Chapter6 アイデンティティを殺してみせて-A

「来てやったぞ、画伯」

 コンクリート造りのギャラリーで、奥にいるであろう画伯に向かって奏済織加は声をかけた。すると、もそもそとぼさぼさの傷んだ白髪を後頭部でちょんと結んでいる青年が奥から出てきた。

「ああ……えっと、奏済くん。ありがとう」

 今日は知人の青年に絵の販売会の受付をお願いしたのであった。彼も絵を描くが、少々特殊なものばかりだった。偏執狂のひとりである。

「名字は好きじゃない」

「織加くん」

「それで? 何を手伝えって?」

「受付をやって欲しいんだ。僕は人が得意じゃないから奥に居る」

「面倒な……人が来てないときは本でも読んでるからな」

「それでいいよ」


 人が来ては去ってゆき、それを眺めながらぼへーっと座っていた剥離の前に、老紳士が訪れた。

「この絵を描いたのはあなたかね?」

「はい」

「この遊園地の絵はいくらで売ってくれる?」

「ああ、売る用の絵は別の部屋なんです。こっち側のは展示だけ」

「おや、既に買い手が?」

「いや、こっち側のは、ただ一人のためだけに描いたものだから」

 画伯――霧島剥離は、少し切なげにそう呟いた。


/*== ==*/


 夢を見た。

 内容は定かではないが、まだ一縷が入院していた頃の夢だった。

 乱れていたキャミソールを直しながら起き上がった。

 起動にはコーヒーが至急要り用だ。

 髪の解れを直しながら、ベッドから降りる。それを感知して直方体の四足歩行ペットロボット【ヰドラ】が充電器から起き上がってかしょんかしょんと近づいてきた。

「おはよ いちる」

「おはよう、ヰドラ」

「現在時刻は 十二時 五分」

「少し寝過ぎたかな」

 昨日眠ったのは二十二時頃だった気がする。

「おそよう」

「そんな言葉、どこのネットで拾ってきたんだ?」

 苦笑しながら、リビングに移動する。ヰドラも着いてきた。今日も叔母の紫機流は帰っていないようだった。まあいつものこと。

 電気式湯沸かし器でお湯を沸騰させ、その隙に用意していたインスタント・コーヒーの粉入りのタンブラーに注ぎ、立ったままそれを口にする。

 脳髄にカフェインが染み渡る感覚があった。

 これが起床というものである。

 コーヒーは一旦テーブルに置いて、リビングの床に放置されている段ボール箱からカロリーバーを、冷蔵庫からは紙パックの野菜ジュースをそれぞれ取り出して椅子に座る。

 朝食はいつもこれだった。

 フルーツ味の直方体を齧り、よく噛んで飲み込む。

 幸運なことにこの一縷の食生活を叱る人間は身近に存在しなかった。


 今日は特に予定も入っていなかったので、偏執市場のゲームセンターに行こうかと街に繰り出した。

 一縷の住む家から偏執市場までは電車で行くことになる。

 駅で待っていると、南北線の路電が丁度来た。

 乗り込むと、「あれっ」と声がした。

「一縷!」

 振り返ると茶髪の青年が手を振っていた。

 親戚の何でも屋、一条善紀である。

「ヨキ」

 二人がけの隣の席が空いていたのでそこに座った。

「バイト行くとこ?」

「いや、暇だからゲーセン行くとこ」

「ラッキー! 丁度いいじゃん、付き合ってよ。お前んとこから回された眼球抉り事件、どうにも面倒なんだよね。二つ事件が重なってる」

「じゃあ巻き込まないでくれない?」

「お宅さんのおかげで巻き込まれてんのはオレの方」

 一縷はぐっ、と詰まってからため息をついた。

「今日一日だけだからな」

 店長め。

「オーケーオーケー。その頭脳をふんだんに生かしてもらいましょうか」

「それは期待しないでくれる。もう凡人なんで」

「お前が凡人? 世界最高峰のギフテッドが何を」

「ヨキ、何度も言うけどその話はおしまい。私は天才を引退したんだよ」

「ま、天才の名残でも残滓でも結構。オレよりはよっぽど頭が働くからね。それに言っといてなんだけど今回は頭なんか使わなくてもいいかもだし」

「頭を使わなくていい?」

 偏執市場に着くまでに、ヨキから聞き出せたことをまとめると、このようなことだった。

 眼球が抉られている事件は二パターンに分けられるということ。

 まず、襲われて気絶しているうちに眼球を抉られるパターン。これは両目が抉られている。恐らく今回の事件の被害者はそちらだということ。

 もう一つのパターンでは、必ず高所からの飛び降りの後に眼球が抉られているということ。それは必ず右目であるということ。


 そして、そのどれも被害者が少女であるということ。


「天才じゃなくてもお前にぴったりの事件だろ?」

 少女に拘りを持つ一縷に対する皮肉だった。

「……言うじゃないか」

 一縷はそっと右眼に手を当てた。

 ドールアイの嵌ったその右眼に。一縷の少女性を保っているその右眼に。

 一縷はもう少女ではない。

 だけど女でもない。

 だったら一縷は何なんだ?

 電車から降りて、ヨキに着いて歩き始める。

「で、今日は何を調べるんだ」

「それは勿論前者だけど。二つ目の方、飛び降りをした少女には共通点があるっぽくてさ。みんな【少女戒律】っていうカルト教団にハマってる。少女であることに最大の価値を見出し、少女じゃなくなったら死ぬみたいな教義の」

 昨日の少女死体の目の黒い色や片方の眼窩から流れ出すどろりとした血液が思い出された。

 それに、柿崎氏を案内した日に遭遇した投身自殺のことも思い出された。

 私のように。

 右眼を押さえる力が強まる。

「模倣犯だ」

「何の?」

「私の。しかも不完全な」

「やっぱりそうか。似過ぎてるもんな」

「腹が立つな」

 一縷の胸の内でじり、と何かが焼けついた。

 自尊心?

 いや、もっと単純な――怒り。

 自殺に対する怒り。そして、それを辱めるようなナイフへの怒り。

「真似をするなら、もっと……否、何でもない。それで、今私たちはどこへ向かっているんだ」

「一個目の事件の犯人のところ」

「もう分かってるのか。じゃあ私が居なくてもいいだろ。解散」

「いやいや、一縷様には囮になっていただこうかと」

「……は?」


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