイザックに向ける。
「使えるじゃねえか。狸」
狐はアイザックに馬乗りになられながら大笑いする。
「早く起き上がってくださいよ。腕が重い」
大男はアイザックの脇腹を抉るように掴む
「温室育ちのお坊ちゃんにしては度胸あるよ、アンタ」
アイザックの腹部に激痛が走る。
「び、びっくりさせるな!ほら、はやく立ち上がれよ」
狐が体勢を立て直すのを急かすのはカイルだ。カイルは、臆病者は、アイザックに吠える。
「いいか!僕たちは人類の為に開拓をしているんだ。現代社会は資源がないんだよ。だからこうやって資源があるところから搾取しないといけないんだ。あんた達裕福層が無駄に資源を使いすぎるから。この国の人たちは皆先進国にあこがれている。自分たちも裕福になって豊かな暮らしをするんだってね。そうやって、自国の資源を先進国に売り渡しているんだ。皆馬鹿だよ、本当に。自分たちが裕福になる為の資源を自分から手放しているくせに。だったら、僕がこの土地の資源を使って一人勝ちしてやる。この国の結末は、最初からバッドエンドだと決まっているんだ。君たちがこの土地に来る前からね!」
狐を押しのけてアイザックは起き上がる。
「お、おい!どうして、立ち上がらせるんだよ!」
カイルは狐に激昂する。少しだけ考えて狐は、
「わからん」
「誰も動くなよ」
狐は再び仕切り直す。
「動くなよ?」
狸はニタニタ笑いながら、辺りを動き回る。
「アイツがいないっすね。あの白いやつ」
狼が唸り声をあげる。
そして、力強い遠吠えが聞こえる。クリスティとンゴイだけが判別できる遠吠え。それはこの森を長い間守り続けてきた先々代の呪呪が彼女の使役する野獣を呼ぶ怒声だ。
白狼がものすごいスピードで向かってくる。狸の銃弾をよけながら、古い仮面を被ったオババを乗せて。
「お前、なんでここにいるんだい?」
オババはンゴイを拾う。
「俺ハ、ラタタタムダカラ」
「そりゃ、簡単な理由だね。それじゃぁ、レディは退屈しちまうよ」
「だが、坊やにしては上出来さ」
オババは笑う。
「なんか、あいつ弾よけてないっすか?」
狸は焦りながらリボルバーの撃鉄を何度も鳴らす。
「避けてるんじゃないわい。わしを守っておるんじゃ。ほら、こいつはわしの愛の奴隷じゃから」
クリスティは笑う。やっぱりこのオババ、色ボケしてる。
「さぁ、形勢は逆転かい?」
仮面の後ろからオババは友人に笑いかける。
「逆転です」
クリスティがうれしそうに白い歯を見せて笑った。
オババから遅れて、ラタタタムの民の声が聞こえてくる。
「◎△$♪×¥●&%#!!」
何を話しているかわからないが、昨日と同じ言葉をラタタタムの若い男は叫んでいる。
「◎△$♪×¥●&%#!!」
クリスティは同じ言葉で挨拶する。あれが自分に向けられた言葉なのは自然と分かった。
「お前、あいつが好きなのかい?」
オババは興味津々にクリスティに詰め寄る。
「え、違いますよ」
「今そういっとったぞ。あんまり脅かすでない」
ガッカリしたようにオババは戦闘位置に戻る。遠くでアイザックがクリスティの方を見ていた。
ラタタタムの民が一斉に槍を投げる。色とりどりの槍のアイザック達の頭上を通り越して兵隊たちの目前に迫る。ラタタタムの大声援はズドドドドンと槍の着地音をかき消すくらいの勢いで鳴り響く。その後はまるで昨夜のダンスの様だった。皆が好き勝手に飛び跳ねて、隣の人がどんな作法で動いているか知っているものなど誰もいない。あるものはジャンプを、あるものは誇り高く、あるものはただただ勢い良く、そしてまた静かに自分の踊る時を待つ者もいた。それは、本当にダンスの様だった。
「どうしよう。こんな乱戦」
