Chapter10 背徳者のアリア
無視をしようと思っていた。
「一縷さーん、一縷さん、おはようございます」
しかし、この人間アラーム、どれだけ無視しても止まらない。無限スヌーズ機能。やかましくて仕方ない。
仕方なく――本当に仕方なく、一縷は左目を開けた。その視線の機嫌の悪さに剥離が思わず後ずさったような気配がしたが、ぼうっとしていてよく見えなかった。
「今何時」
恐ろしく低い声が出る。香屋埜にリテイクを要求されそうなレベルで。
ああ、今日のバイトは休みになるんだった。収入が。それもコイツのせいだ。
「七時だよ」
「ふざけんな。昨日何時に寝たと思ってるんだ」
「四時」
「三時間なんてのは、睡眠じゃない、仮眠だ。許せない」
再び目を瞑る一縷の枕元のシーツに剥離は顎を載せた。顔が近い、と文句を言いたかったが、その気力もなかった。
「話し足りないんだ。一緒にいるうちにいろいろ」
「後にしろよ。寝る」
「一縷は、人形が好きなの?」
一縷はため息を吐いた。少し付き合ったら満足するだろうか?
「さあ。好きかどうかわからない。憧れていたことはある。変わらないから。でも、やっぱり停滞よりは、一瞬の方が良いな。一瞬だから価値があったんだ。人形も、私も」
「エフェメヰラ?」
「なんで知ってんの? ストーカーだから? ……あー、なんか、あの時もそんなこと言ってたな」
「知り合いなんだ、ヰデア……製作者と。だから、見たらわかったよ、一縷のその眼、エフェメヰラの右眼だね」
一縷は瞼を開けた。
「そうなの?」
「知らなかったの?」
「知らなかった」
それで惹かれたのかな、と思いつつ一縷は再びベッドに倒れ込み、深い眠りに落ちていった。
次に起きたときは、剥離は床で白い大きな紙に何か描いていた。
「あ、起きた」
「……おはよう」
「おはよう、もう夜の五時だけど。ご飯にする? お風呂にする? それとも」
「お前を殺す……」
「時々一縷は物騒だよね……」
「思い出してくれ、たいてい君が彼女面をしたときだから」
「そうだったかも」
「ああ……、なんだか急にかき氷が食べたくなった。剥離、この辺にそういうお店ある?」
「近所ってほど近所ではないけど、氷菓屋があるよ。アイスはあるけど、かき氷はあったかな……」
「行ってみよう」
「うん」
「着替える」
「うん」
「外に出て」
「えぇー? あ、あっ、すいません、出ます。すぐに、ただちに。ハイ」
/*== ==*/
かき氷は、しゃくしゃくしゃく、と氷を崩す音が脳髄に涼しかった。
少しだけ荒削りな氷と、雪みたいな氷をレモンシロップで溶かしてゆく行程。溶かし切るまでに胃に収める、言わばタイムアタックだ。かき氷というのは、緊張感のあるデザートなのである。
食べ終わってから、そういえば食後の薬を持ってくるのを忘れていたと思い出す。メロン味の氷を食べ終わった剥離に目をやると、彼は案の定こめかみを押さえていた。
「メロン味は、舌が緑になるよな」
「なるね。見る?」
「見ない」
「っていうか、そろそろ今月の生活費のような、全財産のような、そんなか細い貯金が無くなりそうなんだけどさ、一縷って財布とか」
「持ってない」
「うう……」
「いや、Sランクの身分証明コードならあるよ。でも市場では使えないだろ。バイトもそんなに長時間やってるわけじゃないから、私はもともと貨幣をあんまり持っていないんだ」
統括機関によってランク付けられた人類は、その等級に応じて支給品が定められている。支給品で賄えないものは自分で稼いだ貨幣を使って購入するしかない。ちなみに偏執市場では貨幣しか扱っていない店が圧倒的に多い。
「Sランク……はあ、格差を感じる」
「美人になって出直したらいいんじゃない?」
「国宝レベルに美形なんだ……すごいね……」
「ちょっと引くなよ、殺すぞ」
「ほら、君結構物騒だよ? いま別に僕彼女面してなかったじゃん」
「私の顔面にケチをつけそうになったときも追加」
「ええー……」
そろそろ行こうか、と立ち上がった剥離についていく。氷菓屋の店主に軽く会釈をしてから、路地に入った。
不思議とどこにも人は居らず、ところどころの電灯が白く辺りを照らしていた。
「はーあ、どうやって来月生きていこうかなあ」
すこし前を歩く剥離に、一縷は尋ねる。
「何か要るの?」
「画材」
「ああ……」
一縷は自分の身分コードの支給許可品一覧を思い出した。その中に画材は入っていただろうか。
「もし足りないなら、私が」
出そうか、と言おうとしたその時、背後から鈴を鳴らすような可愛らしい声がした。
「一縷さん」
聞き覚えのあるその声に、一縷は振り返った。
白熱灯の下、まるでスポットライトを浴びるようにその少女は立っていた。
肩口で切り揃えられた髮。白い長袖のワンピース。華奢な肩、腕、あえかな唇。
声は、あのときの少女のままなのに――その顔は。
「五日ぶりですね。葛です」
まるで、整形でもしたかのように、一条一縷にそっくりだった。
彼女の髮を風が揺らす。
錯覚でもしているのか。
一縷は、かつての自分を――いや、かつて七歳だった頃の自分がそのまま成長した姿を、見ているような錯覚に陥った。
ああ――。
遭いたくなかった可能性、見たくなかったレゾン・デートル、考えたくない並行世界。それに最も執著していたのは自分なのだ。忘れられない、恋するように。
だからこそ、一縷はぽつりと呟いた。
「――ごめんね」
もしも彼女がかつての自分であったなら、一番言いたかった言葉がそれだった。
あなたになれなくてごめん。
蛹のままで終わってごめん。
「何が?」
少女は、一縷に歩み寄りながら小首を傾げた。
そうか。
わからないなら、それでいいか。
なんとなく、昨日の剥離の気持ちがわかった気がした。錯覚、気のせい、いくらでも言えるけれど、錯覚じゃないと信じたかった。
わからなくてもいい。
ただ、自分が救われたかっただけなのだ。
隣に剥離が立っている。
昔の自分にそっくりな葛が現れて、それでも剥離が彼女の元へ行っていないだけで、一縷は。
一縷は?
ああ、考えたくないな。
「まだ、生きているんですね」
その顔は微笑んでいるのに、どうしてか泣きそうに見えた。
「ああ――葛ちゃん」
「ねえ、どうして生きているんですか?」
「答えなんて無いよ。きっと生涯わからないままだ」
明瞭な答えは未だ自分の中には無かった。振り返って、葛に対峙する。
「それも全部、あなたが才能を棄てたからで」
「たぶん、それでも理由があるとしたら」
一縷の口から、ぽろりと言葉が零れ落ちた。
「偶然なんだろうと思う」
「偶然?」
自分で口にしてみて、すとんと納得がいった。そう、一縷は偶然生きている。偶然、紫機流という理解者がいて、偶然、剥離という安寧を見つけて。
どこかしこにいる誰ともしれない誰かとも同じように、偶然、この世を生きている。
「偶然、偶然、偶然――なんですか、それは! 少女でも天才でもないのにどうして――それじゃあ、ねえ、少女でいられなくなりゆくわたしはどうやって生きていけばいいというのですか? 教えて、わたしの到達点!」
「葛ちゃんはまだ若くて幼いから、生きていられるよ。そのうち若さが摩耗して、幼さだけが残ったとき、初めて死ねばいいと思う」
一縷は穏やかにそう言い切った。
「君は私より遅いから、未だその時は来ていない」
――パキン。
葛の足元の地面から足首までが、不意に氷結した。
「――え?」
葛は何が起こったのか理解できない様子で足元を見下ろした。一縷の肩が掴まれる。それまで気配を消していた剥離の手だった。
「機関だ」
「ああ……へえ。噂の対偏執部隊か。こんな風なんだ」
パキン、パキン、と葛の脚が凍っていく。
「待って! 待ってよ!」
踵を返そうとする一縷の背中に、名無しの葛の叫び声が縋る。
「逃げるな――逃げるな、臆病者! おいていかないで! 全部、全部置き去りにして行くつもりか! 裏切り者、無責任、この背徳者! 死ね、少女ですら居られなくなったなら、死ね、今ここで死ね!!」
その言葉に足を止めかけた一縷の手首を、剥離が強く引く。
「今も昔も、一縷は一人でいいんだよ」
そのまま走り出した剥離に釣られて、一縷の足も走り出す。
どこから吹き込んでいるのか、涼しい風が一縷の髮を揺らす。
ふわふわと熱を持って膨張してゆく心臓と、すうっと冷えてゆく脳、回る思考。なんだかその感覚は久しぶりで笑ってしまった。
エレベーターに駆け込んで、地上までのボタンを押す。冷房が汗ばんだ頬に心地よかった。
「一縷の笑い声を聞いたのは初めてだった」
壁に背をつけた剥離は、愉快そうにそう言った。
「ねえ、どこ行くの? アトリエは過ぎただろ、地上のお前ん家?」
「えー、つけられてたら僕が捕まっちゃうよ」
「まあ、誘拐犯だからな」
一縷は少しだけ悩んでから、ぽつりと呟いた。
「私さ。お前のこと覚えてなくて、ごめんな」
「いいよ、そんなことは、もう。ああ、そうだ。お祭り行こう」
「……祭りぃ? まあ……うん。それもいいか」
「全部、僕が叶えてあげるよ」
「あ?」
「別に」
別にじゃない、と剥離を小突いて、開いたエレベーターのドアをくぐる。見上げた空は、丁度群青色に染まってゆくところだった。
「お前の眼の中歩いてるみたいだ」
「それ、後から恥ずかしくなるやつだよ、一縷」
「そんな事言うと今恥ずかしくなるだろうが」
一縷は随分伸びた髮を揺らしながら、群青色の夜空の中を、遠くの神社の方へ向かって歩き出した。
その隣に物騒な変態が居ることで得られる、何かが報われたような錯覚に浮かびながら。
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