Chapter4 ドッペルゲンガーのクオリア-B

 しかし、一縷はそこで少し言葉に詰まった。葛の外見について話そうとしていたのだが、葛が着ていた白いワンピースのデザインについてはよく覚えていないことに気がついたのだった。長袖だったことだけは覚えている。どうでもいいこと。代わりに、髪についてはよく覚えていた。前髪は綺麗に揃っていて、前下がりのボブカット。後ろ髪はうなじの辺りで切ったものがすこし伸びたような髪型だった。

「苑宮葛さんは何かから逃げてきたように右の路地から飛び出してきたので、初めは誰かに追いかけられているのかなと思いました。けれど彼女は私にぶつかって、ほっとしたような表情をしたので、追われているわけではないと思いました」

「それは何故?」

「私がもし追われる身だったとしたら、誰とも知れない人にぶつかって安心はしません。むしろ、更に怖がります。追手が一人だとは限らないので。掴まったのだと勘違いします。けれど彼女はそうではなかったので、違うと思いました」

「なるほど。それで?」

「彼女は私の顔を見て声を掛ける人を間違ったと思ったのか、辺りを見回しました。私もイヤフォンを外しつつ同じ事をしましたが、周囲に人はひとりも居ませんでした」

「音楽を聴いていたのか」

「はい」

「音楽を聴いている時、周囲の音はどの程度聞こえる?」

「あの時は、人の声がすこし聞き取りづらいくらいの音量でした。車も、アナログタイプのものやバスでなければ気づきづらいかな……」

「なるほど、わかった」

「はい。苑宮葛さんは、人が死んでいますと言いました。私はそれはどこでと聞きました。彼女は今自分が出てきた路地裏でだと言いました。他に人は居なかったようです。だから、急いで誰かに知らせようと思って走っていたのかなと思います。これは推測です」

「ふむ」

「そして、私は右手にあった細い路地に入っていきました。光が届いていませんでした。目に慣れたころ、まず最初に人が倒れていることがわかりました。路地に入るまでは、本当に人が死んでいるのかどうか、つまり、先に通報すべきは警察なのか救急なのかを判断しようと思っていましたが、胸にナイフが刺さっていること、目が見開かれていて、瞬きを一切していないことを見て、死んでいると思いました。そして、その場で警察に通報をしました。通報が終わってから通りへ戻ると、苑宮葛さんは居なくなっていました」

 そして、警察が来るまでその場で待ち、警察と一緒に警察署へ行き、そして、今です。

 一縷がそう言うと、三島は数秒黙ってから、頷いた。

「なるほど。……大変わかりやすかった」

 三島はコーヒーカップを持ち上げた。そして、目を瞑って、一口啜る。それを見て、一縷もテーブルの上のグラスを持ち上げた。それは結露していて、水滴が一縷の指についた。オレンジジュースが入ったグラスの水滴なのに、オレンジ色じゃないのはどうしてだろう、と考えた。

「……とても助かった。協力、感謝するよ、一条一縷。この後も何か話を聞くかもしれないので、連絡先を控えておきたいのだが、構わないだろうか」

「あ、はい、大丈夫です」

 これで終わりなのか。そう思いながら、一縷は携帯をパーカーのポケットから取り出した。数回のタップを繰り返して、アドレスを表示させる。それを三島に向けて、テーブルの上に滑らせた。

 三島はそれを自分の携帯でスキャニングした。

「ありがとう。……さて、これは言おうかどうか悩んでいたのだが、君の話は整然としていて大変聞きやすかったので、伝えることにしようと思う」

「え? あ、ああ、はい、ありがとうございます……?」

「戸籍を照合したところ、苑宮葛という人間は存在しない」

「は……え?」

「もう一度言う。苑宮葛という人間は、存在しない。正確に言えば、”苑宮葛の戸籍”が、存在していない。警察の事情聴取の調書が回ってきてから数時間、機関内では第一発見者の少女が実在しているかどうかという議論が為されていたのだが、話を聞いた私は、論点がそこではないことを確信した。だから話した。まあ、君が香屋埜ジンの店で働いており、一条紫機流の姪である以上、どのみちこの情報は君のところへ行くと判断したから、でもあるが」

「いや、いくら紫機でも機密情報は漏らしたり……」

 しそうである。

 一縷は閉口した。

「ああ、これは雑談だが。ドッペルゲンガーというものを知っているか?」

「ドッペルゲンガーですか? あの、会えば死ぬとかいう」

「そうだ。それが、最近肆戸島に出るらしい。偏執だった場合は私達がとどめを刺すが、そうじゃない場合気をつけるといい。確か香屋埜がこういう話が好きだったから、土産だ」

 三島はスーツの襟を直した。

 携帯をしまいながら、テーブルの上の伝票を持ち、代わりにそこに名刺を置いた。

「それでは、一条一縷、捜査に協力してくれて本当に感謝している。またそのうちに会おう」

 あ、はい、また……。

 そうとしか言えない一縷を残して、三島は颯爽と歩いていった。

 存在しない……?

 人が殺されている現場で本名を名乗らないなんてことがあるか?

 一縷は、無意識のままテーブルの上のグラスを持って、口を付けた。そして、啜ったオレンジジュースが気管に入って、盛大に咽せた。

 喉がやけつく。

 ――あの女の子、偏執でも入っていたのかな?

 そう思いながら、一縷はオレンジの香りに咳き込んだ。


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