青春ドマンナカ!!
管弦 網親
青春、カイシ!!
私はこれまでの人生、できるだけ面倒な事とは関わらないように生きてきた。友達は多くない。そういうのって負担が大きい割にメリットがないと思うから。でも、運命とは残酷で一方的なものなのだ。よりにもよってここまで徹底してトラブルを避けていた私が不審者と遭遇してしまうのだから…
この状況を理解するには時間をすこし遡って説明しなくてはいけないだろう。
一時間前、私は放課後になってもぬけの殻になった教室にいた。窓の向こう側に整理された松の木の影をぐんぐん伸ばすようにして夕日が沈んでいく。私は自分の席で読んでいた文庫本をおもむろにしまった。そろそろ下校時間だ。
「おまたせ。やっと部活おわったよー!」
教室の扉を勢いよく開けて中に入ってきたのは私の小学校からの親友、安藤まどか。まどかは子どものころから人懐っこい性格でいわゆる人気者だった。私はというとどっちかっていうと人嫌いな性格で、まぁ、俗にいう根暗で、もっと簡単に表現するなら人と会話しないために文庫本をいつも持ち歩いているタイプだ。どうして私とまどかが友達になったかというと、話が長くなるし割愛するけれど、私の対人関係を心配した小中学校の先生方が私とまどかをいつも同じクラスに配属していたから。まどかは持ち前の明るい性格で根暗の私にも接してきて、今の関係に至る。別にまどかと離れない為に受験勉強を両親に頼んで塾にまで通って必死に勉強して同じ高校に入学したわけではない。ないったらない。そう、私たちは腐れ縁なのだ。
「おつかれ。陸上部は毎日練習大変だね。もう七時じゃん」
そういう私は誰なのかというと美術部員一年生、立花海月である。すこし変わった名前以外はいたって普通の高校生。ちょっと根暗な高校生。ちなみにあと一か月もすれば美術部の先輩が引退するのではれて美術部は私一人になる。私はそれが楽しみで仕方がない。華の高校生活、そこに私が求めていたことはまどかが今しているようなハツラツな活動ではなく、長い三年間の安息だった。つまりもともと、楽するために入った文化部なので、一人になるのは好都合なのだ。中学生の時は私もまどかと同じ陸上部に入っていたんだけど、もうお外でワイワイやる歳じゃないので、陸上部は中学で引退だ。
「とりあえず着替えたら?ほこりっぽいし、ちょっと汗臭いよ」
美術部の活動はすでに一時間前に終わっている。私がわざわざ美術室を抜けて教室で居残っていたのは彼女と一緒に帰るためで、私が最初に彼女にかけた台詞がこれである。振り返ってみると外したな、と思わなくもない。急に入ってくるからびっくりしちゃったんだよ。
「えー?感じわるー!海月、変わっちゃったなー。昔はもっと素直でいい子だったのに」
そう言いながらも着替えだしたまどかを私はなだめる。
「いやいや、女の子は身だしなみが大切でしょ。私たちもう高校生なんだからそれくらい気を使わないと」
そう、私たちはもう高校生だ。まだ入学してから一か月弱だけど、もう大人の仲間入りなのだ。
「ふーん。どうもありがと…!」
ぐいっとそっぽを向くとまどかは笑い出した。この時点ではわたし達はまだいつものように意味のない会話を楽しんでいただけだった。プロローグが長すぎると語り手の私のほうが何の話だったか忘れてしまう。
もう一度思い出してほしい。私たちはこの後、不審者に出会うのだ。
いつもと変わり映えしない退屈な下校時間。何かが日常から少し変わりだしたのはまどかがちょっとした企画を提案してきたあたりからだ。
「どうせまだまだ電車来ないんだから学校を探検してみない?」
電車はあと一時間は来ない。流石に駅から私たちの地元に向かう電車はくるけれど、乗り継ぎが多く、全部スムーズに乗り継いで帰宅するのはあと最低でも一時間と三十分はかかる。無理して進学校に入学してしまったから、便宜性を無視してちょっと癖のある交通機関を使う羽目になったのだ。
「夜の学校?それはまた、なかなかスリリングだね」
私たちは新しい冒険を面白がるように無人の教室を後にする。夜の学校っていうのは(学生経験が少しでもある人ならみんな納得すると思うのだが)かなり魅力的なのだ。教員も生徒もいなくなった廊下。それなのに天井の蛍光灯は強すぎる光を私たちに向ける。まるで世界に取り残されたようだ。それに、学区内で学校の中以上に安全な所があるだろうか。そういう意味では校内は少し不気味で怖いけど絶対安全が約束されている、まさに格好のお化け屋敷みたいなものだろうと思う。
いや、思っていた。愚かにも。
しかし、不遇にも現実は違ったのだ。「学校には不審者が入り込む隙はない」なんてことはなく、「そいつ」はなんと学校の中にいた。しかも私たちが着替えていた部屋のすぐ近くにいたのだ。
はじめに奴に気付いたのはまどかだった。
「ねぇ。あれってなにしてるんだと思う?」
小声で尋ねるまどかが指さした先にいたのは明らかに女子のロッカーを漁っているパーカーをきた不審者だった。
「いやいやいや!これはまずい!!」
この絶対安全神話なる異名を持つ日本に産まれ落ちて初めて変質者を見たのだからついついリアクションに力が入ってしまう。そのせいで変質者に気付かれてしまう。自然の摂理である。これを撤回しようものなら日本神話あたりから手を入れていかないともう間に合わないレベル。
「…なんだよ、お前ら」
変質者が近づいてくる。蛍光灯を真上から受けたパーカーのフードは顔に深い影を作って顔が見えない。いや、押し寄せる不安で変質者の顔なんて見える位置まで目線を上げる余裕もないのだけど。でも、ひとつだけ。奴はロープみたいなものを両手に持っていた。
とまぁ、これが今の状況である。そういえば、不審者の話は今朝のホームルームで出ていたので、それさえ思い出していればここまで動揺していなかったかもしれない。後出しばかりですまん。でも、私だって忘れていたのだ。
そんな風に回想から我に返った私は逃げ道を探した。けれど、学校の作りはいたってシンプル。逃げ場のない教室を無視すれば廊下があって階段があるだけだ。全力で逃げたってこいつが私たちを見失うことはないだろう。そのうえ男に追いかけられたらどうしようもない。瞬く間にロープで縛られ、運が悪ければ殺されてしまうだろう。
陸上続けておけばよかった!!なんて後悔している間にも変質者は近づいてくる。私たちはいまだ動けずにいた。この男は私たちを捕まえる気なのだろうか(当たり前と言えば当たり前なのだ。私たちは犯行の現場をばっちりみてしまっているんだから)、かなり近くまで寄ってきた。
このままじゃ、やばいのは明確、もう確実だった。
「近寄んじゃねえよっ!!」
咄嗟のことだ。私は思いっきり足を振り上げたのだ。特に股間を狙ったわけではないのだが、吸い込まれるように急所を捉えた私の蹴りに変質者は声を上げて悶絶している。めっちゃ苦しそうにしている。そんなに痛かったのだろうか。たしか金玉っていうのは内臓なんだっけ?肝臓を狙ったボディブロウがどんな屈強なボクサーにも効くように、私の蹴りもなかなかの威力を発揮したのだろう。少し申し訳なくも思ったが自己防衛と割り切ることにした。とりあえず今なら逃げられる。私はまどかの手を握り、全力で駅に走った。
無事電車に乗ると恐怖が遅れてやってきた。学校に変質者がでたのだ。つまり、これからも出るかもしれない。というか学校があいつのテリトリーなのかも……。お化け屋敷どころかとんだ恐怖の館だよ、チクショウ。
どちらにせよ、私は不審者を撃退したんだ。今は自分を褒めてあげたい。そして、褒めてほしい。私の体は震えていた。これは恐怖によるものなのか、武者震いなのか。褒めたうえでこの震えを止める、今こそ私の心を射止める絶好のチャンスだとおもうんだけどまどかは何をしているのか。
「海月?」
私の心境を感づいたのか、まどかが心配そうに話しかけてきた。
「さっきのさ。もしかしたら二組の村井くんかも……。あんまりよく見えなかったからわかんないけど、声とか」
まどかが向けてきた言葉は私の期待していたものとは違っていた。
「でもまぁ、私を守ってくれたんだよね!ありがとう。さっきの前蹴りはしびれたなー。というか、海月ってあんなに強かったんだね」
遅れて来た親友のねぎらいの言葉はもはや乙女心には届かない。というか、それ以前にまどかはおもいきり笑い始めた。
どうやら私は大きな間違いを犯してしまったようだった。
「けど、もうあんな真似しないでね。相手が本物だったらこんなにうまくいくはずないし」
=
「おい、村井千里!おまえもしかして振られたの!?」
隣の席の奴が五月蠅い。
「……」
あぁ、昼休みが台無しだ。今日のお昼のカップラーメンはお湯を入れたのが結構前だったから、多分そっちも台無しだろう。俺がカップラーメンにお湯を入れて教室に戻った時に、昨日の女子たちが謝りに来たのだ。そして、廊下に呼び出された俺は一方的に謝り倒され、はたから見れば俺が告白して断られたようにしか見えないだろう状況になってしまった。まったく、冤罪だよ。
「てか、お前ふたり同時に告ったのか?!すげぇ野郎だな。必死だとは思ってたけどよ」
「ちげぇよ。告ってねぇって!」
お前は俺をそんなイカレたやつ風に見てるのか。もっとクールな感じだよ、俺は。クールでグルービーに今を生きてるよ。てか、もしそんなことしてたら振られて当然だっての。
俺はクラスメートの田辺から向けられる疑惑を軽々とかわし、カップラーメンに箸を進めた。ほら、見て。触れただけでもう麺が切れちゃいます!口に入れるとすぐ消えちゃう!伸びてるからね、仕方がない。いやいや、仕方なくはないか。
田辺による異端審問は昼休み中ずっと続いた。普通なら順序的に審問の後に公開処刑だよね、そういうところ魔女裁判はホントよくないと思います。俺だったら直訴するよ。とにかく俺の隣の席に割り当てられた男は果てしなく面倒なやつだったようだ。しかし、そのおかげで昨日の二人についていろいろ知ることになった。
ひとりは安藤まどか、こいつはよく俺の組に遊びにくるので結構知っている。もうひとりは立花海月といって、まどかと特に仲がいい友達らしい。ちなみに、俺を蹴ったのはこっち、海月の方だ。
放課後、俺は行きつけのボクシングジムに向かうのが日課になっている。
「知ってるか千里くん?最近トレーナーが新規入会者を探してるらしいぞ」
かなり年が離れた先輩。社会人3年目らしい。
「そうなんですか?結構会員少ないですもんね」
ジムの経営に苦心するのはトレーナーであって、どうせ俺には関係ないことだ。
「千里くんも友達に紹介しろよ!」
そういうと先輩はシャドウボクシングを始めた。俺も縄跳びでもしようと思ったが、思い出してみればこの縄跳びを学校に忘れたせいで俺は前蹴りをもらった後、惨めったらしく帰宅したのだ。冷静じゃなかった(興奮していたとかじゃないけど)らしく、縄跳びも結局学校に忘れて。そう思うとどうにもやる気が無くなってきたので早退することにした。若者のボクシング離れである。
といっても、こんな時間に家に帰るわけにもいかない。俺は暇がつぶせそうないい感じの本屋に入ることにした。しかし、家の近くの古本屋でなら漫画が立ち読みし放題でかなり時間が潰せるのだが、ここは厳しいのか漫画はすべてラップしてあった。
入店して約5秒、早くも目的を失ってしまった。とはいっても入ってすぐ出るのも癪なので小説でも少し眺めていくことにした。絶対買うことはないけど手に取って裏側に記載されているあらすじを黙読してみる。
手にとった本はそれだけ単行本でほかの本とは雰囲気がちがい、すこしアンバランスだった。
「お買い上げですかい?お客様」
「え?いや」
俺は慌ててその単行本を本棚に戻す。
「……って安藤か?え?もしかしてここで働いてんの?」
予期せぬ不意打ちにあった俺はすぐには冷静になれなかった。安藤まどかがそこにいたのだ。
「そうだよ。でも学校には内緒だけどね。部活終わりにちょっとだけ」
バイトの制服のまどかは、今朝学校でみた時と違い髪は結っていない。正直いつもより大人らしく、かわいいと思った。本屋の店員っていうのはなぜかエプロンをしている。女子のエプロン姿はやっぱり特別なのだろう。人を安心させる癒しのオーラがエプロンにはあるのかもしれない。そのうちファッションでエプロンとかあるのかもしれない。
「その本買うの?」
「いや。暇だったからなんとなく見てただけだよ」
「へぇ、暇なんだ?わたしもうすぐバイト終わるんだよね。それで、不審者とか物騒だから親が迎えに来てくれるらしいんだけど、よかったらそれまで喋っとこうよ?」
ため息がでる。この感じだとしばらく金的騒動はひっぱられるんだろうか。いじられるのはそんなに好きじゃないぞ俺は。不審者じゃないのはわかってもらえたみたいだけど。