意気揚々とラタタタムの戦士たちにまざり込んだニーナと違って、アイザックは訳も分からずに途方に暮れる。
アイザック・J・コネリーは元来苦労というものを知らない。生粋の大富豪というのは自分で行動することはない。
「心配ありません、アイザック。すべて上手くいきます。私を信じてください」
そんなアイザックとダンスを踊るために、クリスティは彼に手を差し伸べた。私も途中までなら、一緒に踊りますよ。ラタタタムの作法は少しだけ心得がありますから。口には出さずに、クリスティは言う。
「…ああ!」
ステップを踊ろう。今この戦場は大きく揺れ動いていた。皆の者が好き勝手に踊り、歌う。この森の住民で歌って踊らないのは死人だけだ。今まさに、戦場のまっさだ中でンゴイ・バンバが舞っていた。
狐と狸は圧倒される戦場を冷静に観察する。カイルの私兵団は右翼撃沈、左翼もわずかだ。
「兄貴、どう思います。こりゃ流石に死にませんか?」
大きくため息をついて、
「これじゃぁ、流石の俺も死ぬ。撤退だ」
それじゃぁ、逃げましょう。と狐と狸は混戦中の中、踵を返した。
カイルは茫然としていた。あれほどお金をはたいて雇った兵隊たちがあっさりこんな近代武器も持たない原住民などにやられるとは。残り少ない私兵に囲まれて、カイルが戦場を逃げ去ったのをアイザックは見逃さない。
「クリスティ、僕は行かなくちゃいけない。カイルが全ての元凶だったんだ」
森の民を苦しめて、あまつさえクリスティに手を出そうとしたあの黒幕を逃すわけにはいかなかった。
「なら私も行きますよ。もう離れ離れはこりごりです」
アイザックは驚いて、
「それは、はじめて言われたよ」
クリスティは笑いながら、
「言ったことないですもん」
お互いに、相手の方を見ることをせずに打ち明けた。お互いがお互いを向いていない、それはいつか話したアガペの意訳を思い出させる。理解が出来なくて、遠く、それなのに運命を共にする。
何度も捕まえそうになるたびにひらりと躱されてしまう。森の中をカイルを追いかける内に湖に出た。湖は綺麗な藍色で満たされている。湖のまわりが少しだけ整備されているのはここが前の居住区だったからだろう。先ほどまでラタタタムの民が避難していた場所だ。追手がアイザックとクリスティしかいないことに気が付くとカイルは立ち止った。
「もう終わったんだ、カイル」
カイルの手には自動小銃が抱えられている。
「生まれた時から人生は決まっていると思わないか、アイザック」
カイルは恨めしそうにアイザックを睨みつける。
「いい車、贅沢三昧の食卓、使い捨ての水。そういう暮らしに憧れて、自分の理想の人生を手に入れるために僕らは何を代償にしている?」
「時間だ。僕らの報酬は僕らがどれだけ雑務に時間を費やしたかに比例している」
湖から霧が発生している。
「僕はこの土地の研究に自分の時間を使ってきた。仕事が終わっても、ずっと勉強してきた。毎月、毎週、毎日、毎晩。僕は自分の研究を世界に提供してきた」
太陽の光が霧の中で乱反射して、やけに眩しい。まるで、この白い世界にはアイザックとクリスティとカイルしかいないようだ。
「僕が手に入れたのはほんの些細な金だよ」
カイルは自嘲的な声で話す。アイザックはそれを黙って聞いている。
「金が、金持ちが僕の人生を奪っていく…!」
「僕はこの世界について多くのことを知らない」
アイザックは静かにカイルに話しかける。
「金があれば興味があること以外知る必要がないものな」
馬鹿馬鹿しい、とカイルは吐き捨てる。
「お金は価値の代償に支払うものだ」
アイザックは、ただ静かに。
「君がもし、オークション会場に行ったことがあれば、わかるかもしれないが。僕らはひとつの芸術品を買い取るのに言い値以上の対価を支払う。何故だかわかるか?」
カイルを見る。彼は、アリシアのやりたいことを長年に渡り実行してきた人類研究家だ。それが、今、こんなにも絶望している。
「誰よりもお金を払えば何でも手に入るからだろう!?」
何故だかそれが、アイザックには悲しかった。
「それは、違います」
クリスティは息を少しだけ飲んで、
「私たちの人生は、夢は、情熱は、私たちが自ら付けた値段よりも価値がある」
アイザックの肩に手を置いて、
「それを、アイザックは知っているのです」
そして、彼女は倒れるように深い眠りに落ちる。
「どうしたんだ!?」
アイザックはクリスティを抱きかかえる。
「おい、おい!!」
何が起こったのか、アイザックにはわからない。
「カイル!この森にある資源とはなんのことだ!」
カイルは応える。
「天然ガスだ」
カイルは状況を把握する。今この場にはアイザックとカイルだけしかいない、白い霧に包まれた世界。
クリスティに聞かされた滅びの予言をアイザックは思い出していた。この湖にラタタタムの民が全員避難していたのだとすると、間違いなく部族の全滅は免れなかった。ンゴイに感化されて闘争を選んだラタタタムは自らの選択によって救われた。それは、偶然にもこの泉から遠ざかっていたからだ。
予言は回避されたというのに、今度はまんまとアイザックたちがこの死の地に辿り着いてしまったのだ。
「絶体絶命だな。君は彼女を抱えながら逃げねばならない。致死量のガスの中で!」
カイルの高笑いはアイザックの耳にさわる。
「君のことが本当に嫌になったよ」
アイザックは初めて悪態をつく。ここにきて、カイルを逃してしまう。
「僕は引かせてもらうよ。さようならだ、アイザック・J・コネリー」
アイザックは考える。何故、カイルは自分にとどめを刺さずに逃げようとしているのか?殺す必要がないから?自分も早く逃げないとガスに侵されてしまうから?どれもピンとこない。銃を使いたくない?
ひとつだけ、可能性の光を彼は見つけた。それは間違っているかもしれない。事実を確かめる方法はここにはなく、カイルを止める材料になるかさえわからない。ただ、奇跡を祈ってアイザックはポケットを探る。
そして、彼はクリスティを抱えている腕とは異なる手でジッポライターを構えた。
「このガスは可燃性か?」
「バカな!」
自殺行為だぞ、とカイルは憤慨する。
「今僕を怒らせるのはマズいじゃないのかい?」
カイルは動かない。動けるはずがない。彼の胴体が少しでも移動すれば、アイザックはジッポを着火するつもりだった。脅しではない。これは我慢比べだ。視界は白く、鼓膜は耳鳴りが響いている。
意識が飛びそうになりながら、アイザックはカイルが武器を地面に落とし、崩れたことを確認した。
「仕方ないさ。君のせいじゃない」
そう言って、アイザックは視界が暗くなるままに任せた。クリスティはずっと僕の傍にいてくれた。死が訪れるその瞬間まで自分の信念に従った。だけど、本当は、
覚えている。僕が彼女にそう望んだんだ。
*
「君は、だれだ?」
最初にそう言ったのはアイザックだった。ずっと昔、名家の出だったクリスティがメディアに追い回されていたころだった。彼女の家は没落した。力強い抑圧の跳ね返りが没落と共に吹き上げて、貴族だったはずの彼女の家は放火をされてしまうほどに嫌われていた。
「私はクリスティ」
クリスティは苗字を名乗らない。ルイ家を名乗るといじめられてしまうことは理解していた。
「僕はアイザック。アイザック・J・コネリーだ」
光の外側から延ばされた手を、クリスティは取る。
「コネリー、かっこいい名前ね。私の見栄だけの苗字とは大違い」
「気に入ったなら、あげてもいいよ。その代わり、ずっと一緒に居ること!」
