彼女の吐息を、僕は吸う。

ピーター・モリソン

彼女の吐息を、僕は吸う。

「罪を犯さないと、その世界へは行けないの」


「……罪?」


「そう、罪。……でも、そこは二人だけの世界」


「きみがそこへ行くのなら……」


 短い夢の残りに、マリエの匂いが残っていた。


 あれからもう十年。


 多くの時間を過ごしたけれど、胸の底が抜けるようなあの想いを、二度と味わうことはなかった。きっと、これからもそうだと思う……。


 客船の揺れで、目が覚めたのかもしれない。


 少し頭を起こして、窓を覗く。その向こうでは荒い波がうねっているのか、映り込む影でよく見えない。


 夢の余韻を引きずりながら、シングルの客室をぼんやりと眺め、両肩を抱いた。


 身体が冷え切っている。不眠の予感に、睡眠薬を口に入れた。毛布に包まり目を閉じる。そうやって化学的な眠りが始まるのを待った。


 マリエはいてくれるだろうか。


 僕の夢の中に、まだ。


   *


 いつからか、鈍った感覚が異変を知らせていた。


 まだ眠ろうとする力に何とか抵抗する。……何かがおかしい。ベッドがこんなに硬いだろうか。仕方なく寝返りを打つと、指先に水が触れた。


 それで僕は目を覚ました。


 ぼやけた頭を左右に振り、やっとこの状況を理解した。……浸水だ。それもかなり進んでいる。壁に身体を預けつつ、かつて水平だった窓を仰ぎ見た。


 船が沈む? すぐさま逃げ道を確保しようと、壁伝いを辿り、部屋のドアへ向かった。船体が大きく傾き始めたので、慌ててドアを開くと、そこから厖大な海水が溢れてきた。


 あっという間に足をすくわれ、飲み込まれる。水流に揉まれながらも、懸命に逆らった。藻掻いた手のその先に、水面らしきものが目に留まった。


 無我夢中でそこを目指し、水から顔を出す。


 空気を貪りつつ、僕は辺りを見回した。


 手を伸ばせば、周囲に届くほどの狭い空間だ。非常灯の滲んだ光が、僕を照らしている。


 逃げ遅れた空気が、たまたまここに溜まったのか。顔を上げ、傾いた天井を間近にすると、本来はそこが床だったことに気づく。


 船体のトラブルなのか。それとも何かと衝突したのか。ここからでは何もわからない。造りつけの棚板の裏側に足をかけて、僕は身体を安定させた……。


 この客船には仕事で乗った。宣伝用の記事を執筆するためだ。五百を超える客室や船内施設の紹介、寄港する街の様子をまとめて、船旅へと誘う旅行記を書くつもりだったが……。


