Chapter2 吸血鬼のメランコリィ-A

「紫陽花って昔は紫色とか青色だったらしいぜ」

「へー、だから名前に紫って入ってるんだ。オレンジ色なのに不思議に思ってた」

 学校帰りにすれ違った小等部の生徒の会話を聞いた一縷は、葵を振り向いた。

「葵、聞いた? 今の子供達は紫色の紫陽花を知らないんだ」

「デジタルデータには残っているだろうけどな」

「あれ、でも確か静謐邸と在宮神社の紫陽花は青かったような」

「あんな強固な固有領域持ちと信仰の強さを比べるなよ。そもそも一般人はそんなところ出入りしない」

「私が一般人じゃないとでも?」

「一般人だとでも? 口が裂けるぞ」

 一般人じゃない自覺はあったので黙り込む。

 一条一縷は、七歳の頃まで稀代の天才として活動していた。その後飛び降り自殺を試みて、失敗して生き残ってしまい、今がある。現在は天才としての頭脳は全く活用していない。天才の一縷はあの時もう死んだ。

 この世界ももう死んでいるようなものだし、お似合いだろう。


 世界が死んだというのはそのままの意味だ。五年前、七日間に渡りさまざまな天変地異や未知の難病の蔓延によって人類の絶対数が減ってしまった。人類には為す術もないことばかりだった。雨の止まない地域が出来たり、逆に全くの晴天が続く地域が出来たり、変わったところだと何故か海の色が透明になったところがあったりもした。生態系は大きく軋み、多くの生き物達も滅んだ。紫陽花の色もその時変わった。その七日のことを、【式日】と呼ぶ。

 空に目を遣り、陽光を眺めた。式日のあとからは、いやに眩しく感じられるようになったそれを。

 現在の人類は、なんとか人が暮らせる地域に点々としか生きていない。絶滅の一途を辿っている。

 この島は土地神の信仰に守られているので人間がまだ生きていられるが、新しい人間は世界的に見ても徐々に生まれなくなっているらしいので先細りだろう。同級生にひとり妊婦が居るが、妊婦は無条件で統轄機關に手厚くサポートされている。

 この島は【イフ指定保全地域】と呼ばれる箇所だった。【イフ指定保全地域】というのは、日本国内だけを見ても何かと信仰のある土地のことをいう。伏見に然り伊勢に然り、ニライカナイに遠野に然り。

 一縷としては式日を機に七年にも渡る精神病棟の入院生活から解放されたので、人類にとっては絶望的な世界崩壊でさえ不謹慎にも僥倖と考えていた。自分にとっては、世界が続くことよりも自分が続くことのほうが嫌なのだった。常にいつ死のうかと考えている。

 なぜ入院をしていたのかと言えば、一縷が投身自殺を図ったからだ。結局失敗に終わったけれど。

 飛び降り自殺までしてまだこの身体が生き長らえているという事実。かつて天才であったのに現在はそうでないという事実。この身に抱えるそれら二つの如何仕様もないコンプレックスが一縷の思考をそうさせる。

「ああ、そう言えば、神隠し解決したから」

「ああ、榎本拓が再登校を始めたと聞いている。お前が解決したのか」

「まあ、私というか諫名だけど」

「土地神の名前をそう簡単に口に出すんじゃない」

「友達だし……」

「それがおかしいんだよ」

 神様に友達が居たって別に悪くないだろうと一縷は思ったが、口にはしなかった。

 そう言えば、来月の支給品カタログをまだ見ていなかった。世界が滅んだあと、人間には【人類貢献度ランク】というものが制定された。一縷はSランクである。そのランクに見合った支給品を取捨選択して受け取ることができる。夏だからアイスが食べたいな。


/*== ==*/


 御津藏家、静謐邸。

 天蓋付きのベッドからのろのろと起き上がった御津藏貴臣は、壁際の椅子に座っていた和装の諫名を見つめた。その眼は蒼い。

「おはよう、貴臣」

 次の瞬間、貴臣は諫名の首に手を当て壁に押し付けた。

「ねえ、おまえ、諫名ちゃんだけど諫名ちゃんじゃないね?」

 その言葉を受けて、諫名は緩慢に微笑んだ。


/*== ==*/


 ギィと足下の板が軋んだのを、内心で少し気にした。

 一縷は、年季の入った両開きのガラス窓からさしこんだ陽光に目を眇めた。

 最近、日が傾くのが早く感じる。

 まだ昼過ぎと言える時間であったが、その陽光は、羽虫を焼き殺す花火のようなまぶしさを放っていた。日の出ている時間帯は半死人状態の一縷にはまぶしい。

 ともかく。

 この部屋へと来た本来の目的を果たすべく、アルバイト勤務を再開した一条一縷は、部屋中に聳える作りつけの書棚とそこに陳列されている分厚いパイプ式ファイルの中から、紙がいっぱいに挟み込まれている二冊を選んで手に取った。

 重さがずしりと腕にくる。

 バイトを始めて八ヶ月、この重量には未だ慣れない。もとより、キーボードのボタンより重いものに滅多に触れずに暮らしていた人生だったから、こういったアナログな労働には特に免疫がないのだった。

 この胡散臭い零細職種のアルバイトを始めたのは、多少なりとも生き残った社会と接しておこうという一縷のせめてもの譲歩のようなものだった。

 何に対して?

 或いは、

 誰に対して?

 ナンセンス。馬鹿になるのはやめよう。

 自分がファイルを抱いたまま物思いに耽っていることに気がついた一縷は、臙脂色の表紙に視線を落とした。そこに糊付けされている薄いクリーム色の紙に書かれたタイトルを二つ確認し、それが自分の探していたものだと判じて、書庫を後にした。


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