「マジ一般人を攻撃するのはやめてくれよ」
「あははっ。ごめんごめん!でも、不審者は最近ほんとにでるらしいからね」
俺が了承すると、まどかは店の奥に消えていく。しばらくして出てきたまどかは学生服でいつもの感じに戻っていた。やっぱり学生服っていい。人を安心させるオーラが制服にはあるんだろうな。ひとつだけ、いつも見ている制服姿にひとつだけ違いがあるとすれば、まどかはピアスをしていた。
「昨日はほんとにごめんねっ!お詫びにコーヒー一杯奢ってあげるよ」
申し訳そうにしている安藤につれられて俺は近くの喫茶店に入った。
「奢りじゃなくていいよ」
中に入ると俺はまずまどかのお詫びを断った。昨日俺を蹴ってきたのはまどかじゃないし、女子に奢らせるのはポリシーに反する。
「……そう?いいね。村井君ってやさしいんだね」
まどかはすこし何かを考えた様子をみせてからニコリと微笑んだ。こいつは誰かと一緒に居るときはいつだってニコニコしている気がする。何を考えているかわからない奴だ。
「安藤の方がやさしいだろ。昨日だって安藤には何もされてないし」
「あははっ、たしかにね。何もしてないだけでやさしいってかなりハードル低いと思うんだけど。でも、私も村井くんのこと変質者だと勘違いしてたんだし。そういえば、結局なんで女子のロッカーなんて開いてたの?」
安藤は今気が付いたかの様に質問してくる。まぁ、ここらへんはややこしいので簡単に説明させてもらおう。その日、俺はクラスの女子に縄跳びを貸していた。そのことを放課後まで忘れていた俺はボクシングジムに向かう道中でふと思い出した。ジムで使うからだ。俺は電話でその女子に了解をもらい、自分の縄跳びが入っているロッカーを探した。しかし、俺たちは入学したてでロッカーに名札が貼られていなくて、手間取っていたのだ。そうとも知らずまどかたちは俺が勝手に女子のロッカーを漁っていたと勘違いしていたわけだ。
「そうだったのか。なるほど、また海月にもそう伝えとくよ」
どうやらまどかは納得してくれたらしい。俺はコーヒーをすする。
「そういえば、安藤ってあの子とかなり仲いいんだってな。同じ中学だったとか?」
「うん。でも、それだけじゃないよ。これは中学の頃の話なんだけど、海月は私が陸上でタイムが伸びなかった時に夜まで一緒に練習してくれたりね、とにかくいい子なんだ」
どうやら海月、という子はまどかからかなり信頼されてるようだ。
「それとさ、私のことまどかって呼んでよ。わたしも千里くんって呼びたいし」
いい笑顔だ。
「そうか?まぁ、明日からそう呼ぶよ」
いきなりすぎる提案にまたも取り乱してしまった俺を尻目にまどかは立ち上がった。気づけば心の中ではもうずっと名前で呼んでいた。なんだか恥ずかしい。
「わかった。それじゃぁ、そろそろ帰ろっかな!」
「おう。それじゃ送ってくよ」
「いいよ。お母さんもう近くまで来てるみたいだし!」
「そうか……、じゃぁまたな」
「うん!また夏にでも花火したりとかしようね」
そう言い残すとまどかは店を後にした。あいつの笑顔には癒し的ななにかが、なんて思った。
俺はまだ家に帰る気にもなれなかったので、とりあえずおかわりを取りに行った。さっきの笑顔を思い出してか、すこしドキドキしている。違うな、これはカフェインだ。強心薬だ。
=
私のクラスの話題は先月まで学校を騒がせていた不審者から代わり、もっとたちの悪い放火事件で持ちきりになっていた。(ちょっと前に怖い体験をしたばかりの私にとっては不審者だって大変だけど、クラスのみんなは結構すぐ忘れてしまったみたいだ。)その上、最近まどかの様子も変だし、私は誰にも私の身に起きている異常事態を相談できずにいた。
今、私の美術部がまさに今、大変なことになっているというのに。
「立花、どうしたんだよ?」
私を悩ませているそいつは、いかにも親しげに私の名前を呼ぶ。
「……なんでもないです。それで、君はなんで美術室にいるんですか。いつ頃お帰りになられるんですか」
私は読みかけの文庫本から目を離さずにそいつにギリギリ聞こえる程度の声量で小言をこぼした。
「前から俺も美術部だっただろ?同い年なんだから敬語はやめてくれよ」
私の悩みの種というのは、ずばり、先月まで部活に二、三回も来たことがないくせに何故か最近やる気をだした同級生の幽霊部員のことだ。この男のおかげで私だけの緩やかな快適部活ライフは崩れ去ろうとしている。
「わかった。でも、君すぐ部活来なくなったじゃん。やめたんだと思ってたんだけど」
「それはほら、あんまりここの先輩すきじゃなかったしさ。先輩が引退してからまたこようと思ってたんだよ。てか要でいいぜ。君って呼ばれるのも痒くなるしな」
いちいち注文の多い奴だ。そもそも見るからに文化的要素0なのに、なんでまた美術部なんて入ったんだ。やっぱり楽そうだったからだろうか。共通点ですね、素敵!だったら、部活に来なかったらもっと楽なのに。
「それで、なんで要くんがいきなり部長になるって話になるわけ?」
まだ六月だというのに三年生の部員は受験勉強が忙しくなる為、もう部活には顔を出さなくなっていた。だから、今美術室にいるのは私とこの新谷要だけだ。顧問の山下先生も今は外出中である。
「それはお前が部長になるの断ったからだろ?てかお前さっきからなんで俺に対して厳しいんだよ、俺なんかしたか?」
現在進行形でお前は私の聖域を侵してるんだよ、この馬鹿野郎。つまり、どういうことか私の謙遜を真に受けた顧問はあろうことか幽霊部員だった要を部長に任命したのだ。まったくおかしな話である。ため息だって出てしまう。私はあれだ「ふへへ、私が新部長っすか。勤まるかなぁ、不安だなぁ」と言っただけだ。私しか部活に出てなかったんだから私が部長だろう!勤まるも何も部員ひとりなんだから問題ないでしょ!ちょっといやいや部長に任命された感を演出させてくれたってええやん!なんでわかってくれないの、山下先生!
「人のことお前呼ばわりするのは失礼だと思うけど」
「おぉ!わりぃ。海月っていうんだよな?」
「立花です」
さっきまで立花って呼んでたじゃん。急に距離詰めようとしてくんなや。
「……おーけぃ。それじゃぁ立花に相談があるんだけど」
こっちの冷たい態度も全然こたえていないみたいだ。こいつ、強い!
結局、要の相談とは文化祭のことだった。もう少ししたら文化祭があるのだが、新入部員しかいない美術部は何をすればいいのかさっぱりわからないのだ。引退したばかりの先輩が手伝ってくれてもいいと思うのだが、今は受験が大変だと言っていたから何もしてくれないだろう。本人が先輩と不仲っていってる要もいるしおそらく希望はない。私は文庫本をしまう。
「やっぱり先生に聞いた方がいいと思うよ。私から聞いてあげようか、部長?」
もしかしたら、絶対参加しなくちゃいけないわけじゃないかもしれないし、断れるなら断っていいと思う。
「まじで!?じゃぁ、悪いけど頼む!」
リュックを背負い、美術室を出て、私は決意を固める。要と先生で話し合ったら文化祭で絶対面倒くさいことをやりそうなので仕方がない。個展とか、展示会とか。今までさぼりにさぼってきた私と幽霊部員だった要には人に発表できるような作品はない。しかし、山下先生がやる気になれば「よし!じゃぁ文化祭まで缶詰で作品を作りまくっちゃおう!!」とか言うに決まっている。私は嫌だ。ならば、今回は私が悪役を買って出るとしよう。
職員室についたのは良いものの山下先生は見当たらなかった。この先生の面倒な所、その1がこれだ。探してもなかなか見つからない。これは引退した先輩に教えてもらった受け入りだけど。
「山下先生なら化学室のカギをもって出ていかれたぞ」
山下先生は多忙で美術部だけじゃなく、科学部と読書同好会の顧問なのだ。しかも、少なくとも私が見る限り両立はできていない。顧問が中途半端でも部員が何とかするから関係ないんだけど、なにかをやりたいっていうモチベーションだけはすごいんだよなぁ。
科学部は今日は定時連絡会だけだったようで、活動はしていなかった。余談だけど、科学部っていつも何しているんだろう。何かを作っているのか、誰かの発見を再証明しているのか。どちらにしろ、私には何が面白いのかわからないけれど、こういうチマチマしたことを楽しみながら出来る人が世に役立つ発見をするんだろうな、と思う。化学室がしまっているのを確認すると次は図書室に向かう。読書同好会ならまだやっているはずだ。しかし、図書室では、読書同好会の姿はあるものの、そこに山下先生はいなく、代わりに「あいつ」、村井千里がいた。
(げっ!)
私が急いで引き返そうとすると後ろから
「この前の!」
私を止める声が聞こえた。に、逃げられない…
そう、この前の変態である。いろいろ誤解があったにせよ一度KOしてしまっている男子なだけに、気まずい。力を持つということは必ずしも生きやすくなることとは直結しないのである。
「あの、山下先生いなかった?」
かといって、勝者である私が黙りこくってしまうのもアレなのでとりあえず聞いてみる。
「あぁ、えっと。さっきまでいたぜ。5分くらいしたら戻ってくると思うけど」
彼は議論に白熱中の読書同好会を指さして、意味ありげな顔をした。察しろ、と言いたいようだ。いや、わからんわからん。よくわからないが、おそらく山下先生はいま同好会が行っている読書評論が面倒になって逃げたのだろうか。きっと、意気揚々に読書感想会をしようと提案したものの、期間内にその作品を読み切れなくて逃亡したとかかな?山下先生ならありえる。それよりほぼ初対面なのにアイコンタクトだけでわかるわけないでしょ、と千里に突っ込みたかった。けど、わかってしまったので今回は保留。
「それじゃぁここで待ってるよ」
うーん。気まずい。でも。いろいろ行って探すよりも千里と一緒にいたほうが楽そうだ。私はリュックから文庫本を出す。とはいっても静かなことが原則の図書室で口うるさく議論している読書同好会のせいで落ち着かない。どんだけ意見割れてんだ。騒ぐんなら外出ろよ、と思った。しかし、職員がいないので誰も注意しない。もちろん私もしない。
「何読んでるの?」
千里はいきなり尋ねられた質問の意味が分からないようで、考え込んだ。
「それって結構古い本だよね。昔、お父さんも読んでた」
私に言われて千里は自分の読んでる単行本を眺める。
「そうなんだ?」
「てか、今私もおなじの読んでる」
ほら、と私は手に持ってた文庫本を見せる。単行本と文庫本では重みも質感も違う。だから、文庫本を持ってる私の勝ち。内容は同じでも私のほうが強い。ふふふ、と笑みがこぼれる。千里には意味が分からない、私だけの優越感。
「山下先生になんか用事あんの?今、陸上部練習中だろ。図書室でゆっくりしていて大丈夫なのか?」
千里は単行本に栞を挟まずに本を閉じる。
「私、美術部なんだけど……」
一瞬変な空気が流れる。質問の意味を問う長い沈黙が読書同好会にまで伝わってしまいそうだ。
「そうなんだ?安藤が夜まで練習付き合ってくれたっていってたからさ」
千里が妙に平静なせいで私のほうが慌ててしまう。
「あ!なるほど。いや、中学までは陸上やってたから。そのときの話じゃない?」
中学校の貴重な三年間、陸上を通して培ったものはなにもない。だから私は高校に入ってまで続けなかった。優劣を競う競技は健全じゃないと思う。きっと、身体を動かしている当の本人はそんなこと考えてないんだろうけど、あいつは足が速いから凄い、とか、あいつは高く飛べるから凄い、とかで話しかけられる関係性はなんだか本質的に私を見ていない気がして嫌だ。誰かに認められたいわけじゃない、その筈なのに中学三年生の時に足を骨折したとき、私はまるで自分が否定されたかのように、周りの目が耐えられなかった。期待されたいわけじゃない。でも、失望されたいわけでもないのだ。それなら、そのフィールドにいないほうが健全だ。私は、私の足が止まった時、振り返って何かが残っている人生がいい。あのとき私はそう結論付けた。
「そういうことか」
千里は一度閉じてしまった本をまた開く。
「そのページじゃない?」
「いや、違う」
一度見失った指標は当てずっぽうでは見つからないものだ。ふと時計を見るともう三十分もたっている。そこまで会話した覚えはないが、変な間があったからそのせいだろうか。
「山下先生来ないみたいだしそろそろ戻る」
「そうか。じゃぁまた。えっと……」
「あぁ、自己紹介してなかったっけ?私は立花っていうの。そっちは千里くんだよね」
「おう。じゃぁまたな。立花」
私は図書館を出ていく。さて、何処を探そうか?とりあえず、要に現状報告をする為に美術室に戻ろうか?