 ほかの乗客はどうなったのか。楽観的には考えられない。自分もここで死ぬ? こんなところに一人取り残されたのだ。助けが来ないかぎり、遅かれ早かれそうなるだろう。


 絶望感に浸っていると、目の前の水面がごぼごぼと波打ち始めた。


 何だ? と思うや、むくっと人が浮き上がってくる。


 女だった。手をばたつかせ、飛沫を上げたもののすぐに力尽き、再び沈んでいこうとする。


 僕は咄嗟に彼女を抱き止め、ゆっくりと引き上げた。


 濡れた長い髪が頬や首筋に張りつき、その表情を隠している。ぐったりとしていて、呼吸の気配もない。少し躊躇ためらったあと、唇を重ね、自分の息を彼女の中へ吹き込んだ。


 何度も繰り返すが、手応えがなかった。つのっていく不安を感じつつ、しばらく続けると、彼女の唇が微かに震え始めた。


「大丈夫か?」


 せながら、僕にしがみついてきた。髪の間から覗く瞳の中には、恐怖の色がありありとある。まだ若い。その面影に、強烈な既視感を覚えた。


「……怖い……」


 しがみついたままで、彼女は狭い空間をぐるりと見渡した。


 似ている……マリエに。いや、そんなはずは……。乱れた心で何度も否定した。


「ここは、どこ? ……これからどうなるの?」


「それは……」


 動揺を吐き出すように、僕は荒く息をついた。


「このまま海水に浸かっていると、体温が奪われる。……いや、それよりも、空気がもたない」


 手を伸ばし、今や天井になった床に触れる。


「それまでに、助けは来ないの?」


「それは、わからない……」


 しかし、ここで待つだけというのはあまりにも消極的すぎる。助けを待つとしても、死を待つとしても。


「ここで待っていて」


 彼女が止めるのも聞かず、僕は何度か深呼吸をした。貴重な空気を消費するのは気が引けたが、心は決まっていた。勢いよく身を沈める。


 安全な場所がほかにあるかもしれない。


 水の中は思ったよりも視界が悪かった。客室のドアから通路へ泳ぎ出る。通路は海水で満たされていたが、その先に大きな空気溜まりを見つけた。あそこまでいけたなら。


 どうする? 空気がもつか、ぎりぎりのところだ。一か八か、泳ぎ始めるとその奥に、巨大な魚影がぬっと現れた。


 フロアの常夜灯が、それを照らし出す。


 鮫だ。体長はゆうに三メートルは超えるだろうか。……なぜ、こんなところに。……船体に大きな亀裂でもあるのか? その歯には衣服と肉片が絡みついている。


 刺激してはいけない、そんなことは心得ている。が、恐怖は容易に僕を狂わせた。パニック状態で身を翻した瞬間、背中にぞっとするほどの衝撃を食らった。


 身体がくの字に曲がる。


 蓄えていた大切な空気が口から漏れる。


 押し出された先に、客室のドアが迫っていた。死に物狂いで手すりを掴む。ぐっと引き寄せ、反転して、そこに逃げ込んだ。鮫と睨み合いながら、スライドドアを閉める。


 間一髪だった。ドア越しに、ごつんごつんという鮫の気配がある。


 悪いことに、右足を痛めたらしい。力が入らず、ひどい痛みが伝ってくる。残された力で水を掻き、水面から頭を出した。


 一心不乱で、空気を吸う。


 彼女の視線を痛いほど感じた。


「あなたが戻ってこなかったら……どうしようって……」


 嗚咽をこらえるその姿に、僕は再びはっとなった。


 マリエ。……勝手に記憶が巻き戻る。


 十年前、二人だけの世界へ行こうと誘われたとき、あらがう気持ちは湧いてこなかった。それよりもマリエのいない世の中に、一人取り残されることの方が恐ろしいと思えた。まだ高校生だった。側から見たら、危うい関係を続けていたのかもしれない。大人によって引き離される前に、現実から逃げ出すことを決めたんだ。


「わたしの手を離さないで」


 とある雨の日、僕らは吊り橋から飛び降りた。そこからの記憶は曖昧だ。病院のベッドで目を覚まし、マリエの死を知らされた。いろんな人が僕のところに来て、いろんなことを言ったが、何一つ、心に響かなかった。きっとあの瞬間に、僕のほとんどはマリエと一緒に死んでしまったのだ。


「……ごめん、先には進めなかった」


 鮫の話はする気にはなれなかった。


「……ありがとう」


 彼女は落胆する様子もあまり見せず、自分を納得させるように何度か頷いた。


 無謀な試みと、それで彼女を泣かせたことで、前よりも空気が薄く感じられた。……深く吸っても、満たされない。息遣いがどんどん荒くなっていった。


 彼女の匂いが満ちている。


 彼女の吐息を、僕は吸う。


「……ねえ、聞いてくれる?」


 不意に、彼女が口を開いた。


「何?」


「……こんな死に方は……嫌だって……いう……のが、一つあるの……」


 吐息混じりで、聞き取り難い。お互いの頭を近づけ、結局抱き合うように寄り添った。


「何かの理由で……突然、わたしの心臓が止まるの。……周りの人はわたしが死んだと思って、棺桶にわたしを詰めて、墓地に埋める。……しばらくして、わたしは棺の中で目を覚ます。仮死状態だったの。そこは……暗くて何も見えない。……内側から蓋は開かない。土がしっかり載っているから。……声を上げても、きっと誰も来ない。……一人きり」


