Chapter8 エフェメヰラ-E
とおりゃんせ、とおりゃんせ。
ここは、どこの、ほそみちじゃ。
てんじん、さまの、ほそみちじゃ。
自分の歩くスピードに合わせて軽くくちずさみながら、誰も居ない近道の路地を駅に向かって進む。この時間であれば、地中街を通るよりも電車を使ったほうがいいと思ったからだった。一縷は路地が好きだった。表通りの喧噪が、見えない壁を隔てたように聞こえるからだ。同じ理由で、授業中の学校の廊下を歩くことも好きだった。喧噪というのは、ひとつ隔てたところから聞くから好ましい。最中に居るのでは、情報量が多すぎて楽しめたりなどしないと思う。
尾花と三島の話を聞いて、一縷はふと、教室に行ってみようかなと思った。
不登校児が不登校する理由として、まず考えられるのはその場に適応できないことだと思う。中には、潔癖性にも近い理由でそう口にする人間が居たりもする。一縷はその口だった。そういう人間は、自分で選んだものの中でないと上手に呼吸ができないのだ。自分で定めたルールの中でしか生活できない人間というのは一定数存在して、定めたルールが社会に適合できないときに一縷のようなものが生まれる。
つまり、不適合者だった。
そういう者が決まって考えることは――
一縷の足と、思考が止まる。目を――見開いた。
視線はわずか、自らと十メートルばかり離れた地点で起こっている現象に釘付けになっていた。地面に転がる何かの影と、それに跨った人間、人間が、何か――いや、誤魔化すまい、一縷には理解できていた、それが、転がった何かが、人間の姿であることを! 人間の顔に、あれはおそらく目の位置だろう、眼球の位置だ、そこに何かを突き刺す姿、その、現実から乖離したような、現実から何かを隔てたような状況に釘付けになっていた。
人間が、人間を、刺している光景。顔に、何か――あれはナイフだろう――を差し込んで、梃子のように動かしている光景。
ずきん、と頭の外側が痛んだ。
ああ、こんなの。隔てていたって好めない。
一縷は無意識に右目に手を当てていた。引き攣る頬を制御する。まるで笑っているみたいだからだ。外見からコントロールしよう。オーバーヒートしてしまう。事実だ、これは、
認めなきゃ。
その意識が脳内で形を取った瞬間、人間だった何かに跨っていた誰かが、がばっと体を起こした。瞬間、一縷と誰かの中間ほどにあった電灯がヂカッと大きく点灯する。おかげで姿が見えてしまった。
ずきん。
その人間は、白髪の、青年だった。いくつなのかわからない。痩せている。その瞳は眩んだみたいに真黒だった。転がった人間の目玉をえぐりだしていたのは、自分の瞳が真っ暗だろうかとか、そんなことを考えた。転がっているのはこの間から一縷がよく見るような黒髪の少女。年齢は葛ちゃんと同い年くらいで、その表情はよくわからなかった。死んでいるからかもしれない。ただ、血液が現在進行形で眼窩から溢れ出していること、
ああ、
待て、
お前を私は、
知っている。
彼は、立ち上がった。上から吊られているような、人形じみた動きで、視線だけ一縷と合わせたままで、姿勢を起こしたのだ。その絶望的な不気味さに息を呑む。
一縷はこの男を知っている。
『きみの名前は』
ミラー越しの目。
癖のある白髮。痩せた体。表情の浮かばない顔。まるで黒に近い、けれど違う――群青色の目。ずきんと頭が痛んだ。
『何ていうの?』
「……ああっ、」
一縷は、にわかに体の制御権を戻されたように思った。
膠着していた意識が解ける。
「死ね!!」
叫んで、くるりと踵を返す。
かっ、と、ブーツの底が、アスファルトを蹴った。逃げるのだ。逃げなくてはいけない。今なら、まだ、すぐそこに尾花と三島が居るはずだ。携帯を取り出して通報するよりその方が早い、今ならまだ、
思い出さなくて済む。
――何を?
背中に気配を感じて、
一縷は反射的に避けようとした。体の重心が崩れて、アスファルトに倒れ込む。右膝に衝撃があった。次いで、右肘、肩、胴体と打ち付ける。顔を上げると、さっきまで一縷の頭があった場所を鷲づかむようにしている青年がそこに居た。
どうして、――有り得ない。あの距離を、こんなに短時間で詰められる訳がない。
一縷は唇をぎっと噛んだ。ピアスが歯に当たる。
ゆらりとこちらへ近づいてくるその青年から目を離せない。
どうする、立ち上がって逃げるのはもう無理だ。背中を見せてはいけない。目を逸らしてはいけない。
前髪が乱れて、右目が完全に開いてしまっている。見せるつもりなんか無かったのに。自分の息がじわじわと荒くなっていくのがわかった。心臓の動悸も徐々に激しくなる。
肩で大きく息を繰り返す一縷の目の前に、青年が歩いてきた。
「……?」
青年は、小さく首を傾げる。その服に一滴の血もついていないことがわかって、一縷は戦慄する。もしかして、幻覚だったんだろうか、と思った。けれど、青年の左手に握られている紛れもないナイフ、そしてそれにべったりとついたままの血糊、そして右手に彼が持っている死んだ少女の眼球を見て、その考えが間違っていることを知る。
少年は一縷の前に膝をついた。
彼は、からん、とナイフを落とす。その音は路地に反響した。
「――え?」
ヂヂ、再び、電灯が瞬く。死ぬ瞬間の蝉のような音をさせる。
青年は、少女を殺したナイフを掴んでいた手で一縷の前髪を掴んで、ぐっと持ち上げた。一縷は、唇を噛んだまま息を止める。視線が、合った。ああ、やっぱり、青年の目は黒色ではなく群青である。目が乾く。何か、言うべきか?
その時、彼の唇が、ゆっくり動いた。
「――エフェメヰラ?」
思考が、一瞬、止まった。
その掠れた声が、まるで懇願するように聞こえたから。一縷は、どうしてかわからないけれど、まるで身を焦がされるような気持ちになった。
止まった呼吸を、再開させる。
そして、そっと、呟いた。
殺されるかどうかなんてどうでもいいような気がしていた。思えば、これこそ、エフェメイラだったのかもしれない。
一時的で、希少で――
けれど。
「――わたしは、一条一縷だよ」
こないだは覚えていたくせに、もう忘れたのか、この変質者が。
青年の問いに、一縷はそう答えた。青年の瞳に僅かに灯っていた希望は安心のそれに色を変え、人殺しの青年はまるで救われたみたいに目を見開いた。
まだ、生きていたんだね。
そう呟いた。
どういうことだと、聞くか、迷って。一縷は、結局、黙っていることにした。
逃避。怠惰。どうとでも言い換えられる。けれどこの感情は、言葉にしないままが良かった。
なんだか酷く頭が痛くて、一縷は目を閉じた。
これから殺されるにしては非常に穏やかな気持ちで、一縷は目を閉じた。
それが、この日の一縷の終わりであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます