Chapter8 エフェメヰラ-C
尾花はメロンソーダを一度にグラス半分くらい飲み下した。これまでは手加減をして飲んでいたらしい。一縷もよくやる。最初は手加減して、薄まってゆくごとに本気度を増して飲むのだ。本当は薄まる前に、はじめから本気を出したほうが美味しく飲めるのに。
「ヰデアは、エフェメヰラを作っているとき、最も完成に近いと感じたそうだ。瞬間を重ねるごとに、自分が完成した人間を制作しているのだと錯覚してしまうほどに、全てが始まる感覚がしたんだと、そう言っていた。だが、完成してしまったエフェメヰラは、もはや制作途中の美しさが失われていた」
「失われていた?」
「そうだ。ヰデアがエフェメヰラに見ていたのは、羽化して、飛び立つ直前の弱々しい生命力だったのではないかな。頂点に近づくまでの、昇り詰める感覚。それこそを、美しいと思ってしまったんだ。だから、ヰデアはエフェメヰラが完成した途端に興味を無くしてしまった。だからこそのエフェメヰラだ。その名前の意味を知っているか?」
「――いいえ」
「短命なもののこと。一日、あるいは、短期間にしか存在し得ないもの、と言った方が正しいかな」
一縷の手の中で、大きな氷がからんと音を立てた。
「馬鹿だよな、アイツにとって意味のないものであったとしても、他の人間にはこれ以上ないほど美しいものだったのに。価値はそこに、確かに有ったんだ」
「価値」
一縷は思った。価値とは、何か。目を、細めた。ヰドラを只のセーフティーブランケットのようなものだと言った、そして今でもそう考えているであろう自分の父母の事を思い出したのだった。それは違うとどれほど言おうが、効果はないことを一縷は知っていた。だから黙って聞いていた。そして黙って家を出た。それが十七歳の頃だから、もう二年も前のことになる。
価値とは主観に拠ると一縷は思う。万人のための価値など存在しない。三者三様、一者一様。それが価値だ。
他人が主観を否定するのは筋から外れる。
そう思う。
……のは、建前か。
『少女でも天才でも居られなくなったあなたに、生きている価値はあるんですか?』
『早く、答えを出してくださいね』
フラッシュバックするインパクト。
結局一縷は葛の問いには答えられなかったのだから。
生きている価値?
私に、そんなものが存在するのだろうか。
自分を模倣する少女の自死も止められない。
周囲との細い糸で編み上げられたハンモックだけが甘寧な死の淵から一縷を掬いあげているだけなのに。
ずこっ、と音を立てて尾花はメロンソーダを飲みきった。
「それ以来、ヰデアは自分が造る人形のどこかを欠落させている。そうすることで美しさが保たれると考えている。例えば、右腕。例えば、腹部。例えば――眼球」
一縷は、尾花と目が合った。
「お前は気がつかなかったようだが、フェノメノは片目が欠けている」
――そうか。
それなら、フェノメノの方が、一縷に近かったのだろうか。一縷はそれに気がつかなかった。目を伏せる。残念であり、僅かな罪悪感もあった。けれど――座りやすいのでしょう。一縷が手に入れようとして、そして手に入らなかったその椅子の居心地は、たいそう素敵なのでしょう。それで、許してくれないかな。何を。何かを。わたしは赦してあげられるよ。もう――摩耗してしまったからね。
尾花は椅子の背もたれに体重を掛けた。ぎし、と木が軋む音がする。パラノイドの扉が開くときも同じ音がする、と一縷は連想した。そろそろ油を差さなければ。
「ヰデアは、エフェメヰラをどんどん解体していっているんだ。その行程で、美しさを保とうとしてる。解体するたびにそれを新作だと言って発表しているよ。けれど、それでも望むものには近づけないようだ。まるで、自分で自分を殺していっているように私には見える。そう、まるきり、イデアキラーだ」
尾花は皮肉げな笑みを浮かべた。
「あいつは結局何がしたいんだろうな。エフェメヰラの頭部も誰かに売っぱらってしまったようだし。その内、腕もなくなるんじゃないか?」
「おい尾花、飲まないならその水くれ」
「おい桂、お前さっきのピッチャーはどうした?」
尾花が驚いたように三島を見た。その視線が、空になったピッチャーへと推移する。
「お前……」
三島は相変わらず涼しい顔をしている。
「一リットルぐらいだったな」
「飲み干したのか!? ハンバーグが入らなくなるぞ! 言っておくけど、絶品なんだからな!」
「人間には別腹ってものがあるだろう、そんなもの、余裕だ」
「それは喩えだ、わかってんだろ! 人間にあるのは胃の容量だ、別腹ぁ? お前は女子か!」
「性別は女だ、見てわからんのか」
「ああ、まさに今、わからなくなったぜ」
一縷は氷水をすこしだけ口に含んだ。冷たかった。
短期間にしか存在し得ないもの、か。
一縷の手の中でからんと軽い音がした。
例えば、その人形師は、このグラスの中の氷にも美しさを見出すだろうか。
一縷は目を細める。でも、それは、すこしだけ、理解できるように思う。
一縷はグラスを傾けた。エフェメイラ、ほら、今この瞬間。エフェメイラに、触れている。目を閉じる。案外、あの少女はすぐ側にいるのかもしれない。
そう思った。
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