 彼女はまた泣き出した。


「泣かないで……」


 僕は耳元で囁いた。


「……嫌なの。一人は。そんなの……絶対に」


 僕が共感すると、彼女は落ち着きを取り戻していった。


「あとどれくらい……? ここの空気……」


「……もう長くは……ないと思う……」


 酸欠で頭が働かない。妙な火照りと寒気が身体の中で混ざり合っている。何をやろうという気にもならない。


「……お願いがあるの……」


 彼女はしっかりと僕を抱きしめた。


「五分でいいから……わたしを愛して……」


「愛して? ……きみのこと……何も知らない」


 僕の肩に顎を載せ、彼女は少し笑ったようだった。


「……思うだけでいいの」


 ほかにやることなんて何もない。それなら彼女の望みを聞いてもいい、はずだ。


「……わたしから……するね」


 少し間を取って、彼女は始めた。


「……春、あなたと出会った」


 春? 何を言い出したのか。彼女が切り出したセリフに、少し戸惑ったが、ああ、そうするのかと、僕は目を細めた。想像で、馴れ初めを語り合うのか。


「……友達の紹介だった。……で、意気投合した」


 自然と、マリエとの出会いを僕は口にしていた。


「……その日にデートに……誘われた……」


 こんな状況だから、この妙な『遊び』を受け入れられるのか。頬が緩む。


「夏、海へ出かけた。砂浜で……花火」


 今度は僕から始めた。


「楽しかった」


 彼女は抑えた声で答えた。


 それから充分な間を置いて、また口を開いた。


「……そして、秋」


 その語尾に寂しさが滲んだ。


 ああ、そうだ。


「……すれ違い」


 いくつかの誤解が重なった。


「でも……乗り越えられた……」


 ぐっと抱きしめられる。


「きみは……誰?」


 抑えられなくなった疑問が、口から漏れ落ちる。


「……わたしにもわからない。……ここに来てから、ずっと考えているのだけど。……自分が何者なのか、思い出せない。……でも、もういいの。……続けよう」


 彼女はそう囁き、また始めた。


「……冬」


「冬、プラネタリウム。……素直になれた。……きみと……星を……見ていると」


「そう。手をつないで……」


 どうして、知っている? 言葉遊びの、単なる偶然とは思えない。


「春、夏、秋、冬。……つきあってくれて……ありがとう」


 彼女は満足気な声で呟いた。


 僕は身体を離し、彼女を凝視した。熱い想いが溢れてくる。


「……もう一つ……お願いしていい?」


 彼女の濡れた瞳が、僕を写していた。


「あなたより先に……死にたいの」


 顎を上げ、白い首を見せる。


「……止めて……くれ」


 僕は首を横に振った。


「……こうやって……身を寄せ合っていれば……じきにそうなる……」


「一人に、なりたくないの……」


 彼女は僕の手を取り、細い首を握らせた。


「力を入れて……少しだけでいい……」


「無理だ」


「わたしは死んでいたのに……あなたが呼び戻したの。……この世界に。……だから、元へ戻す義務が、あなたにはある……」


 彼女の言い分はまっとうに思えた。命が尽きるまで、ただ生き続けることに、意味なんてないかもしれない。


 朦朧とした意識の中、力をこめていく。それが引き起こす事実に目を背けながら。


「……そう、もっと」


 彼女は自分の額を、僕の額に押しつけてきた。


「……見て……わたしの、奥を……。あなたがいるから」


 彼女の瞳の奥で、何かが揺れていた。


 透き通った眼球の底に、流れゆく景色を僕は見た。今、言葉で交わした、春、夏、秋、冬が回っている。二人が出会い、過ごした日々だ……。それは彼女の走馬灯? いや僕の走馬灯なのかもしれない。


「……もっと……もっと回して」


 熱い想いが再びこみ上げる。苦しさが失われ、穏やかさに包まれていく。


 二度目の春が訪れたとき、あの吊り橋が見えて、走馬燈はぴたりと止まった。


 ……回れ。……回れ。力を入れても、それはもう動かなかった。


「……マリエ」


 静かに手を緩めると、目の前からマリエが滑って、音もなく水の中へ消えた。そこにあった思い出すべてを連れ去って。


 ……また一人になった。


 ごおんごおんと、壁を伝う音が空っぽの心を震わせた。


 どこかに亀裂が入ったのか、そこから空気が抜けていくのがわかった。かわりに冷え切った海が入り込み、見る間に、この僅かばかりの空間をさらに狭くしていく。


 必死に顎を持ち上げ、最後の一呼吸まで欲するこの身体に、嫌気が差す。そんな自分から気持ちが離れようとしたとき、不意に足首を掴まれた。


 何が起こったのか、と思う間もなく、水の中へずるずると引き込まれる。くぐもった世界で目を開くと、髪を揺らしたマリエが笑っていた。


 沈む僕と、浮かび上がるマリエ。手を伸ばし合い、抱きつき、キスをした。


 今までずっと感じてきた生き苦しさが、すっと消えた。


 マリエはとある方向を指差した。頷いた僕はマリエに導かれ、水没した通路を辿った。船外へ出ると、上に向かい、海面から顔を出した。


 嘘のように、海は凪いでいた。


 マリエは沈みかけた船底に這い上がり、その端に腰を下ろした。


 僕もそれにならい、マリエの隣に落ち着く。


「……夜が明けるね」


 マリエの横顔は遠くを見ていた。


 茜色の空が海原を染めていく。気が遠くなるほどの紅に、心が吸われていく。……すると海は、ぐるぐると揺れて、紅蓮の華に変わっていった。見渡すかぎり一面に咲くその華は、炎のように揺れ始める。


「ここは、どこ?」


「二人だけの世界、罪深きわたしたちだけの……」


 マリエは俯いた。


「わたしは自分をあやめた」


 その言葉で、あの吊り橋の出来事が脳裏に甦ってきた。


「そして、あなたは他人をあやめた」


 僕は手のひらを広げた。……殺した。マリエを? いや、あれはマリエじゃなかったのか? そこに、確かな殺意だけが残っていた。


「……ここは魂の監獄」


 マリエがその手を優しく掴んだ。


「罪を、償うのか? 僕らはここで」


「そんなこと、しないよ」


 マリエは微笑んだ。


「握っていて欲しいの。わたしの手を。……ただ、ずっと」



〈了〉

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