*
「クリスティ!クリスティ!!」
クリスティが目を開けると、心配そうにこちらを見るアイザックがいる。
「気が付いたかい?君は湖の近くで気を失ったんだ」
辺りを見渡すと、医療テントの中に何人もの兵隊とラタタタムが寝そべっている。
ケリーが奥の入り口からファイルをもってやってくる。スーツ姿ではなく、迷彩シャツに身を包んでいる。
「調査が終わりました。この一帯の人たちは湖から発生した炭酸ガスによって集団で酸欠状態に陥っていたみたいですね」
ケリーの後ろでンゴイが顔を見せる。
「ダイジョウブカ?」
「この少年がアイザック氏らを発見して私の部隊を誘導してくれたんです」
「生キテイテヨカッタ」
長い旅が終わったのだ。
「アイザック、今回の旅が終わったら少しだけ休暇をいただけませんか?」
後頭部に枕の厚みを感じて、クリスティは少し自分の頭の位置を直す。
「ああ、僕も同じことを考えていたんだ。今回は本当によくやってくれたから、しばらく僕の面倒はみなくていい。大丈夫。僕は一人でも生きていけるさ」
アイザックは静かに微笑む。
「いいえ。休暇にはアイザックと出掛けたいんです」
そして、クリスティもつられてはにかんだ。
「今度は、私が生まれた街に行きませんか?」
ケリーが手配した帰りの飛行機の中でアイザックとクリスティとンゴイは泥のように眠った。
=
アリシアが担当している塾の教室に転校生がやってきた。その少年の名前はンゴイ・バンバ・ミックジャガー・コネリー。なんと、あのコネリー財閥の養子だ。彼は入塾初日にしてクラスメート全員と仲良くなってしまった。コネリー財閥の跡継ぎということもあるが、自己紹介が奇抜だったからだろう。
「俺、ンゴイ・バンバ。好キナ食べ物ハ虫ダ。俺、虫人間」
セレブの世界観は未知だ。どうやら、昨日の夕食はタランチュラの唐揚げだったそうで、その時に練習した自己紹介らしい。このセンスはクリスティさんが関与している気がならない、とアリシアは思う。わりと未来は明るいですよ。虫が食べられるようになれば、とクリスティは言っていた。
それにしても、伊達に天下の大富豪じゃない。流石はコネリー財閥だ。かつて自分のお気に入りの貴族令嬢をその財力に任せて親族関係にしたことがあると噂のアイザックと、その令嬢クリスティ。此度の旅行でよほど気に入ったのか、ラタタタムという部族の少年をそのまま養子に向かえてしまった。曰く、「勉強は宝、経験は魔法に変わる」と語った旅先のご老人に感化されたらしく、ンゴイを最新の教育機関に入れるつもりらしい。
アイザックとクリスティの仲睦まじい姿をこの街の誰もが知っている。アリシアが塾と掛け持ちしているレストランの店長は彼女がアイザックと歩いているところを見た、と言っていたが、それは十中八九クリスティだろう。確かにアリシアとクリスティはよく似ていて、たまに姉妹と間違われることもある。でも、アリシアは自分がクリスティほど優美でないことを自覚している。
ンゴイはというと、今度のハロウィンにクラスのみんなと一緒にお化け屋敷に行く予定を立てていた。被っていきたいお気に入りの仮面はもう決まっている。
やっぱり、未開の地に行きたい、とアリシアは思う。行ったこともない所の景色が待っていると思うと彼女の胸は高鳴る。この間、アリシアが未開の地で研究がしたいといったのがアイザックの休暇の発端ということで、大富豪というのは実に羨ましい限りである。
まだ見ぬ世界を知るために、自分が信じる夢の為に、アリシアは今日も頑張っている。
アイザックが知らないこと 管弦 網親 @Vinh
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