美術室に戻ると要と山下先生が文化祭について話し合っていた。ため息をつかずにはいられない。これが山下先生の面倒くさい所その2だ。タイミングがいいのか悪いのか。
=
「さぁ、準備満タンだぜ!千里!」
田辺は夜の八時だというのに今日も元気だ。いままさにコンビニから調達してきた大量の花火を種類別に並べている。ここで田辺に買い物を任せると買いすぎることが判明。たぶん予算のギリギリまで買いやがった。
「余ったらまたやればいいんだしね」
田辺が花火を整理している後ろから、まどかはニコニコしながら田辺をかばう。
「次は俺も最初から誘ってくれよ?」
要が恨めしそうにする。初対面のくせに距離が近い奴である。初めは俺と田辺とまどかで花火をするために学校からほど近い公園に集まったのだが、文化祭のために買い出しをしていた海月と要にばったり出会ったのだ。
「お菓子とかってあるの?」
海月は要のすぐ横に座り込んだ。スカートの前を覆うように両腕を膝に置く。
「ジュースならここにあるけどな」
要は重そうなレジ袋をふたつ軽々と持ち上げた。
「いや、それは文化祭用に買ったやつでしょ」
海月の要とのやり取りを見ていると、初対面の時とだいぶ性格が違うように感じる。人によって態度が変わるやつなのかも、今のはだいぶ冷たい感じだ。でも、要も嫌な顔をしない。調教されてるんですかね、これは。
「お前らってホント仲いいんだな。夜遅くまで男女で一緒に買い物に行くなんて何買ってたんだよ。何mmだ?俺らが花火してる間に何スパークさせようとしてたんだよ」
海月と要の関係を怪しいと思ったのか田辺の審問が始まった。こいつはブレないな。
「いや、文化祭の出し物だって。一緒に居るのは夜が物騒だから」
海月が言うと、まどかが後ろから俺の両肩に手を置く。
「不審者がでるかもしれないもんね」
まどかは海月をからかって笑っている。からかわれているネタに自分が噛んでる気がするので何とも言えない気持ちだ。
「要が一人で行けばよかったんじゃね?」
しかし田辺は要をまだ怪しんでいるようだ。
「そりゃそうなんだけど俺、何が必要とかわかんねぇからさ」
困ったように要は頭を掻いた。
「なんだよそれ!男が用意するのは愛だけだろうがよ」
田辺は早くも要と打ち解けたようだ。ふたりは再びコンビニにドリンクとお菓子を調達しに行った。
「…それで、今日の面子ってほんとはなんの集まりだったの?」
まどかのからかいがひと段落した海月は俺に質問をしてきた。
「俺とまどかが初めに花火しようって計画したんだよ。んで、それに田辺が乗っかってって感じだな」
俺は家から持ってきたライターに火が灯るのを確認しながらしばらくライターを擦っていた。
「うん。でも、海月が来てくれてちょっと助かったかなぁ。私、田辺くんのことあんまり知らないし」
えへへ、とまどかは笑う。俺の手元にあるライターはまどかの耳元のピアスを少しだけ照らした。進学校でピアスをしてるやつなんて、そんなに多くない。俺が知っているピアスをつけている女子なんてまどかくらいだ。
「そうだったのか。なんか悪いな。へんなもん連れてきちゃって。でもあいついいやつだから大丈夫だよ」
海月もまどかのピアスに気づいたみたいだ。あれ?っという顔を海月がするのを見てまどかは耳元を手で隠した。
「そうだねー。田辺くん面白いしね!」
しばらくしてからふたりが酒とつまみが入った袋をもって帰ってきた。
「千里!こいつすげぇぞ。店員の年齢確認なしで酒めっちゃ買えたぜ!ビバ・老け顔だな」
田辺がバンバンと要の肩をたたく。
「あんなの堂々としとけばいいんだって。まぁ、酒を飲みたい時はいつでも呼んでくれよ!」
要がドンっと自分の胸を叩いて、それにまどかも便乗する。
「すごいじゃん!なんかお酒とか高校生って感じする!」
はしゃいでる三人を尻目に海月が不安そうに俺に聞いてくる。
「お酒飲みながら花火なんてして危なくないかな」
ライターの明かりは遠くにいる三人には届かない。
「俺は酒飲まないから大丈夫だよ」
「え、千里くん飲まないんだ?」
まどかは体を斜めに傾けて俺のほうを向いてくる。俺はまどかに聞こえるように声を張って
「おう。あんま好きじゃないんだ」
まどかは不思議そうに顔を覗き込むとそれ以上は聞いてこなかった。
みんなが一斉に花火を始めると目の前でいろんな色に光って、ちょっとした感動があった。みんなも同じように感じているようで五人はただ無言でぼぅっとそれを眺めていた。
花火は火が付くと一気に燃え上がる。燃え方、色、形、時間はそれぞれ違って、たとえ短い時間で消えてしまったって、さっきまで燃えていた証に煙が上がる。きっとこれは俺たちみたいなんだな、よくわからないけどそう思った。多種多様で何もかもが違う。
「花火っていいな」
誰かがつぶやいた。
「いや、そうだな。今度はこれやろうぜ!」
田辺がそういうとみんな自分がしたいように花火で遊びだす。花火に飽きると次は酒を飲みだした。最初はみんな慣れない酒が進まなかったものの、つまみが美味かったらしくひとり、またひとりと徐々に酔いだした。
「もう顔まっかじゃねぇかよ」
要の顔はもう随分赤い。自分が一番赤いくせに要は海月を嗜める。
「はぁ?誰に向かって口聞いてんの?さてはお前、私のお酒を欲しがってるな」
海月はビール缶を要が見えないように体の隅に隠した。
「なんだ!?誰が大口を開いて何を欲しがってるだって!?悶々としながらナニを欲しがってるって!?」
田辺は体を押し出して海月に迫る。
「私じゃないよ、あっちだよ」
海月は田辺の顔を強引に要に向ける。
「え、いや、俺はそっちのケはなくって。すまん、要!」
田辺は慌てて要から離れる。
「なんだよ。やさしくしてくれよ。友達だろ?」
要は田辺を追いかける。
「お前はあれだ、ボールの次に友達!」
なんだかサッカー部みたいなことを言っている。
「やさしく包み込むように」
要は聞いていない。なんだか、ひとりで楽しくなってしまっているようだ。
「田辺ってサッカー部なの?そういえば、私も最近ボール蹴ったなぁ」
「え、お前も?」
田辺は海月を盾にしながら聞き返した。
「うん。ゴールデンボールだけど」
「え!?もっと詳しく!?」
なれない酒に溺れる三人を気配りながら俺はひと段落した花火を片付け出す。
「まどかは飲まないのか?」
「うん?飲むよ?お酒は飲んでも飲まれるなー!おー!」
まどかはいつもみたいに笑いながら片づけを手伝ってくれる。まどかはバイトで鍛えたのかかなり要領よく動いていく。なんだか年上の先輩みたいだ。
「まどかって本当に手際いいな」
「はははー!そうかな!?」
酔っぱらいを横目に見ながらまどかはなんだか落ち着かない様子だ。そしてまどかは言った。
「千里くん、ちょっと話せる?あっちで」
少し離れてみんなの死角に入ったあたりでまどかはぽつりぽつりと喋り出す。
「千里くん?あのね?もしかしたら気づいてるかも、……なんだけど」
次の言葉を探しているようだ。まどかが言葉を見つけるよりも先に俺から切り出さなくてはいけない。そう思った。
「今日楽しかったよな!」
「えっ?うん」
「俺たちさ、何年もたって、大人になってもまた一緒に花火できんのかな」
「あはは。どうだろうね?」
顎に手を置いてまどかは考える動作をする。
「もし、私たちがそうであることを望むなら、きっと大丈夫なんじゃない?」
ああ、そうだよな。と俺は心の中で想う。
「それでさ、千里くん」
まどかは話を進めようとして来る。この一か月で俺は気付いていた。こいつはよく俺のクラスにくるようになったから。こいつの考えてることなら言わなくたってわかる。
「まどかはずっと俺の友達でいてくれよ。そしたら、その、うれしいんだけど」
少し間が空く。まどかは時間が突然止まったかのように動かなかった。
「……そっか。うれしいか」
まどかの笑顔が固まる。
「それが千里くんの望むこと?」
俺は答えない。まどかの言葉を遮ったくせに、俺にはなんて言えばいいかわからなかった。
「わかった。そっか、そうだね」
気付いていた。まどかはきっと俺のことが好きだった。俺は、はたしてどうだろう。まどかは三人の方を向いた。
「えーと、まだお酒、あるかな?」
花火は消えて光はまどかの顔を照らさない。でも、俺にしか聞こえない音が、チャポンと水が落ちた様な、はかない音が聞こえたような気がした。
「どうだろうな」
見えてもいないのに俺は顔をまどかから逸らす。
「なんか、飲みたくなってきたよ。あれ?あはは、今なんかサラリーマンっぽかったね」
視界の端でまどかは涙を拭う。
「いいと思う」
俺がそういうと、まどかは完全に俺から反対に体を向けて
「じゃぁいっちょ参戦しちゃおっかな!!」
それだけいうとまどかは三人のもとに戻って行った。
残された俺はさっき拾った花火をまとめて、そしてまだ使っていない花火を集める。
俺は、はたしてどうだろう。恋愛感情に論理性なんてない。恋愛ゲームみたいにイベントがあって納得いく形でゴールイン、なんて現実ではありえない。俺はまどかを可愛いと思うし、たまに弾む会話も気に入っている。ただ、火が付いたら形が変わってしまうような予感があった。俺はきっと誰のことも好きになれない。好きになったらきっとこの関係も終わってしまう。それならきっと、きっとこのままのほうがいいんだ。まどかの為じゃない、俺の為の判断だった。
たとえるなら花火のような。どんなに激しく燃え上がる花火でも火種は持ち手に上がってくることはない。熱さえも伝わらない。手の先で燻る残り火を眺めるだけだ。
=
うっとおしいくらいの晴天。学校のグラウンドに建てられたいくつものテントは眩しいくらいに太陽を反射して、テントの中にいる私たち美術部にも際限なく灼熱の光線を向ける。熱い。ただでさえ暑いのに手元の鉄板がめっちゃ熱い。たったいま、文化祭はとても大変な事になっている。
要と山下先生は結局、出し物をクレープに決めた。斬新なクレープにして客受けをよくしようと工夫までしてだ。部員ふたりでどうやって店を回していくつもりだとか、もっと考えろよと言ってやりたい。というか要には言ってやったんだけど。先生にも言ってやりたい所だが残念ながら今日は欠席なので仕方がない。そもそも文化部が文化祭でクレープって、運動部の枠を完全に奪いにいってるよね。そのせいかさっきから中庭が手持無沙汰な運動部で生い茂ってるんだけども。多分出店的な出し物も結構競争率高かったと思うんだけど、こんなところで山下先生の行動力が発揮されちゃったということか。
三人で考えた斬新なクレープ(正直そんなに斬新でもないのであえて説明する気はないけど、白玉とか白滝とかそういうの)のおかげで始まって二十分ですでに結構な行列だ。今回、重要になるのは美術部に作戦はあるのかということだが、実のところ今日を想定したフォーメーションはすでに組んである。そう、私と要がクレープを作り、先生がレジと言う陣形で何回か練習を重ねているわけである。ただ、唯一の誤算は顧問の不在。文化祭では山下先生の行動力が留まることを知らない。周ってるんでしょうか、展示会。クレープは飽きたのかな?
当日になって山下先生が欠け、どんよりとした絶望に包まれていた私たちに思わぬ光が見えた。なんと、前日チケット販売制の恩恵でレジなどいらなかったのだ。フォーメーションがそのまま生かせるのなら希望を失うわけにはいかない。まぁ、山下先生はわかっていたんだろうけどな。何のための練習だったのかというと、おそらく山下先生の偽装工作に他ならない。手伝う気などさらさらなかったのだ。あの反復練習は当日動けるようになるためだけのブラフっ…!策士である。
「ちゃんとできるかな」
私は頭に巻いたバンダナから伝う汗を拭う。
「無理なら無理でいいだろ。どうせ今更チケットを現金に戻すのは無理なんだし」
人のやる気を削ぐことを言う要だった。文化祭という盛大な祭りでそんな雑なことをしたら、この先の学生生活にどう影響するかわからないだろ。
「でも、せっかく練習したんだし。結果は出したいよね」
私が言うと、要は腕を捲った。
「たしかにな」
次第に無駄話をする暇もなくなるくらい忙しくなってくる。
「作るのおせぇ」
やめろ。それ以上言うな。
「このクレープ小っちゃくない?ぜってぇぼったくりじゃん」
お客さんがほとんど上級生では最下生は肩身が狭い。
しかし、環境に体が適応するとはこのことなんだろうか。いまや私の耳はうるさいクレームが鼓膜を通らないように進化し始めている。だからと言って結局のところ、それはそれ、これはこれだ。クレームとか関係なしに忙しすぎて仕事が回らない。目は回るよ、クラクラする。へへ、これが酸素欠乏症ってやつかい?キマッてきたぜ…
「海月!?大丈夫!?」
陸上部の面子をかき分けて、まどかがテントにやってきた。
「いや、もう無理かも……」
まどかさん、あたしゃもうお仕舞だよ…
「大変だ!こうなったら私も手伝うよ!」
まどかはそういうと、これかな?あれかな?とクレープの材料を物色し始めた。
「え!?」
本当にピンチの時、持つべきはやはり親友である。後で一緒にガツンとキメよう…!ともかく、まどかの参戦によって状況はかなり良くなった。そのおかげで視野も広くなる。クラスメートが結構並んでくれてるのに気が付いた。
「どう?文化祭楽しんでる?」
今まで黙って見ていた同級生たちは私に余裕が出てきたところをみると一斉に話しかけてきた。
「いやいや、見たまんまだよ。全然他のとこ周れてないし」
いつもなら彼らの目線をガードしている文庫本も今の私には無い。
「立花さん、クレープ作るの得意なんだ!」
いや、これは山下先生が勝手に…
「そうだろ?立花はすげぇんだよ。流石、我が美術部のホープだよ」
私が言おうとすると要が割って入ってきた。
「こいつは絵を描くだけじゃなくて、料理本とか自己啓発本とかいっぱい読んでるんだよ」
いや、お前、私が自己啓発本読んでるの見たことないだろ!お前と話してるときに読んでるのはいつも同じ文庫本だろうが!
