おばあちゃんの親子丼
小宮 亰
おばあちゃんの親子丼
おばあちゃんの四十九日には親子丼を作ろうと決めていた。
母は俺が小さい頃に亡くなり、それから高校生になるまではおばあちゃんが母親代わりになってくれた。
仕事に忙しい父に代わって、家の事をなんでもやってくれるタフな人。小学生の頃は手伝いもしていたが、中学生にもなると反抗期が襲ったりして、今でも後悔するくらいつらくあたっていたのを覚えている。
だけど、いつだって俺はおばあちゃんがだいすきだ。
俺が小学生の時は、いつでもチャキチャキ動いて元気なおばあちゃんだった。
おばあちゃんの作る料理が大好きで、お腹が苦しくなるまで食べたものだ。体育があった日はいつもよりご飯は多め、体を壊した日も温かいおじやを丼によそって食べた。本当に体悪いんか、と驚かれもしたりして可笑しくて二人して笑い合うまでがワンセット。
おばあちゃんの料理は当たり前に和食が多い。彼女自身が作りやすいというのもあっただろうし、特に俺も嫌だとは思わなかった。
学校の給食は和食や洋食、中華なんかも出たりして色とりどりだ。確かに美味しかったし、見た目も楽しかったし、家では食べないものもあったので給食も好きではある。
でもやはり、家でおばあちゃんと食べる夕飯が一番。あたたかくて、ほっとした。
父の帰りが遅い時は二人でローテーブルを囲んだ。テレビもかかってはいたけれど、その日学校であったことを話すのに必死な俺を、おばあちゃんはニコニコしながら見ていてくれる。
買い物も良く一緒に行った。
その日に食べたいものは何かと話しながら店内を回り、おばあちゃんの手を引いてお菓子売り場に行こうものなら、それをおかずに飯を食えと脅されもした。
そんなことを言いながらも、結局はどれか一つならとカゴを俺の方へ傾けてくれる。もちろん、買ったお菓子はおかずにはならなかったので安心してほしい。
そんな風に小学生の俺の毎日は過ぎていった。
中学にあがると、周りの空気が一変したのが嫌でもわかった。
同じ小学校から来た者も多い中で、なぜか急に俺の母親がいないことへの圧が高まったのだ。友人だった者たちから俺の家庭環境の話が広がり、俺が何も言っていないのに、母親のいない可哀想な奴というレッテルが張られていた。
中でも、その大きな原因となったのは弁当。
中学校にあがると、俺の通う学校では給食ではなく弁当持参が当たり前だった。購買もありはしたが、おばあちゃんの料理が好きな俺は、迷わず弁当を持ってくることに。
それがいけなかったとは、今でも思いたくない。だとしても、その時はそう感じてしまった。
「お前の弁当やば」
一緒に昼飯を食べようと机同士をくっつけ合った中の一人が、語彙力も乏しく俺の弁当に向かって言い放つ。
何についてのヤバいなのか分からず眉間にシワを寄せると、その周りもさざ波が立つように立ち上がって覗き込んでくる。
「うわ! まっ茶色じゃん! じじいかよ!」
「マジだ、ウケるー。そっか、お前ばあちゃんしかいねぇもんな」
「ばあちゃん弁当かよ。写真撮っていい?」
喜々として人の弁当にスマートフォンを向ける男子から守るように、俺は弁当箱を手で隠した。
「おい、人の弁当撮るなよ」
「怒るなって。ぜってーウケるわコレ!」
誰に対してのウケを狙っているのか全く分からなかった。
力のなくなった俺の手を払い、写真を撮ったそいつは誰かに画像を送り付けているようだ。もしくはSNSにでも流されるのかもしれない。
信じられない思いで見つめたが、俺には何も言うことができなかった。
初めて、おばあちゃんの料理を食べられなかった日になった。
家に帰って、すぐにおばあちゃんに弁当を突き返して「明日から作らなくていいから」と声も低く呟いた。
