Chapter4 ドッペルゲンガーのクオリア-A
氷のような印象の三島桂に案内された喫茶店は、警察署から徒歩数分の位置にあった。喫茶店、雨宮。日本語の店名ばかり見るが、この島の喫茶店の主は外来語が嫌いなのだろうか。これまで一縷が見てきた喫茶店は、ほとんどが日本名である。マスターもほとんど日本人だ。まあ、外国との交流なんて式日以降めっきり減ってしまったので、そのせいもあるのかもしれないけれど。
注文したオレンジジュースを口に含んで、一縷はじっと三島がコーヒーを啜る様を見つめた。
店内には、会話の邪魔にはならないように配慮された音量で、重低音……ベースを主旋律としたジャズが流れている。しんしんとしていた。シューシューと耳にくすぐったく聞こえるのは別の客が注文したコーヒーをマスターが抽出する音。テーブルの上に置かれたグラスの影が揺らめくのは、天井に据えられた照明が仄かにちらついているからだ。深い森のような落ち着いてまとまった雰囲気だった。思い出すのは今日の昼の人間椅子である。思えば、まだすべて今日なのだ。濃い出来事ばかりで寿命が削れていく気がする。いいぞ。
一縷はオレンジジュースを嚥下した。ああ、調和のとれた店内で、強いて言うなら、この酸っぱい味こそが、その調和を乱しているかもしれないなと思った。
三島はカップの縁にくちびるをつけるだけで、なかなかコーヒーを飲まなかった。
三島桂が所属する、方舟機関が何をするための組織なのか、一縷は詳しくは知らなかった。一縷の同級生だって、あるいは両親だって、それをよくは知らないだろうと思う。けれど一縷たちは、その名において封鎖されている偏執市場の地区や地下道を知っているし、その名において差し押さえられているビルも知っているし、その名において為されている研究だって、知っている。何をしているか知っているのに何をするために存在しているのかわからないところが一縷にとっては不気味であった。
不気味なままで、知らないままで一縷たちの生活に何も支障はなかったし、それに、機関についてはどこか禁忌的な印象があったから。彼らが何をしていようと、聞いてはいけないと思っている。それはこの島に暮らす誰もが同じだろうと思う。誰も知らないのだ。誰も知ろうとしないのだ。それは興味が無いからか。関わってはいけないとどこかで薄々気づいているからか。
その機関の幹部と、自分は喫茶店に居るのだと、そう考えると、すこしだけ背筋が冷たくなった。
いつも一縷はこうだった。夜中に幽霊の存在についてひとりで深く考え込んで、背後に誰かの気配を感じる。
かちゃ、とコーヒーカップがソーサーの上に戻された。それを目で追う。三島は一口も飲んでいないように見えた。
「さて」
三島のその声に、一縷は顔を上げた。
「事実関係を確認したい。君が家を出てから死体を発見するまでのことを、順を追って全て教えてくれ」
家を出てから?
警察では、そこまで遡っては聞かれなかった。一縷は僅かに戸惑った。一度オレンジジュースを飲み下す。
しかし、そう――特に、拒む理由はない。
そして、ゆっくりと記憶の糸をたぐっていった。目を伏せる。
「まず、家の鍵をかけました」
ちらりと三島を伺うと、彼女はじっと聞く姿勢のままだったので、一縷は話し続けることにした。
「ポケットの中の鍵をいじりながらマンションのエレベーターに乗って、一階へ降りました。一緒にエレベーターに乗った人は居ませんでした。それからマンションのロビー、玄関を順番に抜けて、通りに出ました」
一縷は再び目を伏せる。そう、あの時も、いつもそうするように、ポケットの中で携帯を握っていた。
「住んでいるマンションは秋椿通りにあります。秋椿十字で路電に乗って、紫陽花通りで降りて、そのまま潜坂のスクランブル交差点を歩いて、偏執市場のパラノイドまで行きました」
依頼人との話は承諾を得て省略させて貰った。
「パラノイドからの帰りは、来た時と同じ道を辿るつもりでした。潜坂の大通りを再び渡って、紫陽花通りまで行く途中、路地を歩いている最中に、ちょっとした誘拐未遂に遭いました」
「……何?」
三島は眉を顰めた。
「どういうことだ?」
軽く流していたが、そういえばこれも大事だ。
「ああ――何だったんでしょうね、あれは。紫陽花通りの近くで、白いワゴン車に連れ込まれかけました。窓を割って外からドアを開けて脱出したんですが――」
「どういった件でだ?」
まるで一縷の側に心当たりがあるかのような言い方はやめてもらいたい。
「わかりません。そもそも、その男とは初対面で」
ずきん、と再び頭が痛んだ。ぴくりと右の眉が痙攣する。なんだ?
「本当に心当たりは無いのか」
「……?」
いやに疑われるので、思わず三島の顔を見つめると、彼女は一度首を振った。
「――すまない。どうにも、先入観がある。君が紫機流に似ているので、予断を入れてしまうようだ」
三島は相変わらずの渋い顔で、コーヒーを啜った。
「え――」
一縷は僅かに目を見開いた。
「紫機を、叔母をご存知なんですか?」
「高校の時に同級だった。話を脱線させて申し訳ない。続きを聞かせてくれ」
――紫機流の通っていた高校はエスプレッソのような濃度だったようだ。
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