「絵画に読書、芸術に人生の重きを置いてるやつでさぁ」
はぁ?いや、はぁ!?お前あれだろ!さては、疲れたからちょっと休憩するために出てきただろ!
「へぇ、まどかも美術部入ったんだぁ」
一度始まった同級生たちの会話は止まらない。
「今日だけねー!クレープ屋さんって子供の頃夢だったし」
まどかはなんだか余裕な感じだった。バイトしてるのバレるんじゃないの、とか思ってしまう。でも、実際うまくやってるんだよね。頭が上がらない。
「えー、いいなぁ。わたしもしたいー!」
集まったガヤの中の誰かが言う。私はこんなところでまどかのすごさを思い知ることになった。まどかのためにクレープ屋を手伝ってくれる男子女子が数人だが現れたのだ。
「本当にありがとう!みんなのおかげで文化祭すごく楽しかったよ!」
私は頭を下げる。この人たちのおかげで私と要は文化祭を周れて、山下先生も見つけられて(そのあと、ちゃんとクレープも手伝わせた)、クラスの出し物も見に行けた。この人たちが居なかったらたぶん全部できなかったことだ。
「いやいや、俺らも楽しかったし!」
全然喋ったことない子が手伝ってくれたのがとてもうれしかった。それだけでクレープをやってよかったと思える。たぶんこれは文化祭の出し物を提供する側じゃないとわからない。私たちは新入生という分際で文化祭を隅から隅まで楽しんでしまったのだった。
みんなと要と解散して私とまどかも電車に乗る。まどかのバイトが忙しくなってからふたりで帰るのは久しぶりだった。
「そういえば、一緒に帰るの久しぶりだよね」
私はリュックを身体の前側に持ち直して手すりを掴む。
「本当だね。最近は部活もバイトも忙しかったし、結構大変だったんだよ」
まどかは車窓越しに遠くを見ながら言った。
「そっか。 クレープのことホントにありがとね」
私は心からの感謝をまどかに告げる。
「あはは!気にしないで。照れるじゃん!」
まどかは真面目には取り合わないけど、ちゃんと伝わっている。
「でも、まどかは人望あるね。マジすごかった」
電車は人が込み合ってきて、私たちは押されるようにお互いに近づいた。
「あぁ、あれね。あれは人望とは違うと思うよ。たぶん元から困った人をほっとけない人たちなんじゃないかな。海月ってどんなに大変な時でもつらい顔しないじゃん?だからきっと、いままで誰も気が付かなかったんだよ」
私にだけ聞こえるような声量でまどかは言う。
「あははっ、つらい顔する前にクレープ焼かないといけなかったしね。仕方ないかも」
屁理屈。私っていつもそうだ。いつの間にか、まどかを見ると彼女と自分との差を意識してしまっている。
「はは、それもそう!…でもね、目の前が真っ暗になったときはいっそのこと開き直って目をつむってるくらいじゃないと周りが見えてないことに周りも気が付かないんだよ」
まどかははにかむ。いいこと言うじゃん。私の中に響いたこの格言は車両の中でもさぞかし響いたことだろう。
「海月の場合はそれプラス耳も塞いで、しゃがみ込む位じゃないとね」
まどかが言ってることはとても理解できる。昔馴染みだからこそポーカーフェイスな私の危機に気付き、助けてくれていたのだ。本当にまどかにはかなわない。
「そういえばさ!」
私がそう言ったとき、まどかは人ごみに押されて私とは逆側に行ってしまった。
そういえば、いつピアスし始めたの?簡単な質問だったはずなのに、私は聞けなかった。いままでなら、私はまどかのことならなんだって知っていたのに。
=
あの花火の告白が終わったあとも、俺の周りはこれまでと変わらない日々が続いている。夏休みが始まり、田辺は部活が忙しくなったし、まどかともあまり出会わなくなっていた。できれば夏休みに学校は行きたくないんだけど、帰宅部の俺にも学校に行く理由があった。赤点補習だ。
俺は昔からテストが苦手だ。なぜか緊張すると実力が出せなくなってしまう。授業出席率さえ完璧ならば補習の対象にはならないという噂は結局のところただの噂で、今、まさに勉強不足のツケを払わされている。入学したばかりのこの時期にいきなり補習を受けてる生徒なんて大抵まともなやつじゃない。
「なんで補習に来てまで寝てるんだよ、お前は」
たとえばこいつ、新谷要だ。教員に起こされても寝ている要の眠気を覚ますのは俺では無理なのかもしれない。終了のチャイムが鳴ってからも起きようとしない要をほっといて、俺は一足先に帰ることした。教室を出ると廊下を右に曲がり、グラウンドが見える踊り場で立ち止まる。視線の先に陽炎が揺らめくこんな猛暑日でも運動部はグラウンドで汗を流している。
まどかはあれからもかわらず俺のいるクラスに遊びにきていた。友達の多いあいつをあんな半端な振り方をしたわけだから、けっこうやばいんじゃないかと思ったが、特に誰も何も言ってこなかった。
「女子でも見てんの?」
後ろから聞こえた声の主は振り向かなくても足音でわかる。立花海月だ。
「……陸上部が走ってるなぁってな」
「まどかを探してるならあっちだよ、高跳び。あの子は跳躍専門だから」
海月は俺の横に並んでグラウンドの隅を指さす。まどかがちょうど背面ジャンプをして高跳びのバーを越え、その奥のマットに沈んでいった。
「私の身長くらいだったら軽く飛び越えるよ、まどかは」
海月は少しだけ誇らしげに胸を張った。
「すげえな」
俺は短い返事をする。
「まどかは手足がすらっとしてるから跳躍向きなんだよ。かわいいしね」
踊り場には俺と海月しかいない。だから、海月の言葉は俺に向けられたもので、だから、俺は応えなくてはいけない。
「なんだよ、さてはお前、まどか信者か。てかなんで立花学校来てんの?補習?」
でも、俺は応えることを避けた。話を変えることに成功したはずだ。
「いやいや、部活だって。さすがに補習はないわ」
たしか、美術部だったよな。…でも
「いま部員ふたりしかいないんじゃなかったっけ?要は補習だったし、ひとりでやってんの?」
海月はうなずく。近々コンクールがあるらしいのでそれに出展するための油絵を描いているらしい。
「まぁ、私面倒な事嫌いだし。別にコンクールにでなくてもよかったんだけど。山下先生が私の名前で勝手に応募しちゃってさ」
「ま、なんでも一回ぐらいならやってみてもいいかなって。たまたま私にしては珍しくやる気ある時期だし、今」
どうせこれから何もすることがないので絵でも見せてもらってもいいか?と俺は聞く。
「え?無理無理!わたし今まで絵とか描いたことないし、人に本気なやつ見られるのは恥ずかしすぎる」
海月は慌てて手を振って、その反動でちょっとだけ仰け反った。
「今まで描いたことないのにいきなりやる気になったのか?」
海月がこんなに動揺しているのは珍しい。といってもあの花火以来数回しか喋っていないけど。
「文化祭で結構大変な目にあったんだよ。けど、やってよかったって思えたんだよね。だから、今回もやってみようかなってわけ」
海月は一呼吸置いて、
「単純に忙しかったってだけなんだけど。けど、まどかとかが助けてくれた」
また、まどかの話題か。俺は少しだけうんざりする。
「へぇ、ホントに仲いいんだな」
海月はまどかから何も聞いてないのだろうか。あの花火の日のことを、まどかは誰にも言っていないのだろうか。
「まどかは昔からかなり気が利くんだよ。でも、それって周りにいつも注意してるってことだから、結構疲れると思うんだけど、私は例外らしいよ。よくわかんないけど」
そういえば、まどかも前そんなこと言ってた気がする。いや、言ってなかったか。あいつはいつも誰かの手伝いをしようとするから、俺が勝手にそうだと思っていただけかもしれない。
「で、要もそのコンクール出るってわけか。なんか寝不足っぽかったぜ」
また、俺は話題を変える。まどかのことが話題になると何を言っていいかわからなくなるから。
「そうなの?へぇ、あいつがねぇ。……なんだかんだやる気あんじゃん」
「そのせいで補習の方は寝てたけどな」
やる気があるはずだから補習にきてるんだろうに、何をやってるんだあいつは。
「てか、そのエナメルバッグ、デカすぎじゃん!」
海月は俺が肩から下げている黄土色のバッグを指さして笑う。
「何教科補習受ければそんなにバッグぱんぱんになるの?」
俺は急に恥ずかしくなり、慌てて身体の後ろにバッグを隠した。
「いいんだよ、これは。俺はいろいろやることあんだよ」
そういって無理やり話を切り上げて、挨拶もそこそこにその場を去った。
急ぐ必要はないけど俺はなるべく速足で外に向かった。海月に腹が立ってるわけじゃない、むしろいい奴なんだろうって思う。けど、まどかの話をされたからだと思う。なんだか気まずくなっていた。誰に対してでもなく、自分に。なんだかわからない感情のまま、俺は学校の校門から出る。誰にも会いたくない。ただ、ほうっておいて欲しかった。
「千里じゃん!今から帰るのか?」
学校前のコンビニから出てきたのは要だ。さっきまで寝てたんじゃないのかよ。間の悪い奴だ。
「いや、まだ帰らねぇ」
鞄の中で縄跳びが何かにぶつかってカチンと音を鳴らす。
「今からジムだよ」
俺の返事に要は目を輝かせる。
「へぇ!体鍛えてんの?どこのジムだよ?」
俺はめんどくさいな、と思いながらもジムの説明をする。ジムは最寄駅から四駅向こうのビル街の一角にある。名前はたしか横文字なんだけど、誰も正式名称を覚えてないから、みんなヒイラギジムと呼んでいる。トレーナーの柊さんが現役を引退した後に建てたボクシングジムだ。
「へぇ…、ボクシングか」
興味が出てきたのか、要は携帯でヒイラギジムの位置情報を検索を始める。なんと、驚くことに「ヒイラギジム」で検索に引っかかったようだ。本当に誰も正式名称を認知してないんだよな…
「また遊びに来いよ。結構やさしい人多いし歓迎してくれると思うぜ」
検索が終わると、要は携帯をポケットにしまい、コンビニで買ったツナサンドの封を開けて、それを一気に頬張った。
「そうか。じゃぁまた今度行ってみようかな。暇だしな。ちなみになんで千里はボクシング始めたんだ?」
「暇な時間があったからだよ」
要は食べ終わったツナサンドの袋をレジ袋にしまうと、今度は焼きそばパンを取り出す。なんだ、こいつ。ここで全部食べるつもりか?