耳の遠くなった彼女は聞き取れなかったようで、俺に聞き返す。それすらも苛立ちに変わって、少し乱暴に同じことを繰り返した。驚いたようにしていたけど、おばあちゃんは重い弁当箱を手にして突っ立ったまま。
なんだか可哀想な気持ちにもなりはしたが、今日と同じ思いはしたくない。
黙ったまま冷蔵庫を開けてジュースのペットボトルを掴む。背後からおばあちゃんの優しい声が聞こえた。
「なんか言われたのか?」
「……別に」
本当の事を言う訳にもいかず、とりあえずは濁しておくことに。
おばあちゃんの声に先程よりは少し落ち着き、キャップを開けて一口ジュースを飲む。甘ったるい味が舌の上に広がる。
弁当が茶色になるのは仕方がないとは知っていた。それは、小学校の遠足なんかでも重々承知はしていたのだ。
煮物や焼いた魚は当然のこと、前日の夕飯の残りを入れることもある。生姜焼き、牛肉とごぼうのしぐれ煮、きんぴらごぼう、鶏のから揚げ、野菜と肉の炒め物、天ぷらが余ったときは甘辛く煮付けたりもしてくれた。
その際も茶色だなんだと言われはしたが、少しおかずを分けてやると「美味しい」と言ってくれ、そうだろうと誇らしくも思ったのだ。
今回のことは、それとは全く異なる熱量だった。晒し上げて笑いを取るための囃し立て方だった。まだみんなの笑い声が耳の奥に残っている。
ぶるりと体が無意識に震える。おばあちゃんも気が付いただろうか。
「そんじゃ昼はどうすんだ」
「……自分でどうにかするよ。学校に購買もあるし」
「金はあんのか」
「父さんに相談する」
「そんでも栄養が取れなくなるんじゃないんか? まだ育ちざかりで……」
「俺が良いって言ってんだから良いって!」
つい、声が荒っぽくなる。強い口調で言われたおばあちゃんは、目を丸くして俺を見上げていた。
小学生の時は自分よりも大きかったおばあちゃんが、気が付いたら普段の視線よりも下にある。体も小さく見え、突然怒鳴られた意味がわからないという表情が、酷く心に傷をつけた。それはきっと、おばあちゃんも一緒だったに違いない。
居心地が悪くなって、俺はすぐに自分の部屋に大股で向かう。そんな気はないのに、どこか足音すらも威圧的に聞こえてきた。自分のものなのに制御がきかないようだ。
それでも、昼を食べていないので夜になれば腹が空き、普段と同じように食卓に着く自分が嫌になる。あれだけの事を言っておいて、結局一人では何もできないのだと思い知らされ、学校での友人の言葉との狭間でどうすることもできない思いを抱え続けた。
その日のおばあちゃんの夕飯は、俺の昼飯になるはずの弁当だったことも、ハッキリと覚えている。
その日から長い間、おばあちゃんと話さなかった。
以前は一緒に食事をとる時、あれやこれやと全てを報告していたのに、テレビの音だけが部屋を満たす。時折おばあちゃんの食事をする音が聞こえ、食器の触れ合う高い音が空気を震わせる。音はあるのに、しんとした雰囲気が喉に閊えるようで、ご飯をかき込んで腹を膨らませるとすぐに席を立った。
買い物なんてもってのほか。一緒に歩いているところなど見られたくない。
お昼も父から一週間分のお小遣い代わりにお金を貰い、購買で買うようになった。できるだけ最小限にお金を使うようにして、少しでも出費を抑えるようにする。クラスメイトには、もう弁当は持ってこないのかとからかわれたが、適当に頷いておいた。
食事をすることが、事務的になっていくのがわかった。
そんなふうに感じたその日は体育で長距離走、部活でも体を動かした帰り。
一日の終わりのハードな運動はとてもお腹がすく。昼飯の量も少ないので、夕飯のことばかり考えていた。
足早に家に帰りつき、玄関を開けて靴を脱ぎ捨てる。
ふわりと、柔らかな出汁の香りが漂った。
すきっ腹には暴力的な匂い。ぐるる……と小さな獣の唸り声を腹が上げた。
