Chapter3 妖怪眼球抉り-A
「おうい、一縷くん。ちょっと」
下から呼ばれたのではあいと返事をする。その声が我ながらハスキーだなと思った。
手すりに指を滑らせながら螺旋階段を軽やかに下って、一縷は正面ホールに下りた。パラノイドの店内は、豪奢なホテルのような内装をしている。築六十年、木造建築二階建ての古い建物だったが、木の艶はうつくしく、陽光を反射する様などは詩的で一縷は好きだった。
フロントに目を遣るが、そこに店長の姿は無い。想定通りだ。フロントの奥、開け放してある扉の向こう、応接間へと視線を向ける。そこには煙管の煙を燻らせる香屋埜が座って居た。
正面の扉を開けて入ってきた客が最初に目にするのが空の受付では商売にならないのではないか、と一度進言したことがある。しかし、店長の香屋埜は一縷の常識的忠告を一笑に付した。そんなことで閑古鳥が住みつくようならこの職業など成り立たない、というのが彼女の言い分だ。彼女は真面目に話すつもりがないのか真面目に考えるつもりがないのか。しかし彼女の先代の時分からこうだったとも聞くからこの店が狂っているのかもしれない。
つまり、それだから、今日も今日とて、彼女は煙草を呑みながら光合成に耽っている。
しかし今日は珍しく来客者が存在していた。
香屋埜の対面に座る男性に一礼をしてから、一縷は口を開いた。
「なんですか、店長」
「こちらのお客様……柿崎さまを案内してあげてくれるかい」
そう言われて初めて一縷は男性を上から下までじっと見た。荷物はホテルに置いてきたのか軽裝で、清潔感のある服装。
「案内……? 佐々木は」
佐々木というのはパラノイドのボランティアスタッフである。香屋埜に一目惚れして以来、側に居たいからと言う理由で無給で働き続ける哀れな青年だ。香屋埜としては給料を受け取って欲しいらしいが、佐々木はどうしても受け取らないという。
「今日明日は休みだね。五味家の人間に、肆戸大祭の準備のためこき使われているらしい」
「そうですか」
香屋埜に案内させるわけにも行かないので、一縷は渋々ながら頷いた。
「あと、君にお願いがあるそうだ」
「お願い? 私にですか」
「い、一条博士」
ずっと黙っていた男性は鞄から古びて読み込まれた新書を取り出した。
「サインをくださいませんか! 昔サイン本を買えなくて」
「あー……」
一縷は曖昧な声を上げた。
一縷はかつて天才だった。とある事情から(それは七歳の頃の飛び降り自殺と関連している)今は脳を天才として活用することをやめてしまっているが、未だにファンは居るし論文が送られてくることもしばしばだった。
「申し訳ありませんが、私はもう天才でもなんでもない人間なので、そういうのは……」
「いえ、その、それでも結構です。ご迷惑でなければ」
ここまで言われて固辞するのもなんだか自意識過剰かなあと思った一縷は、渋々ながら頷いた。
ペン立てからサインペンを取り出して、新書の遊び紙にさらさらとサインを書く。もう十年以上も前とは言え、サイン自体は本を出すときに嫌というほど書いたので体に染み付いている。
「それで、どちらにご案内すれば?」
「一条博士の普段行かれるところに!」
――なるほど、これは佐々木が居ても私に振られていた仕事だな。
「それは企業秘密ですので――では、見ていて面白そうな観光名所にお連れしましょう」
青年をまず初めに案内したのは、静謐邸だった。この島に来て神のいる場所を知らないのは勿體ない。
「ここには吸血鬼白夜と肆戸島の土地神諫名が住んでいます」
「吸血鬼?」
「物語のようでしょう。でも、この島にはそういったばけものがしばしば存在しています」
「そうなんですね……。いや、それにしても、意外ですね。土地神は現人神と聞いていましたから、神社とかにおわすのかと……」
「そうなんです。通常神社に住むものなんですけど、吸血鬼の野郎が無理を言ってここに一緒に住んでいるんです。白夜の同意なしに諫名が出歩くと白夜が情緒不安定になって暴れるので、機関や神社も渋々許可を出しているといった様子で」
「な、なるほど……」
「ちなみに白夜の安全度レベルはゼロなので、暴れられると島が半壊してしまうんですよね。全く迷惑なもので……」
「迷惑で済むんですね」
「諫名神が抑えていてくれるので、まあ。あ、でももし私、もしくは他の案内屋と一緒じゃないときに白夜を見かけたときは逃げるようにしてくださいね。危険なので。見分け方はさらさらの白髪と真紅の瞳です。見た目はひょろいですが怪力乱神ですので近づかないように」
一縷はくるりと左から振り返った。
「とにかく、この島の観光をするにあたって重要なのは逃げることです。道端に立っている無害そうな人間でも、少しでも怪しいと感じたら逃げてください。【偏執狂】の可能性がありますから」
偏執狂というのは、この島特有の異常者のことである。神を信仰し、或いは何かに執着し、頓着し、偏執が行き過ぎると体や精神、あるいは能力に異常が現れ始めるのだ。それはこの島の土地神の祝福でもあり、呪いでもあった。土地神への信仰が厚ければ厚いほど人間から離れてゆく。
「扱いに慣れていると、偏執狂相手でも普通に接することができるんですけどね」
次に案内したのは【海渡り】の切符売り場だった。偏執市場の裏手の方にある、海へ向かってレールが引かれている無人駅【死出の駅】である。ぽつんと車両が停まっていた。
「柿崎さんは、自死願望はありますか?」
「僕ですか? 僕は――無いですね。一条博士が投身をしたすぐあとには考えたこともありましたが、今は」
「そうですか、それは良かった。この駅で切符を買うと、とある電車に乗ることができます。その電車に乗ると、毎年の肆戸大祭のときに安楽死を遂げることができます。それを海渡りと言います」
「どういう仕組みでそうなっているんですか……?」
柿崎氏は少し不穏な気配を感じているようだった。
「島の土地神への生贄になる代わりになんの苦しみもなく眠りにつくことができる、というオカルトな仕組みですね」
「なるほど……」
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