「だったらたまに美術室にも遊びに来いよ。おれも立花もいつでもウェルカムだぜ」
ニカっと擬音がつきそうな笑顔だった。
「それと、もう一個理由がある」
俺はもう少しだけ要と喋っていることにした。ジムには別に決まった時間に行かないといけないわけじゃないし、時間を潰せればジムだって要だって一緒だ。それに要はレジ袋からお茶を取り出したところで、つまり、まだ俺と話していくつもりなのだろう。
「おっ!なんだよ??」
「くだらないんだけど、笑うなよ……」
俺は要の顔を伺う。
「俺の親父、二年前から刑務所に入ってるんだ。なんで捕まったかはよくしらないけど、いつ出てくるのかもわからねぇ。それなりのことをしたんだろうと思ってんだけどさ。しかもな、親父が捕まってから俺の母さん、頻繁に警察官の男を家に連れ込んでんだよ。俺が学校から帰ってきたら、いつも酒の匂いがしてな。ふたりで毎晩、酒の瓶を空にして酔っぱらってんだよ。実際見てたら引くとおもうぜ。他のやつがいいならさっさと離婚したらいいのによ。多分、親父が刑務所にいるから離婚の手続きするのが面倒なのかな、しらねえけど。意味わかんねぇよな。だから俺はできるだけそんな家にはいたくないんだ。なんていうか自分の家にいるのが気持ち悪いんだよ」
すこしして物凄く後悔した。たいして仲よくもない奴になにをいきなり語っているんだ、俺は。これは学校でも隠しておきたい話だったのに。
親父が犯罪者になってから俺を悩ませてる言葉がある。
“蛙の子は蛙”というやつだ。
=
「はぁ。今日から合宿なのに不調なんだよ」
まどかはまた美術室に遊びに来ていた。合宿前にちょっと私と話したいということだろう。
「っていっても、一年生なんだから、まだ大会とか出ないでしょ?」
私なら部活で実力が伸び悩んでもそこまで気にしないけど。
「まぁそうなんだけど…。なんかくやしいじゃん?ホントはもっと高く飛べるのに、みたいな?」
5cmや10cmの世界での話なんて、そこまでこだわることはないでしょ、と思う。でも、そういうことじゃないんだろう。陸上から退いた私には、たぶんもう理解できないことだ。
「そういえば、中学ん時も何回かそんなこといってたよね。スランプの原因は勉強だったっけ?」
まどかはひとつ上手くいかないことがあると芋づる式に駄目になるのだ。
「わかんない。はぁ、海月はいいよね。やりたいこと全力で取り組んで、そしたらこんなすごい絵までかけちゃうんだから。ねぇ?これいつ完成するの?」
要の作品しか比べるものがないからそう思うだけだとはわかっているけど、褒められること自体はうれしいし、素直に喜んでしまう。
「もうすぐ完成だよ。来月にコンクールがあるんだけど、それまでにいろいろ書いて一番いい奴を出展するつもり」
なんとなく出来心で絵のふちを柔らかく撫でてみた。でも結局気恥かしくて変な笑いがでる。まだ作品はひとつも完成できていないのにもう一端の芸術家気取りだ。入部したばかりの私が今の私を見たら、きっと「うげっ!」っていうだろう。
「へぇ、ちゃんと美術部らしい活動だね。先輩がやめたら何もしなくていいって喜んでたのに」
たしかに入部したときはそんな思惑もあった。けど、文化祭以来私の気持ちは変わったのだ。まったく逆転したといっても過言ではない。それは、私の親友のおかげで、だからこそまどかには私が変わっていく姿を見ていてほしかった。
「まぁね、私も成長してるってことだよ」
「ふぅん、そっか」
「ちなみに、私はまどかのスランプ解消に手を貸してあげるくらいには成長してるよ」
私は背筋を伸ばし、まどかの方に向きなおす。
「それはいつもじゃん。っていっても後一時間したら送迎バス来ちゃうけどね」
なるほど、ならば問題を解決するには急がなくてはいけなさそうだ。
「やっぱり原因を探るのが一番だと思うよ」
「原因か、……なんだろう?」
まどかは思い当たらないようだ。だが、私には心当たりがあった。
「きっと、千里くんのことじゃないかな?」
「え?ち、違うよ!」
まどかは昔から自分のことは隠そうとする所がある。根っから秘密主義者だ。それは友達としてはあまり楽しくない。油絵の匂いがつんっと私の鼻孔を刺激した。
「あれ?自分でも気づいてない?まどかと千里くん、結構お似合いだよ」
私はまどかの背中を押してあげる意図でそういった。まどかが千里のことを好きなのは、見ていてわかるから。
「私たちはただの友達だよー!それ以上でもそれ以下でもない!」
まどかは慌てて立ち上がる。
「それ以上になりたいとは思わないの?」
私はまどかを見上げる。
「思わないに決まってるじゃん!なんで?」
まどかを見上げて、私が座っている椅子が少し軋んだ。
「まどかってたまに意味ない嘘つくよね。隠してもバレバレだよ」
「ついてないし!」
沈黙。私と親友の間には訪れることはないだろうと思っていた、重く、痛々しい沈黙。そして、
「なに?なんでそんなこと詮索されないといけないの?」
まどかは急に怒った。本当に急に。こんなに怒ったまどかを見るのは初めてで、かなりびびった。その時、私もやめておけばいいのに、今の言い方はないだろう。私はそんなつもりで言ったわけじゃない!とか思ってしまったのだ。
「なんで怒ってるの?……そりゃ、決めつけるような言い方はしたけど、だからって」
「なんでそういうこと勝手にズカズカ聞いてくるわけ!?……もう、いい。バス来るから、もう行く」
まどかはこっちを見ていなかった。ずっと下を向いていた。
「待ってよ。あと一時間しないとバスは出ないんでしょ?」
まどかは私を無視して美術室を出た。いままでは喧嘩になることだってなかったのに。
一度よくないことが起こるとそれは繋がっていく。泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり、土砂降りの後の土砂崩れだ。友達の信用を失った私に追い打ちをかけるように、
その夜、美術室が放火されたのだ。
=
「大丈夫か立花?」
俺は海月に聞く。美術部部長、新谷要として海月を気遣う。
「……え?なにが?」
ついさっきまでぼけっとしていた海月は俺の質問の意図を把握するのに時間がかかりそうだが、俺はそのまま言葉を投げかける。
「なにがってお前。今度のコンクールに結構力入れてたじゃん。絵、燃えたろ?落ち込んでねぇの?」
指と指を組んで、海月の手は白くなっている。固く、強く握っている証拠だ。それなのに、海月は笑った。
「別に落ち込んでないよ。燃えたって言っても一枚だし、下手だったし。そこまで落ち込むもんでもないでしょ」
なんでもないよ、と海月は笑った。俺はそれがなんだか悲しかった。
「でも頑張ってたろ」
美術室が放火され、緊急ミーティングをすることになった俺たち美術部は三階にある特別教室で顧問の山下先生が来るまで待機していた。
「でも、もう無くなったんじゃん。悩んでても無駄じゃない?」
あくび交じりに海月は言う。涙をかみ殺したような大袈裟なあくびだった。
「そうなんだけどさ。なんっていうか、我慢してね?普通もっと悲しむとか怒るとかさ、あるだろ。なんでノーリアクション」
海月の反応はあまりにも淡白で、
「我慢?はは、してないしてない。単純にいろいろ起こり過ぎて反応に困ってんのよ」
笑いながら海月は答えた。その笑みは作り笑いなのかは、俺には全く分からない。どうしてこいつは自分の感情を表に出すことを怖がっているのだろう。いま海月が泣き喚いたってきっと誰も責めやしないのに。
「いろいろって…」
んー、と説明するのがさも面倒ごとのように海月は話し出す。
「まどかと喧嘩しちゃってさ。」
それは美術室が燃えたことでも、こいつが渾身で描き切ろうとしていた絵のことでもなかった。でもそれは、きっと海月の価値観の中ではかなり大事なことなはずだった。
「なんで?」
俺は呆れて、それで、なんだか海月の優先順位のつけ方を可愛いと思った。
「私が千里くんのこと好きなんでしょ?って聞いちゃったんだよね。一方的に決めつけたような言いかたしちゃって。なんか触れちゃいけないことだったみたいだわ」
あー、恋バナっすか。
「……それはお前が悪いな」
海月はやっぱり恋バナが好きな普通の女の子で、自分のことより友達が大切で、だからなんっていうか、真心の掛け方をを間違えたんだ。
「だよね。だから、今は被害者面はできないっていうか…。複雑なんだよ」
それって、ただ友達との距離の取り方を間違えただけだ。
「でも、それは問題が別だろ。お前の絵が燃やされていい理由にはならないだろ」
思ったことが口に出た。
「……」
そして沈黙。俺は黙る。海月と一緒に何も話さないでいる。さっき言ったことが全てだからだ。俺にはそれ以外に言うことはない。
「…本当はさ」
海月が言葉を紡ぎ始めた時、あちゃー!待たせちゃった!?遅くなってごめんねー!と山下先生が扉を勢いよく開けた。この人、本当にタイミング悪いな。俺たちは山下先生から視聴覚室の窓から日本酒の瓶が投げ込まれて割れていたこと、放火されたのは一階の視聴覚室だったこと、そこから飛び火して美術室の一部に燃え移ったこと、油絵具がおそらく引火の原因だったことを聞いた。
山下先生の長い注意勧告が終わり、俺たちは放火犯が捕まるまで自宅待機するように指示を出された。キャンパスは使えないけど絵の構想は自宅でも出来るから!と山下先生は俺たちの肩を軽く叩いた。先生なりの励ましなんだと思いたい。俺たちは先生の底抜けの明るさのおかげでほんの少しだけ前を向いて教室を出た。ありがとうございます、と一礼をしようと俺が振り返ると山下先生は大きく手を振って返してくれた。
「本当はさ」
帰り道、海月はつぶやいた。
「頑張って描いた絵を燃やされて、いままでの努力を無駄にさせられて。なんっていうか、…仕返ししたいよね」
なにかを考えていたと思えば、唐突に意味の分からないことを呟きだしたのだ。
「意味わかんねー!見つけて捕まえたい!!」
呟きはどんどん大きくなり、海月は最後には叫んでいた。
「はぁ!?」
あまりの突拍子の無さに顎が外れそうなくらい大きく俺は口を開けた。というか、まだ昼過ぎなので街行く人たちの目が痛い。俺じゃないです、横の奴ですよ。全然知り合いじゃないです。
「やっぱり私、耳を塞いでしゃがみ込んでるなんて出来ない」
そ、そうか…
「これから、犯人捜しする」
我慢するなとは言ったけど、そうかぁ、そっちに振れたかぁ。
「捕まえるって、多分、犯人男だぜ?」
気持ちはわかる。ちょっと、行き過ぎてる気もするけど、まだわかる。けど、危ない。
「それでも、許せないじゃん。許せないし、泣き寝入りもしたくない」
そんなの、成功するはずがないだろ。何処を探すかも検討ついてないんじゃないか?俺はそう言おうとして、やめた。海月が考えなしで突っ走るなら、俺がこいつの代わりに考えないといけない。海月の激動を否定するのは簡単だ。でも、ここで俺がこいつの味方にならないと、絶対、少なからず後悔するんだ。
「…マジでやるのか?」
確認。それは、必要のない確認だった。
「マジでやるんだよ」
海月は当たり前のように俺の言葉をそのまま返してくる。どうやら俺の問いかけのせいで海月の意志はさらに強固になってしまったようだった。
「お前、そんなにムカついてたのかよ」
どんだけ感情が顔に出ない奴なんだ。ポーカーフェイス過ぎる、って言ったら怒られるだろうか。
自宅待機を言いつけられてからから一週間後、俺はヒイラギジムにいた。
「すみません。村井千里くんいますか?」
ドアを開けるとそこはとにかく広い空間で、サンドバッグやリングが清潔に整理されていた。壁には大きな窓が設置されていて、清々しい。その反対側にはバレエでも練習できそうな大きな鏡が置いてあった。
「お!千里の友達か?」
大柄のトレーナーがこっちに歩いてくる。たぶん千里が言っていた元プロボクサーの柊さんだ。
「まぁ、そんな感じです」
俺は少しだけ委縮してしまう。なんだか妙に圧迫感がある人だ。そうか!と柊さんは白い歯を見せて笑う。
「あいつが来るまで適当に見学しとく?」
ジムでは社会人らしい練習生が何人か縄跳びやパンチバッグを使って汗を流していた。フィットネス目当てではない、結構マジな女生徒もちらほらいる。
「あ、どうせだったら体動かしてたいです」
柊さんは腕を組んで困ったように笑う。俺は、まだ入会もしてないのに体を動かしたいなんて、ちょっと図々しかったかな、と遅ればせながら反省した。
「君、その服でトレーニングは無理だぞ」
だけど、柊さんの言葉は俺の予想していたこととは違った。
「すいません、動きやすそうな服が体操服しかなくて」
「んー、まぁ、いいや!予備のトレーニングシャツとパンツがロッカーにあるからそれ使いな」
柊さんは見た目よりも気のいい人のようだ。
二時間して、千里はヒイラギジムにやってきた。
「あれ、要?なんでここにいるんだよ」
俺はトレーニングを切り上げて千里を迎えに向かう。こいつを待ってる間に結構いい汗かいてしまった。俺は腕で顔を拭う。
「いつか来るかもっていってただろ?」
「そういえば、そうか。…あれ?みんなは?」
千里は周りを見る。ジムは二時間前と打って変わってがらんどうだ。
