Chapter8 エフェメヰラ-B
こつ、こつ、と廊下を抜けて、その向こうには、また病棟の一室があった。
今度は、びろうど張りの椅子に座っていた。その座り方はさっきの彼女と変わらない。肘掛けに腕を置いて、脚はそのまま投げ出している。まるきり、少女の姿勢であった。今度は、すこしだけやんちゃな女の子かなと思う。食事の際に、テーブルの下で脚をばたつかせるような。それを笑って窘める母親の姿まで想像できた。けれど、先ほどの少女と大きく違う点がひとつだけあった。
首が無いのだ。
いや――胸部より上が全部ない、という表現が正しい。けれど肩の球はあるし、その先の腕もある。胴体も、脚もちゃんとあった。爪先まで作り込まれている。
彼女のプレートには、エフェメヰラとあった。
その表記に、胸が跳ねる。
エフェメヰラ。
ああ、ヰドラと――名前の文字が、ひとつ、同じだ。
ヰドラというのは、一縷とけして切り離すことのできない存在である。
郷愁のような、諦觀のようなものを感じさせる存在。
その名の通り、まるきり偶像そのものなのだけれど。
――自分の中で語るならそれだけで済むだが。もしも他人にその存在を説明するとすれば、紫機流が設計し、紫機流の同僚(それはタワー型コンピュータを組み立てた片里という人間である)が製造し、一縷が基本人格をプログラミングしたペットロボットだった。四足歩行が可能で、完全に愛玩用のロボットである。
一縷はおそらく人格の深層でヰドラにかなりの執着をしているが、そのことについて誰かとの会話で触れるつもりはない。
それは、どこか――どうしてか。生々しくて厭になるのだ。
一縷はエフェメヰラに手を伸ばしてしまいそうになった。そのすこし勝ち気な少女に。ヰドラにするのと同じように。ああ、生々しくて、厭になる。
一縷が求めているのは、一縷がもうどうしようも無く喪ってしまった――
「エフェメヰラ」
そっとその少女性の名前を呼んだ。
白い壁への反響、数秒、あるいは、数瞬の――沈黙。
「……、ああ」
胸がすうっと冷たくなっていく。
そう、そうだ。返答が帰ってくるはずがないのだ。
これは人形なのだから。
「一縷」
背後から声を掛けられて、一縷は振り返る。
「見た? すごいでしょ?」
「――ええ」
「おや……それにしては失望したような顔をしてんね?」
尾花は、目を細めた。
「いえ、人形……すごく、興味が湧きました」
これは本当だった。けれど、一縷が求めるものとは違う。指向するものは同じ筈なのに、どこかがやはり決定的にずれている。そのことを思い知らされたのだった。
「そっか。蛍の光が流れる前にどっか飯食いに行こうって話してたんだけど、お前も来るでしょ? ハンバーグ食べに行こうぜ」
「あの、でも……展示、まだ見終わってないんです。まだ二つしか」
「え? 二つで終わりだけど」
「えっ?」
「完全新作展示会って言っただろ。完全新作二つしかないから展示は二つしかないよ」
「えっ……チケット代、確か、二千円くらいじゃありませんでしたか?」
「ああ」
マジか、と一縷は胸の内で呟いた。確かに……得られるものは多かったけれど、それにしたって、二千円は、痛いだろう。どうなんだろう、こういうものを見に来る人はこれが普通なのだろうか。平均の価格か? お客が少なかったのも、それが原因じゃないのか?
一縷は眉間を押さえた。
「それで、行くの? 行かないの?」
尾花がタバコを取り出す気配がしたので、一縷は顔を上げた。
「ええ、行きます」
ギャラリーの近くにある尾花おすすめのハンバーグレストランで、一縷はチーズハンバーグセットを注文した。始めに出てきたスープがコーンスープだったので、その時点で一縷のこの店に対する評価は五つ星である。コーンスープが好きなのだ。コーンスープに限らず、粒のあるものはだいたい好きだった。食感がいい。
「あー、コーンスープかあ。ここのスープ、日替わりでさ。たまに出るたまねぎだけのオニオンスープが超絶おいしいんだよ、コーンスープも美味しいんだけど」
「私はカツ丼が出ればいいと思う」
「お前まだカツ丼なんてクソ重いもん食べてるの? 今年いくつだよ?」
「壮絶なブーメランだ、それは」
三島は涼しくそう言いながら、氷水の入った透明なグラスを口へ運んだ。店内の色調は総じて暗いブラウン。照明もそれに合わせて落ち着いた橙色だった。からん、グラスの中の氷が音を立てる。三島桂という人間には氷水が似合うと一縷は思った。
食堂の方から、何かが焼ける音が聞こえてくる。一縷は耳を澄ませた。
「毎日同じもの食ってて飽きないの、桂」
「凄絶なブーメランだな。お前だって学生の頃からハンバーグばっかり食べてたじゃないか」
「たまにサンドイッチも食べてただろ」
「ああ、挟まれてるのはハンバーグだったな」
「その記憶力をなんとかしたほうがいいぞ、桂。いつか身を滅ぼす」
「何度でも蘇るさ」
「好きだな、お前」
「ああ」
三島はテーブルの上に置かれていたピッチャーから水を自分のグラスに注いだ。店長がいつもジャンクフードの代表格のようなハンバーガーを食べている理由がわかったような気がした。自分で作るのが面倒くさいだけなのかと思っていたが、ハンバーグが好きだったらしい。
一縷は、両手でグラスを持って、俯いた。水面に映る自分の顔を見つめる。右眼の奥が、ほのかに青く光って見えた。この目は、実際僅かに発光している。エフェメヰラにはどうして顔が無いのだろうか。そもそも、あれは、完成していたのだろうか?
