Chapter9 群青-F
一縷が歯磨きを終え、軽く着替えて剥離のベッドに寝転んだ頃。携帯端末が着信音を告げたので、そのディスプレイを確認する。相手がヨキだったので、一縷は気軽に電話を取った。
「はい」
『あ、一縷? こないだ話した片目抉りのパターンなんだけどさ』
「ああ。今その犯人と一緒にいる」
『は?』
「私に危害は加えないみたいだから放置してるけど。それで、何?」
『ああ。【少女戒律】の話なんだけど、投身が一旦ストップしてる。今までに無い動きだから、注意しとけよ』
「注意って言っても……」
よされ亀を一匹食べ終わったらしい剥離がアトリエの方に戻ってきた。
「何に? 少女たちがユメから覚めたか、少女がもういなくなったかのどちらかだろ?」
『前者だといいけどな。ま、一応忠告と思って』
「それはどうも。じゃ、また」
ヨキとの通話を終えて、一縷は剥離に尋ねた。
「お前、偏執持ちなの?」
剥離は首を振った。
「ううん、持ってない。たぶん。だから戸籍登録の住所は地上の北部の住宅街になってるよ。ここには絵を描く時だけ来てる――まあほぼ毎日だけど」
「ふぅん」
一縷は壁の遊園地の絵に視線を向けた。
絵の中にある硝子で造られたようなメリー・ゴー・ラウンドは、その光の屈折までが頭の中で再生できた。
「一縷はさ、もう天才には戻らないの?」
その言葉に、何故か失望を覚えた。それは剥離に対してだったかもしれないし、いつも通り、自分に対するものだったかもしれなかった。
「次にそれを言ったら、殺すよ。剥離」
誰のことも殺せなさそうな声で、一縷は静かにそう告げた。身体の力を抜いて、ごろんと壁の方を向く。
「それじゃ、おやすみ」
「うん。おやすみ、一縷」
「君は天使?」
剥離が小さく呟くのが聞こえた。
「天使に見える?」
浅い眠りから目覚めた喉の奧で、ハスキー・ボイスが低く唸る。
「起きてたの、一縷」
「寝言」
「ずいぶんはきはきした寝言を言うんだね、君……」
「あのさ。答えてほしいことがある」
「ものによるけど」
「お前は、私に何を期待してる?」
一縷は吐き捨てるような口調だった。
「誰も彼も、みんなに聞いてみたいよ。少女教団の一人ひとりにもさ。そんなに天才が欲しいのか? あんなに可哀想な存在が? 笑えてくるぜ、つまんなくて。【前のわたし】はもう居ないし、そんなの未だに好きなんて、全く偶像崇拝なんだよ。お前もそういう宗教家なの? だったら私を巻き込まないで欲しいな。【今のわたし】は実像で、餘生を惰性で生きたいだけの、ただの無害な……」
「一縷」
「ねえ、お前も思うわけ?」
その声は、先程までとは一転して、初めて聞くような細い声だった。
「私は劣化してる。自分が一番判ってる。もしあの時天才性を捨てずにそのまま進んでたらどうなってたか、わかるよ。見えるんだ、とおくに」
理想の一縷。
到達点の更に先。
そこに劣化が待っていたとしても、羽化する瞬間の蝉が最も美しかったのだとしても、
あの時飛ぼうとしなければ。
どうしてこんなことをこの変態に話すのか、自分でもわからなかった。しかし、誰かに聞いてみたかったことでもあった。
一番の偶像崇拝者は一条一縷自身なのだから。
「今の私が生きてる意味なんかあると思う?」
「わからないけど」
一縷の体の力が抜けた。
なんとなく、その答えは知っていたような気もした。
「あっそ。……寝ないの。剥離」
「なんか退屈でさ。眠れない」
「君さ。そういうときは、美人が隣りにいるのに眠れないって答えるんだよ。全くなっていないよ」
「一縷、あのさ。僕一縷の死生観に興味ないから、それよりもっと面白い話してよ」
「ふざけるな、わたしは寝るんだよ」
「さっきおやすみって言ってからもう三十分も經ってるのに?」
一縷は黙り込んだ。
「……何が聞きたい?」
「君、ときどき天使みたいだよ、一縷。……君が話したいことが聞きたい」
「褒め言葉としては、まあまあだけどさ」
そして一縷は、どうでもいい話を始めた。香屋埜の話。三島の話。尾花の話。
透明になった海に行ってみた話。
船には乗ってみたいが船酔いが怖いという話。
底の抜けた柄杓屋が偏執市場にあるらしいが、誰が買うのかわからないという話。しかし船に乗る前には行ってみようと思っている話。
剥離は、それを目を細めて聞いていた。
夜が更けるまで、誰もそれを止めるものは居なかった。
その日、一縷は短い夢を見た。
硝子でできたメリーゴーランドに乗る夢を。
側には何故か剥離がいて、一縷のことをずっと見ていた。
それだけの夢だった。
ただそれだけの、夢だった。
/*== ==*/
肆戸病院の病室。
紫機流に問いかけられた三島はタブレットのディスプレイに視線を落とした。そこに映っていたのは、黒髪を肩に届かないくらいに切りそろえた、か弱い風情の少女であった。
「これは、連続投身自殺事件の捜査線上に上がっている、少女教団の指導者と思われる人物の写真だ」
「私はその子に会ったことがある。電電機工研に一度見学に来たギフテッドだ。論文を送られて軽く目を通した記憶がある。二週間前だ」
「ギフテッドだと?」
「ああ、これは、少し――まずいかもしれないな」
「言え」
三島の怜悧な声が飛ぶ。
「思うに、この一連の事件での被害者はかつての一縷の模倣をしている。私も少し――調べたのでね、多少の事情は識っている。その上で。命を絶つ際の年齢が七歳ではなくなってしまっている時点で、この模倣は不完全なものであると言える。自殺もおそらく教唆だろうな。主犯はおそらく教団内部の人間で、何らかの理由に抵触した人間に自殺教唆しているのだと考えていた。であれば、模倣が不完全であるうちは一縷本人には害が及ばない。現場で気絶したのは別の事情。投身現場に数度行き会ったことは、それまで一縷がこの事件を知らなかったことから考えて、事件の主犯にとって意味のあることではないだろう。そして、一縷が霧島剥離と行動を共にしているならば、その間は一縷に危害は及ばない。霧島剥離は、一条一縷をけして傷つけない。傷つけさせない。霧島乖離が、一条紫機流にかつてそうであったように」
紫機流は朗々と語った。
「しかし。このギフテッドが主犯だとすれば、少し話が違ってくる。死んだ少女はみんな十四歳以上だな? この少女はまだ十三歳のはずだ。本人はギフテッドで、教団内部の人間だ。送られてきた論文の思想は一縷のトレース。あの頃の彼女には到底及ぶものではなかったが、わたしは一言コメントはした。【一条紫機流博士に認められること】が最後の条件になるならば、私が偏執の引き金を引いたかもしれない。【ソノミヤカズラ】が【イチジョウイチル】に至るための引き金を」
「理解った」
三島は、それだけ言って病室の出口へ向かった。
早いテンポのヒールの音が遠ざかっていく。振り返る気配のないその音を聞きながら、尾花はひとつため息を吐いた。
「ちなみにだけど、私は全然解らない」
「うん。全然配慮をしなかったからね、そうなると思った」
「何がどうなってんのか、人間にわかるように解説してくれよ、紫機流」
「いいよ。代わりにちょっと、コーヒー買ってきてくれる?」
慣れた口調ではいはいと答えて、尾花は枕元に置かれていた紫機流の財布を持ってゆるやかに部屋を出ていった。
でも、多分三島は間に合わないだろうな、と一人の病室で紫機流は考えた。
いつだって少し遅いのだ。
大人は子供に追いつけない。
時間の流れが違うみたいに。
もしも一縷が殺されたり、また自殺したりしたら、私は何をどう思うだろうか。
昔のように、安心したりするのだろうか。
紫機流はごろんとベッドに横になって目を閉じた。誰だって少しの安心が欲しいだけ。それが、枕と布団か、あるいは人格のコピィか、あるいは誰かの死か、あるいは薬指の約束か、ただそれだけの違いというだけだ。
「あ? おい紫機流、寝てんじゃないだろうな? おい」
ゆるやかに睡眠の淵に落ちていく中、紫機流は昔のことを少しだけ思い出していた。
霧島乖離と過ごした僅かな夏の話。帰ってきたら一縷に聞かせてやらなくちゃ。
戀は閃きに似ているということ、あの子は誰かに習っただろうか?
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