「帰ってった。社会人はこんなに遅くまで残れねぇだろ」
時計を見るとちょうど午後九時を回ったところだ。窓の外では帰宅ラッシュに遅れまいと人影がせわしなく動き回る。電車が通り過ぎる音が聞こえ、ジムが電車の騒音とともに揺れる。
「まったく、今まで何してたんだよ」
待ちくたびれた。ちょっと千里に会いに来ただけのつもりが二時間もぶっ通しでトレーニングする羽目になってしまった。
「まぁ、それはいいや。それより千里、今からちょっとスパーリングしようぜ」
誰もいないリングに目をやる。
「お!スパーリングいいねー!千里くんの友達、かなり筋がいいんだよ。もっと見たいから千里!スパーリングやってやれよ!俺レフリーすっから!」
この二時間、やけに熱心にコーチをしてくれた柊さんは俺のことが気に入ったみたいだった。俺も柊さんの指導にやる気が満ち満ちていた。
「マジっすか」
千里は頭を掻きながら気怠そうにする。
「はよ、着替えてこい!」
柊さんはもたもたすんな、と千里の背中を叩く。
「俺今日ちょっと運動するだけのつもりだったんでボクシングウェアないっすよ」
「お前いつもじゃねえか。そのデカいエナメルバッグは飾りか?」
柊さんは太い腕で千里の首を絞める。
「もういいよ。ロッカーのパンツ使え」
千里は柊さんの腕から何とか逃れてせき込む。
「あ、ダメだ!ロッカーのパンツは千里くんの友達に貸してるんだった」
柊さんは思い出したように眉を吊り上げた。
「じゃぁ、スパーリングやめときましょうよ」
まだ苦しそうな千里は肩にかかったバッグに手をかける。
「…俺が、脱ぐしかねぇか。今日だけ。今日だけだぞ。俺のパンツ、貸してやるよ…」
意を決したように柊さんはロッカールームに消えていった。
「どうしてもやらせたいんですか…」
俺の距離から辛うじて聞こえるくらいの声量で千里は呟いた。
こうしてリングに俺と、千里と、パンツ一丁のレフリーが揃った。俺はこいつと話をする必要があるんだ。喋る方はうまくいきそうにないから、できれば拳で。どんなに千里が面倒くさがろうと、はたまた争うのを嫌がろうと、おそらく次の俺の一言で千里の気持ちは変わるだろう。そんな言葉はあった。
「千里、ここで謝っとくわ。悪い、お前の家の話、漏らしちまった」
しばらく沈黙が続く。柊さんに貸してもらったヘッドギアで耳がふさがってる。聞こえなかったのかもしれないので、俺はまったく同じ台詞をもう一度大きな声で言った。
「俺の家の話って前にした奴か?」
一瞬、千里の目が怒りに燃えた。
「クラスで噂流れるかもしれねぇけど、知らなかったら二学期からやり難いだろうから。報告しとこうかなって思ってな」
短い沈黙。俺は出来るだけまっすぐ千里を見据えた。ここで目を逸らすのは違うと思ったから。
「誰に言ったんだよ?」
俺は黙る。
「これ以上は喋ってても仕方ないだろ。男なら拳で語ろうぜ」
俺はそれだけ言ってレフリーの合図を待った。
「…もういい、ぶっ飛ばしてやる」
冷めた表情で、冷たい声で、千里はそう言った。
レフリーがゴングを鳴らす。千里は俺の顔面を狙って打撃を打ち込んできた。俺は咄嗟に千里のパンチを避ける。その次にボディブロウが来た。躱す。俺は千里のこめかみを狙ってフックを繰り出した。当たった!と思ったそれは辛うじて防御されていた。俺は続けてみぞおちを狙う。これも防御される。ガードの下から千里のギラついた視線が覗く。
「お前、俺に勝てると思うか?」
視界が揺れる。さっきまでガードしていたはずの千里の拳は、俺の顎を勢いよく打ち抜いていた。俺は後ずさりをして頭を振る。まだだ。こんなパンチ効いちゃいない。俺はとにかく拳を視界の前に出す。千里はガードの上から俺に殴りかかってきた。連打。一発一発が鉛のように重い。腕を上げているのが限界だった。それでも、腕を下げるわけにはいかない。なんとかしてこの連撃を耐えるんだ。
「かはっ!」
無理やり顔面をガードしていた俺の腕は、だらんと落ちる。ボディブロウだ。皮膚を通過して内臓を抉る一撃が繰り出された俺は、それを食らうまでまったく認識できなかった。俺は千里に抱き着いた。千里の間合いから外れなければいけない。それは、無様なクリンチに見えたかもしれない。それでもこいつの思うようにやられるわけにはいかない。俺は全体重を千里に乗せて引きずられるようにしながら回復を待った。
「サンドバッグにしてやるよ」
千里はそういうと素早く俺の体を外した。いとも簡単にその作業は行われた。俺から離れて、千里は軽くステップする。まだまだ本調子じゃないと俺にアピールするように。俺は千里に殴りかかる。躱される。また、躱される。何度やっても俺の拳は千里には届かない。それでもやるんだ。俺はもう一度千里に殴りかかる。刹那、千里は態勢を変えて俺の眉間に打撃を繰り出した。千里の拳が俺に迫ってくる。俺はそれを、顔面で押し返した。絶対に食らったなんて言わない。俺は倒れない。どんなに殴られようが、
「まだまだぁ!」
千里の冷めた目を見た。千里の燃えるような怒りが宿った拳を受けた。それでも、その全てに、俺は負けるわけにはいかなかった。
「そこまで」
レフリーが試合を止める。しかし、千里は止まらない。本気で止められるまで俺を殴り続けるつもりだ。一発、一発だけでいい。白濁色に薄まる意識の中、俺は反撃の一撃を願う。柊さんが千里を羽交い絞めにする。そうして、やっと、俺は千里の顔面に思いきり殴りつけた。千里の瞳が一瞬ブレて、すぐに怒りに燃える。
「やめろ!やりすぎて入会希望者を壊す気か!?」
柊さんがジム内に響くような怒声を放つ。
「…こいつがスパーリングやりたいって言ったんでしょ」
柊さんの拘束を解いて、千里はリングから降りる。
「馬鹿、やりすぎんなって言ったんだ」
俺はリングに座り込む。やばい。酸欠だ。柊さんは俺にタオルを投げかけてくれた。
「…負けず嫌いなんだよ」
俺はしばらくタオルに顔を埋めていた。知ってる。俺はどうしようもないくらい負けず嫌いなんだ。
=
教室を出たって、どうすることもできない。バスが出るのは一時間後だし、部活のみんなだって、まだ来ていないに違いない。それに、こんな顔じゃどのみちみんなの前には出られない。いつもの安藤まどかじゃいられない。
ただひたすら俯いていた。悔しかった。どうやったって涙があふれた。本当に私はどうしてあんなことで怒ったのだろう。もう吹っ切れたと思っていたのに。海月に確信をつかれたんだ。それで、認めたくなかった気持ちに気付かされて。いや、違う。そうじゃない。
海月は関係なかったのに。フラストレーションだとかやり場のない不満だとか、そういうものが自分の中に溜まっていた。誰にも打ち明けられなかったことを海月が話題にしたのがほんのささいなきっかけだったんだ。私は海月に腹が立っていたわけじゃなかった。仕方ないじゃん。私自身が海月を部外者にしていたんだから。海月は何も知らなかったんだから。こうなったのは私のせいだ。私は何の関係もない友達に、自分が振られた腹いせをしたんだ。そう気づくとどうしようもなく惨めだった。
「安藤さん?どうしたんだよ」
声をかけてきたのは新谷要くんだった。廊下で泣いていたのだから見つかって当然か、もっと人のいない所に行けばよかった。とかいって、きっと卑怯な自分のことだ、頭の隅では誰かに助けてもらうのを期待していたのかもしれない。
「なんでもないよ。ごめん」
「なんでもないことはないだろ。…泣いてるんだからさ」
それもそうかな。誤魔化しても仕方ない。
「ちょっと喧嘩しちゃって」
要くんは海月と同じ部活だから、私の私情に巻き込んで迷惑をかけちゃいけない。
「そうか、良かったら話きくけど」
笑って、いつも通りの私で、
「大丈夫だから、はは、ごめんね」
それが私に求められていることだから。
もう一度、要くんと出会ったのは合宿が終わった次の日だった。
「おぉ!?安藤さんってここでバイトしてんの!?」
バイト終わりに出会った要くんはまるで何もなかったかのように普段通りに話しかけてくれた。暇でうろついていたらしい彼に駅まで送ってもらう道のりで私は信じられない話をきいた。美術室が放火されたらしい。それともう一つ、
「この前、安藤さんが喧嘩したのって、立花だろ?」
ズキンと、心にピアスぐらいの大きさの針が刺さる。針が刺さった小さな穴から血が零れてくる。
「あぁ、うん…そうだよ」
私は観念して、ちょっとだけ笑った。ごまかすような薄い笑い。
「千里がらみ?」
心に刺さった針はそのまま深くまで潜って、私の内面をぐちゃぐちゃにする。
「…はは。私、振られちゃって」
それは、あんまり思い出したいことじゃなかった。
「ううん。やっぱり、振られて無いや。結局、告白はできなかったから」
また笑う。なんで私は傷ついてるのに笑うんだろう。楽しくなんてないのに、私は笑う。
「…あいつ、たぶん今は恋愛する気分じゃないんだよ」
少し考えてから要くんは私に千里くんの家庭の事情を教えてくれた。お父さんが逮捕されたこと、お母さんが不倫していること、居場所がないから家に帰らずにボクシングジムにいること。なんだよ、それ。私は笑いたくなった。でも、今度は笑えない。私の心はどうなってしまったんだろう。
海月に電話をかけたのは家に着いてからだった。コール音が四回鳴って海月は電話に出た。
『まどか?』
海月の声だ。
「うん」
久しぶりに親友の声を聞いた気がした。なぜだか涙が出る。私は海月にバレないように、涙声にならないように、少し鼻をすすった。
『…あの時はごめん。まどかの事なのに、私があんな決めつけたような言い方して』
痛い。心が痛い。
「ううん。こっちこそ。…いろいろあって、それを誰かにぶつけたかったんだ。本当にごめん」
言葉にするたび、私の心は正しく鼓動しなくなる。今まで一定のリズムで脈打ってた心臓が不定期に襲ってくる鋭い痛みにビクビクしている。
「ねぇ。今思ってること、言っていい?」
『内容による』
心が痛いのは、私が何もしないせいだ。
「嫌なことじゃないよ」
痛いなら、治さないといけない。治し方がわからなくても、そうしなければいけない。
『辛くなることでもない?』
これ以上痛いのは嫌だから。
「うん。後悔したくないから、伝えたいこと」
海月は私を待ってくれる。ずっと、心の準備ができるまで。私はいろんなことを思い出す。千里くんに告白したあの夜、海月が私にお酒を残してくれていたこと。帰るのが遅くなるのに私の部活が終わるまでずっと教室で待っていてくれたこと。バイトを始めてなかなか会えなくなったのに、会えばいつだって私を笑わせてくれたこと。わたしがスランプに落ち込んでいた時に頑張って励まそうとしてくれたこと。
「仲直りしよう、海月!」
お互いに顔が見えなかったからかもしれないけど、ただ一言謝ればよかっただけなのだ。もちろん、謝るまではそんなことわからなかったけど。それに、結局私より先に海月が謝った。普段はそうでもないけど行き詰った時はいつだって海月は一歩先に決断する。
『…よし!じゃぁ、仲直りの印に今からピアス開けるわ!』
元気な声が私の心を包む。馬鹿だ、この娘は。私は笑う。
「なんでやねん!」
「それより、美術室放火されたんだって?」
『そうなんだよ、ヤバくない?』
間髪入れずに海月は応える。
「ヤバいね。犯人見つかったの?」
放火事件は結構前から噂になっていたから、そろそろ犯人が特定されてもおかしくないはずだ。
『そのことなんだけど、私、放火魔を捕まえることにしたんだよ』
「えぇ!?」
私は驚いて、受話器を二度見する。
『前、まどか言ってたじゃん?困ったときは助けてもらえって。でも、私は立ち止まっていたくない。きっと私はそういうタイプじゃないんだよ』
「でも、海月は女の子じゃん!危なすぎるよ!」
『要にも手伝わせてるし、大丈夫!』
「そんな…」
バイト先で要くんに出会ったとき、要くんは犯人捜しをしていたんだ。私が一人で落ち込んでいた時、要くんは海月の為に街中に手掛かりを探しに行ってたんだ。
「だったら、私も手伝う!」
『は!?でも、危ないよ!』
先刻の私と同じ反応をする海月。
「それはお互い様でしょ」
それから一週間、私はバイトをしながら放火事件を調べていた。犯人捜しを手伝うとはいったものの、夜に街に出るのはやっぱり一人では危なすぎる。陸上部の友達にも手伝ってもらおうかとも考えたが、絶対話が広まり過ぎてしまう。そうなれば、先生に気付かれてこの件は即刻打ち切りだ。
私は全然力にはなれていなかった。そんなバイトからの帰り道、今度は千里くんに出会った。千里くんは公園のベンチに座ってうなだれていた。正直、会いたくなかったし、いっそのことそのまま通りすぎてしまいたかった。けど、千里くんなら私に力を貸してくれるかもしれないとも思った。
「なにしてるの?」
千里くんの前に立つ。街頭からの逆光で千里くんの表情はよく近づいてみないとわからない。
「誰かと思った。なんだ、まどかか」
千里くんとはあれ以来話していなかったけど、以前とは違う二人の距離に気付く。
「うん。唇、血が出てるよ」
千里くんは今気づいたかのように唇を拭う。
「…あぁ、さっき要にやられた」
「…喧嘩?」
千里くんはムッとする。
「なんか、あいつに俺の秘密を話してたんだけど、バラしたらしくてさ」