エフェメヰラには失望したが、けれど不思議な親近感は拭えないでいた。それはどうしてだろう。
「一縷、どうした?」
尾花に尋ねられて、一縷は顔を上げた。
「ああ、いえ……あの、エフェメヰラって、完成してるんですか?」
「ああ……あれか」
尾花は、一人だけ注文していたメロンソーダのストローを咥えて、ずずっと啜った。飛沫が飛び散らないよう指先でストローを摘んで、口から離す。
「完成してるよ。――いや、完成していた、あるいは、し続けていると言った方が正しいかもしれない」
メロンソーダは、橙色の光の元ではもっとくすんで見えた。一縷は目を細める。あれは本当は何色なんだろう。いつもこうだ、一縷の目は正確ではない。人間の目は、正確ではないのだ。光が当たった黒いパーカーの色が何色なのか、一縷は正確に言い当てることができない。何の前提も条件も無いままの色を想像して、それにエフェクトをかける形でしか認識できない、そういうところが、たまらなく嫌だった。一縷はそっと義眼に手を当てる。――この目は違った。とかく映像の情報量というのは多い。多すぎるのだ。だからこそ、左目を瞑った時の模糊とした不安感を一縷は少しだけ好んでいる。一縷はグラスの水を飲んだ。
「エフェメヰラは、その来歴から、そもそも完成という尺度で語るのが難しい作品なんだ」
向かいに座る尾花の橙色の光に染まったメロンソーダのグラスを見ながら、一縷は尾花の話を聞いた。
その液体が本当は何色なのか、わからないまま、一縷は尾花の話を聞いた。
「あの人形展は、ヰデアという人形作家の個展でね。彼が作るのは、少女を模した人形ばかりなんだ。彼は人形を限りなく人間に近づけたいと考えている」
話し続ける尾花の隣で、三島がピッチャーから氷水をグラスに注いだ。注ぎ込まれた冷水によって、グラスの中の氷が翻弄される。からん、からん。涼しい音が響く。
「その中でも、最も人間に近づけることが出来た――と、彼が言っているのが、エフェメヰラだった」
「……だった」
「そう。過去形だ。というのも、」
がこっ、と大きな音がした。一縷と尾花がそちらを――三島の方を向く。どうやらピッチャーの水が無くなって、氷が注ぎ口に詰まってしまった音らしかった。三島はそれを意に介さずに、空になったピッチャーをテーブルに置いて、厨房の方へ声を掛けた。
「すいません、水をお願いします」
そしてこちらに向き直り、初めて自分が注目されていることに気がついたとでも言うように軽く瞬いて、手袋をはめたままの右手でどうぞと指した。
「何だ。続きを話すんだろう」
「桂ァ、人がな、話しているときにな、絶妙な邪魔を挟むんじゃないよ」
「別に邪魔をしたつもりはない。ピッチャーの水が無くなったんだ」
「昔からそうじゃねーかテメーコラ毎度毎度ピッチャーの水飲み干しやがって、好きかァ桂、そんなに水が好きかァ、アアン!?」
「ああ、飲み物の中では氷水が一番好きだな。次いでコーヒーだ」
「んなことは知ってるんだよ何年の付き合いだと思ってんだ!」
「じゃあ何で文句を言うんだ。一条が困っているじゃないか」
「いえ、別に困っていません」
「そうか、すまない」
「いえ、怒ってませんので、大丈夫です」
「そうか」
そのとき、若い、そう、一縷と年が変わらないような店員が、ピッチャーごと氷水を運んできて、空いたピッチャーを持って帰っていった。三島がすかさず氷水を自分のグラスへ注いだ。
「……お前らの、その、なんかずれてる感じ、ちょっと疲れるよな」
「そうですか?」
「おっかしいな、あたしの方がマジョリティのはずなんだけどな。おかしいなー」
「店長、話の続きが聞きたいんですけど」
「ああ、はいはい。どこまで話したっけ、そう、そうだ、エフェメヰラの完成度の話だな」
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