きっと要くんが私にしてくれた家庭の話だ。私は少し距離を取りつつ、千里くんの横に座った。
「どんな秘密?」
私は尋ねる。
「絶対知られたくない秘密」
絶対に知られたくない、家庭の事情。
「ごめん。それ聞いたの私だと思う。お父さんのことだよね」
ちゃんと顔を見れなかったから不確かだけど千里くんは驚いているようだった。
「私が千里くんに振られたっていったら、教えてくれたんだ。要くんは、私が振られたのはそのせいじゃないかって」
私は確かめる。
「…そういうことか」
要くんに話を聞いたときに込み上げてきた乾いた笑いが思い出したように私の喉を引っ掻く。
「本当に千里くんが私を振ったのって、千里くんの家族が理由なの?」
それはフラストレーションだった。間違って海月に向けられた不満が今度は正式な相手にむけられる。
「ごめん。俺、親があんなんだから、まともに人を大事にできる自信がないんだ。親父みたいになりそうな気もするし、母さんみたいにもなる気がするんだよ」
そんなの、ただの反抗期じゃない。
「…それって、相手が誰でも、私じゃなくたって、結果は一緒だったってことでしょ?」
私は怒っていた。
「そうだな。わるい」
放火魔探しを手伝ってもらうという当初の目的も忘れて私の心は怒りに満ちていた。海月と仲直りして塞いだ心が、今度は燃えるように熱くなる。
「大体、私まだ告白もしてない」
火傷しそうなくらい、熱い。
「私は振られるのだって覚悟してたし、それでも千里くんを好きになった私の気持ちを受け止めてほしかった。ちゃんと私のことを考えてほしかった。それでも無理なんだったら仕方ないって思ってた!けど、千里くんはそれすらさせてくれなかったじゃん」
それなのに、どんどん声が小さくなっていく。あぁ、もう。最悪だ。
「しかも、理由が私とは関係なかったなんて。自分のことで精いっぱいだって、嫌なことで自信がなくなったって、そんなの誰だって一緒だよ」
私は、
「そんなんじゃ、諦めきれないです」
ずっと待っていたって答えはない。私自身、千里くんの声が聞こえないくらい遠くへ行ってしまいたかった。
「でも、今はそんなことどうでもいいや。千里くんにお願いがあるの」
私は思い出す。当初の目的。私がどんな気持ちになってもいいから千里くんにお願いしたかった事。
「今、海月と一緒に放火魔を追ってるんだ。それで、その、手伝ってくれないかな」
顔を上げられない。振られて、また告白して、答えを聞く前に自分勝手に頼みごとをする。私は今、おそらく世界で一番かっこ悪い。
「放火魔探し出してどうするんだよ?」
千里くんは怒ったような、困惑したような声を上げる。
「美術室が燃やされたんだよ。絶対に犯人を見つけないと」
私は千里くんの目を見る。暗くてよく見えないけど、きっと賛成はしていないのだろう。批判的な目線が私に刺さるのを感じた。
「それって、まどかは関係ないだろ?」
それは違うよ。海月がやるっていうなら私だってやる。
「海月を放ってなんておけない」
印象は最悪になってしまっているだろうし、もういいや、このまま押し切ってしまおう。
「でも、やっぱり放火魔は怖いし。バイトしてるから昼はあんまり犯人捜ししてる時間もないんだ。だからさ、私と一緒に放火魔を探すの手伝ってよ!」
千里くんは何かを言いかけてやめる。何を言ったって私は折れない、そう感じてくれているなら都合がいい。
「でもまどかだって俺と一緒に居るの嫌だろ?」
私は笑う。
「我慢する」
私は狡猾だから、我慢するぐらいへっちゃらなんだ。今は千里くんが好きっていう気持ちを奥に留めていられる。やることがある内は余計なことは考えない。
「いつまで?」
そうだな。とりあえずは、
「今回のことが解決するまで、かな。千里くんも時間つぶせて一石二鳥だと思うけど」
「そうか。……別にいいんだけどさ」
千里くんが立ち上がると、初めて彼の顔に照明が当たる。怒っているのか、呆れているのか、わからない表情。私はそれを見てまた笑う。迷惑だって言われたって私は引かない。笑う。笑ってやる。心の傷はもう塞がった。傷を塞いだカサブタは固くなって、一筋縄ではいかない強い私になってやる。
=
俺、村井千里がまどかと協力して放火魔捜しを始めてからもう十日目だ。何度か海月や要と合流して探すことになったが、その日は決まって顔を出さなかった。海月に会うのはともかく、要とは今後会いたくない。アイツは何をやりたいのかわからないし、なにより嫌いだ。
何も進展がなく、ただ街を徘徊しただけで十日目の夜が終わろうとしてた時、まどかが俺に質問してきた。
「千里くんのお父さんが悪い人なのはわかったけど、なんで千里くんが人を大切にできないかもなんて心配するの?」
公園での再会以来、俺の家庭の事情は二人の間で少しずつ話題の中に出ていた。結果としては秘密にする必要はなかったかもしれないと思うほどに、それは当たり前のように受け入れられた。
「子は親に似るっていうだろ?」
家庭の影響はそのまま人格に反映される。
「遺伝子的な話?」
人間のIQっていうのは子どもの時は勉強をすればするだけ上がるらしい。でも、大人になるにつれてIQは親のIQに近づいていく。つまり、遺伝は人生に少なからず影響する。だから、確かにまどかの疑問はおおむね間違っていない。だけど、俺が言いたいのはちょっと違う。
「親に優しくされたことがないやつは誰かに優しくできないってやつ」
優しさの定義がわからないのだ。
「でも、そういう心配してる時点で千里くんは十分優しいと思うよ」
まどかはそういって俺の手を握ってくれる。それでも、ずっと一緒に居たら、俺は変わっていってしまうかもしれない。それが怖いんだ。母さんはいまでも優しかったころの親父のことが忘れられていないのかもしれない。だから、離婚もせずに刑期は終わるのを待っているのかもしれない。つまり、昔は親父も優しかったってことじゃないのか。
「千里くんが気を付ければいいんじゃないかな」
たしかにそうなんだ。わかっている。結局俺は自分に自信が持てないだけだ。
「そうなんだけどさ」
自販機の横を通る。俺はまどかに缶コーヒーを買ってあげた。これは優しさだろうか?まどかは短くありがとうと言った。
「要くんと仲直りしてないの?」
言いながら、冷たい缶コーヒーの蓋が開けられずにまどかは四苦八苦している。貸して、と言って代わりに俺が開ける。
「仲直りっていうか、もともとあいつのことそこまで好きじゃなかったしな」
また、まどかはありがとうと言う。
「そっか」
こくり、とまどかが喉を鳴らす。自分の分のコーヒーを買うのを忘れたことに気づいたけど、なんだかどうでもよくなっていた。
「おう」
要はまどかから花火の日のことを聞いていたらしい。だから、そこでの俺の態度が気に食わなかったんだろう。だからといってそんな理由で殴りこんでくるあいつが俺は気に食わない。
二学期が始まると俺たちの事件捜索は難航するはずだった。捜索に充てられる時間が少なくなるからだ。だから、俺たちは焦っていた。しかし、俺が久しぶりに田辺と遊んでた時、あいつは妙なことを教えてくれた。というかこの事件の真相といってもいいものだ。
「この前街をブラブラ歩いてたらさ」
田辺はボーリング場で自分の投げるボールを選びながら俺に話しかけてきた。
「放火魔でも探してたのかよ」
俺は重たいボールを選んで自分のレーンに戻る。
「エロ本落ちてねぇかな、って」
ゴトンッとボールはレーンを滑るように進んでいく。
「まぁ、聞いてくれよ。そしたら道ですれ違ったおっさんがさ…、花火持って歩いてたんだよね」
田辺はボーリングで借りた靴を入念に履き直す。よく見たらボーリンググローブも両手にはめていた。
「一人でか?変なおっさんだな」
田辺が投げたボールは両脇のピンふたつを残して奥に吸い込まれていく。あれは全部倒すのは難しい。あちゃー、と田辺は頭を抱える。
「だよな。そしたら案の定、警官に職質されててさ、花火やっちゃいかんのか!って怒鳴ってた」
次のボールを取り直すと、投げる瞬間、田辺はまるで握手をするように持ち手を捻った。
「警察に怒鳴るって相当おかしいと思わね?」
田辺のボールは綺麗な曲線を描きながら、左わきのピンを勢いよく弾き飛ばした。
「ん?」
弾かれたピンは壁から跳ね返って右わきのピンに当たる。スペア!その時俺は閃いてしまったのだ。
「もしかしてそのおっさん、放火犯なんじゃねえ?」
田辺が腕をぶんぶん回しながらスタンドに戻ってくる。
「なんでだよ?」
「花火持ってたってことはライターとか着火剤だって持ってたんだろ?」
もし、街中でそのおっさんが着火剤を持っているんだとしたら、そのおっさんはかなり怪しい。俺はレーンの前に立つ。
「そのおっさんの事、ほかにわかることあるか?」
俺はボールを投げる。ボールはレーンの中心をぐんぐん進んで、
「そうそう、その話なんだけどよ、驚くことによく見たらそのおっさん、俺の近所の人だったんだよ!」
ストライク!電光掲示板がチカチカと光る。
「今度またそのおっさんが花火もって歩いてんの見かけたら電話してくれよ」
「まぁ、次持ってたら確実だわな」
そうなりゃこの馬鹿げた一件も終わりだ。
それから一週間して、田辺から電話がかかってきた。俺はまどかに連絡し、久しぶりに田辺を除く花火のメンバーが合流した。
「で、どうすんだよ」
要が海月に尋ねる。
「なにもしてない奴を捕まえたってこっちが逮捕されるでしょ。先にそいつが犯人っていう証拠をつかんでから、囲んで捕まえる。で、交番に突き出す」
海月以外見つけてもどうしようかなんて真剣に考えていた奴なんていなかった。俺は犯人が見つかるとすら思ってなかったし。
「いや、女子は危ないだろ。俺らだけで捕まえるよ」
要は慌てて言う。俺も要に賛成した。最悪取っ組み合いになる可能性もあるわけだから、まどかと海月に危ない橋を渡らせるわけにはいかない。俺たちはどうするか決めた後、田辺が待っている街に向かった。二回ほど電車を乗り継いで、俺たちは田辺と合流する。周りは駅のほかに道路と田んぼしかない、寂れた街だった。
「田辺。犯人はどこだ?」
田辺は田んぼしかない道を真っすぐに進んでいく。やがて、道は住宅街にたどり着く。
「あの緑色の服きてるヤツいるだろ?あのおっさんだよ」
そこには情緒不安定気味に周りを気にしながらコソコソしている男が居た。
「あいつか。犯人ってひとりだよな」
俺は田辺に確認する。こっちは男が三人いるけど、相手がそれ以上だったらお手上げだ。
「今のところはひとりみたいだぜ」
男は暗い路地へと入っていった。俺たちも後をつける。近くに誰もいないことを確認すると、男はしゃがみ込み荷物を漁り始める。
「あそこ、俺の家なんだけど…」
田辺が何か言っている。ついに男は何かを取り出した。物陰に隠れながら俺は携帯のカメラをまわし始める。
「そろそろいくか?あいつが放火犯で間違いない、でいいんだよな?」
要が注意深く男を観察しながら静かに呟く。
「もうちょっと待ってみる?放火の瞬間を撮ってから行った方が確実じゃない?」
海月は皆に提案する。
「さすがに多分で危険はおかせねぇよな」
俺は海月に賛成だ。
「いや、あそこ俺の家なんだけど…!?」
田辺が慌てる。
「…普通に警察に通報しない?」
まどかは携帯を取り出してみんなを止める。
「まぁ、そうだな」
「そうだな」
「うん」
「…そうだね」
まどかに全員が賛成した。というか、海月以外はみんなその提案を待っていたように思う。俺たちは一呼吸して、少しだけ冷静になる。しかし、もう犯人は犯行に及ぼうとしていた。
「岩波さん!なにやってるんですか!」
叫び、飛び出したのは田辺だ。俺は慌てて田辺を追いかける。
「お前名前しってんの?結構付き合いとかあんのかよ」
要が俺に続いて走り出す。まどかと海月は警察を呼んでいる。
「ねぇよ。回覧板見て覚えただけだ!」
田辺が俺に答える。走ってくる俺たちを見て、男は立ち上がる。
「誰だ、お前ら!何してる!私は何もしてないぞ!」
何をしている、はこっちの台詞だ。
「騒いだって無駄ですよ。カメラ回してるし、住所もわかってるから逃げても無駄ですし」
落ち着いた声色で俺は言った。単純だとは思うが、ぱっと時間かせぎと言われたら俺はこれしか思い浮かばない。
「話し合いましょう。ね?」
しかし、
「なんだと!?バカにするな!そのカメラを渡しなさい!大人をなめるな!!」
一気に錯乱状態に入っていた犯人は俺たち襲いかかってきた。そのまま来たのなら俺と要で取り押さえられたかもしれない。けれど犯人は手元にあった打ち上げ花火を投げつけてきたのだ。もちろん着火状態でだ。色とりどりの火花が俺たちの体を掠める。
「あっぶねぇ!」
投げつけられた花火は少し前、みんなで集まった日を思い出させる。最初は身の危険を感じたものの、冷静に対処すれば多少火傷しても死にはしない。放火犯は次々に花火を投げてくる。田辺は顔面めがけて噴出したそれを避けるようにしりもちをついた。丁度、手持ちの花火が尽きたらしく、男は荷物の中を漁る。要が前に出る。俺も同じく前に出た。しかし、そこで俺たちは立ち止まってしまう。寒気がした。犯人は庖丁を握って要に襲い掛かかろうとしていたのだ!
「俺はケモノだーーーーーー!!!!!」
完全に異常だ。凶器を振り回すその腕に躊躇はなかった。目は虚ろ、きっと何も見えていない。それが人に当たったらどうなるのかわかっているのだろうか。俺たちは思い出す。わかっていたはずなのに忘れていた。俺たちが相手をしていたのは何度も放火をした犯罪者だった。
「何が獣だ!だったら火なんて燃やしてんじゃねぇよ!」
要の口から出たのは正論だ。だが、そうもいっていられない。相手はマジだから。逃げ延びるためなら何でもするに決まっている。
「もういい。逃げよう!こいつはやばい!!」
田辺が叫ぶ。けど、だめだ。今逃げたら確実に追ってくる。そして俺たちの後ろには海月とまどかがいる。絶対に逃げられない。逃げたら海月たちが狙われてしまう。
「要!しゃがめ!」
要がしゃがんだ瞬間に犯人の顔面に俺のストレートが直撃する。一撃で仕留められなかったものの犯人が凶器をはなした。その隙を要は逃さない。腰に要の重い一撃が入る。ボディブロウだ、音からもその威力がわかる。放火犯が地面に沈む。
「いまだ!抑え込め!」
俺の合図で要が犯人を抱きかかえる。暴れる犯人。暴れて、要に捕まったまま仰向けになる。
「死ねー!!」
犯人はライターを取り出して、自分の体に火をつける。それは、身体に何重にも括り付けられた、大量のねずみ花火だった。破裂音が響く。
「うわっ!?」
要は思わず両手を離した。俺はすぐに犯人を抑えようと近づいたものの、眩しく炸裂する閃光に怯んでしまってどうすることもできない。光の中で犯人は後ずさり、思い切り逃げ出した。最悪の展開だ。
遠くなっていく背中。
追いかけていく要。
そして、聞こえてきたのは海月の声だった。
「近寄んじゃ……ねえよっ!!」
=
私、立花海月は部屋の隅に少し焦げが残った美術室で絵を描いている。長かった夏休みは終わり、明日から二学期が始まる。美術室の扉を開ける音がする。私が目を向けると、そこには大きなエナメルバッグを背負うように背中にかけている千里が立っていた。千里は簡単に挨拶をすると、キャンパスの前に座っている私の後ろに椅子を持ってきて、そこに座った。
「それがコンクールで出す絵か?」
千里は私の肩越しに、ついさっき完成したばかりの私の油絵を眺める。
「うん。結構うまくできてるっしょ」
私は応える。書き残しがないか、椅子を少し引いて隅々まで絵を確認した。
「これってアレだよな」
あれあれ、と千里は宙を指で混ぜる。そう。これは私たちが初めて集まって花火をした春の日の思い出。まどかが居て、要が居て、田辺が居て、千里が居た夜の事を忘れないように書き残しておいたものだ。
「…俺、もうちょっと背ぇ高いけどな」
千里は軽く文句を言った。私から見たらこんなもんだよ。美化も抽象的にもせず、ただあったことを描いただけ、リアリズム美術というものだ。想像を形にするには私は技術も経験も足りていない。きっと、頭の中だってまだ妄想をちゃんとまとめるほど成長していない。だって、私たちはまだ高校一年生だ。
「要は今日来てないのか」
千里は美術室を見渡す。放火があった後、チリひとつ残さぬように整理された美術室は前とは見違えるくらい綺麗になっているし、カーテンも明るい色に変わっている。まるで悪い記憶を塗り替えるように、新しい一歩を踏み出したみたいに清々しい。
「最近はいつものことだけどね。どうせジムで会うでしょ?」
要は絵の構図が、構造が、といってなかなか絵を描き始めない。初心者あるあるだ。美術部の部長だというのにいまだにひとつも作品を完成させたことがない。
「まぁな。俺を倒すまではジムに通うって言ってたし」
あいつ、いろいろやってて大変だな、と思う。何も終わらないうちからいろんなことに手を出して、なんだか要は山下先生の悪癖が移ったみたいだ。
「そういえばさ、結局千里はまどかと付き合ってるの?」
私は尋ねる。
「付き合ってない。…まぁ、最近は一緒にいること多くなったかもな」
へぇ、と私は自分から聞いたくせに適当に応えた。進展があったかどうか、まどかからは何も聞かされていない。
「なんだよ」
まぁ、いいや。
「この絵、タイトルとかってあるのか?」
話題を変えるように、千里は油絵に話を戻した。私は少し考える。
「タイトル?考えたことなかったかも。春の思い出とか?」
少しだけ笑って千里は椅子にもたれる。
「普通すぎるな」
千里の返答にムッとした私は、油絵を千里がちゃんと見えるように千里の正面に向けた。
「じゃぁ考えてよ」
千里は自分の首に手を置いて、ちょっとだけ考える素振りを見せる。
「青い春の中っていうのは?」
千里は考え抜いた後に、絞り出したように、題名を発表する。
「それって千里が読んでた本のタイトルでしょ?私も同じ文庫本持ってるって、いつか図書室で見せ合った」
私が言うと千里は笑った。
「だめか」
千里につられて私も笑う。青い春の中か、案外悪くない。びっくりマークでも付けたらパクリじゃなくなって大丈夫だろうか?何故だか私はそのタイトルがとても気に入った。だって、なんだか私たちにピッタリだ。
結局、放火魔を見つけたあの日、私たちは警察に表彰されるどころか、めちゃくちゃ怒られてしまった。何故すぐ警察に通報しなかったのか、と聞かれて私が「私的に放火魔に仕返しがしたかったからです」と答えると、まどかと要が急いで私の口を塞いで、なんだかコントみたいだった。田辺の家族はすぐに交番に駆けつけて、田辺を凄く心配していた。自分たちの家が狙われていたと田辺が言うと、びっくりして言葉をなくしていた(余談だけど、田辺のお姉さんはモデルかと思うくらい綺麗な人だった)。そして、千里のことだけど、千里は一番こっぴどく怒られていた。どうやら警官の中に千里の知り合いがいたらしい。今度からは不審者を見つけたらもっと早く警察に通報するように、と念を押された後、私たちは解散した。終わってみれば田辺の家も無事だったし、放火魔も捕まって、あれ以来放火は起こっていない。その後、何かが変わったというわけでもなく私たちは毎日をただ平凡に生きている。いざ、気合を入れて何かに挑戦したって最終的にはいつもの平穏に戻っていくものなんだ。
「あの時どうやって放火魔捕まえたんだ?」
千里に聞かれて、私は思い出す。あの夜、放火犯は要と千里から逃げてまどかと私の所へ走ってきた。怖かった。逃げようとしたが、身体が動かなくて、動けても一歩っていうところで、私は足を思いっきり振り上げた。放火犯のゴールデンボールを狙って。
「千里の時と同じだよ」
と、私はひどい冗談を言う。今更ながら告白すると、私は冗談が好きだ。もっと言うと、つまらない冗談が好きだ。出来れば、千里にも私のつまらない冗談を笑ってほしかった。一緒に笑えればどんなに素敵なことだろう、と思う。冗談は人生を豊かにする。つらいことがあっても、冗談が言えるならそれだけで救われる。私はそう思っている。無理にでも笑っていないと人生はつらいことが多いから。
私は完成した油絵から背を向けて、千里のほうを振り返る。
「でもさ」
油絵は完成した。出来には満足しているし、これ以上手を加える必要はない。手を加えて台無しにしてしまいたくない。
「私は、あの人は私たちが追ってた放火魔じゃないと思う」
私は少しだけ震えている。秋の到来を予感させる北風が明るい色のカーテンを揺らしていた。
「え?」
千里は驚いて聞き直す。
「だって、学校からあの家って遠すぎるもん」
あの人は、きっと、模倣犯だ。今まで噂になっていた放火魔は別にいる。理由ならある。
「放火魔が、電車を何度も乗り継ぐ距離を花火をもって移動してたとは思えないんだよね」
私は考える。
「それに、学校で起こった火事の原因は花火じゃないんだよ。視聴覚室に割れた瓶が見つかったってことは、犯行道具は火炎瓶だったはず」
私は別に犯人が居る可能性を示唆する。
「それは、あの時、俺たちが放火魔を捕まえた時、たまたまあいつが火炎瓶を切らしてただけじゃないのか」
千里は私を止めようとする。少し間をおいて私は千里の質問に応答する。
「…ううん、それはないよ。あれだけ執拗に火炎瓶で放火してた犯人の家には空き瓶が大量にあったはず。あの時だけ切らしていたなんて、考えにくい」
返事が遅れたのには理由があった。私は頭の中で必死に考察していた。千里が放火魔でない理由を、考察していたのだ。
「海月、俺を疑っているのか?」
悲しくなったような、怒ったような、一瞬一瞬で変わる千里の目の色は、まるでモールス信号のようだ。誰かに向けて助けを求めている救難信号のようだ。
「ううん。できれば疑いたくはないかな」
私は辛くなって千里から視線を逸らした。
「もう犯人は捕まったんだ。それでいいだろ?」
もうやめよう。千里はそう言ってくる。
「ねえ、本当はさ」
馬鹿げた犯人捜しは今更、意味がない。犯人はもう捕まったんだ。そう、訴えかけてくる。
「千里がいつも持ってるそのエナメルバッグの中には、夏休みにも欠かさず背負ってくるそのバッグには、何が入ってたの?」
やめたほうがいい。私だってわかってる。それでも、
「要が言ってたんだよ。今までの放火事件の現場を学校から辿っていくと、千里が通ってるジムに着くんだ、って」
私たちは変われていた。もっと早くに私が真相に気づいていれば、きっと私たちは変われていたんだ。放火の罪がこれ以上重たくならないように、誰かが気づいてあげていれば。
「…俺が犯人だって言ったらどうするんだ?」
千里の問いに、私は沈黙するしかできずにいた。もう、手遅れだ。でも、
「変わろうよ。もう馬鹿なことは二度としないで、変わろうよ」
私は泣いていた。あれだけ仕返ししたかった放火事件の真犯人が目の前にいるのに、私は泣く以外できなかった。
「私は探偵じゃないし、千里の動機も知らない」
千里は諦めた様にすこし笑う。
「動機か。放火して帰った晩は家に警察官が居ない、とか、な」
私は涙を拭いた。いつまでも泣いているわけにはいかない。
「私、千里とずっと友達でいたいよ」
本心から、そう思う。まどかと、要と、田辺と、千里と、また馬鹿みたいにお酒を囲みながら花火がしたい。これから訪れる秋も、冬も。またやってくる春も、夏も。いつまでも。
「…もし、俺たちがそうであることを望むなら、きっと大丈夫なんじゃないか?」
それだけ言うと、千里は席を立った。
「そのバッグの中、まだ火炎瓶は入ってるの?」
美術室を出ていこうとする千里。千里は一度だけ振り返って、
「…入ってねーよ、馬鹿野郎。お前の推理はめちゃくちゃだ!」
千里が扉を閉めた後、止めたはずの涙が、もう一度だけ頬を濡らす。
「そっか」
ありがとう。そう言ってくれて、ありがとう。千里が部屋を出ると、美術室には私と私が描いた絵しか残されていない。だけど、外に出れば、秋を迎えに来た鳥たちが鳴いている。大会を控えた陸上部が汗を流しながら大きな声でグラウンドを駆けている。現実は何もなかったかのように続いていく。こうして私たちの犯人捜しは終わった。
本当に入学早々いろんなことがあった。私たちの毎日は、いろんな足跡に踏みならされている。あっちこっちに行くからどんどん汚れて、脇道に逸れて、傷だらけになって、ふと立ち止まって後ろを振り返ると、私たちの足跡はとんでもなく散らかっている。それは楽しいだけじゃなかった。傷ついて、泣きそうになって、悲しくなって、怒って、仲直りして。ぐちゃぐちゃに曲がりくねった道はどこまでも広がっていて、だからこそ私たちはこれから何処にだって行ける。私は前を向く。また、歩き出すために前を見定める。私の後ろに続く道は散らかっているかもしれない。私の進む道は屈折だったり湾曲だったりをするのかもしれない。それでも、何を言われても私は今、この道を真っ直ぐ進む。進む、進む、何処までも。
これが私の、青春ど真ん中。
青春ドマンナカ!! 管弦 網親 @Vinh
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