ふらふらと部屋に上がり、キッチンに立つおばあちゃんの後ろ姿を見た時、久しぶりに自ら声をかけてしまった。
「ただいま」
「おかえり」
いつもなら、帰ってきて無言のまま自室へ逃げ込み、夕飯まで顔も合わせない。だというのに、今までのことがなかったかのように、おばあちゃんは迎えてくれた。
フライパンからあがる湯気にあたったからか、頬が熱くなる。低い位置から聞こえたしゃがれた声に、鼻の奥がつんとした。それを押し隠して、鼻先を指でかきながら尋ねる。
「今日の夕飯何?」
「親子丼」
「……いいね」
色味の少ない丼物に胸が躍った。
大きなフライパンに一口大に切られた鶏肉が並び、くつくつと煮詰められ、甘い出汁と醤油の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
しわしわの手がフライパンを軽く揺らして、溶き卵を半分ほどフライパンに流し入れる。弱火でじっくりと煮詰められ、湯気に乗って美味しい香りが俺たちを包んだ。
じわじわと固まっていく卵を追いかけるように、残っていた半量の溶き卵を入れる。
すぐに火を止めて三つ葉を少量。余熱で温めつつ、おばあちゃんは体ごと俺に顔を向けた。
「ご飯よそいな」
「……うん」
声に背中を押され、伏せて置かれていた丼を取って炊飯器を開けた。甘い米の香りが立ち上る中、しゃもじでご飯を掬う。粒の立った白米は一つ一つ輝いていた。
おばあちゃんの分も少なめにご飯をよそい、丼を手渡す。水分の少ないかさついた手が、俺の指に触れた。
ふわふわの卵を俺の方の丼へ多めに移す。
優しい黄色がふんわりとご飯を覆う。
返された丼に目が吸い寄せられた。
綺麗な色に彩られた丼ではない。鶏肉と玉ねぎを卵で閉じ込めただけの親子丼。
けれど、どんなご馳走よりも心が落ち着いた。
手の中でじんわりとあたたかい、俺の家の味。
『おばあちゃんの親子丼』
「腹減ったろう。早う座って食いな」
「……うん」
言われるがままに、俺はおばあちゃんと向かい合ってローテーブルにつく。小学生の、あの頃を思い出した。
今日あったことをおばあちゃんに話して、美味しい美味しいと夕飯を食べていたあの時を。
目の前の光景と重なり、小さく震える手でスプーンを取って「いただきます」と両手を合わせた。
ほくりとスプーンでご飯を掬い上げる。
口に入れると、出来上がったばかりの幸せな熱さが広がった。俺のだいすきな、おばあちゃんの料理だ。
じんわりと瞼が熱くなる。泣いているなんて知られたらと思うと恥ずかしくて、俺はぐっと我慢。
目の前に座るおばあちゃんも、同じように食べ始めていて、少ない量のご飯をちょっとずつ食べている。なんだか可愛らしく見え、俺は目を擦って思わず微笑んだ。
「この鶏肉はねぇ、近くのスーパーで買ったんだよ」
唐突に話し始めたおばあちゃんに、俺はスプーンを握ったまま顔を上げた。
スプーンの先でご飯をつつきながら、おばあちゃんは言葉の先を続ける。
「卵は近所で貰ったやつ。そんでも、同じフライパンで料理しちゃえば親子丼」
……何を当たり前のことを、と俺は思う。
鶏肉と卵で親子丼なのは当然のこと。きっと、鮭といくらで作ったとしても親子丼だと俺は言う。
眉を顰めておばあちゃんを見ていたが、普段通りの穏やかな表情を崩さずに、彼女は手を止めて俺と目を合わせた。
シワに埋もれた、小さくて優しい目がこちらを見据える。
「アンタのことはアタシが腹痛めて産んだわけじゃない。だけんど、同じ家で暮らしてる。そんなら親子」
体が熱を持つ。
頬がじんわりとあたたかくなって、鼻先がかゆくなる。
自分でもなんとなくわかっていたのだ。
茶色い弁当をからかわれたことよりも、おばあちゃんの弁当だと言われたことがつらかったのだと。
小学生時にも気にしなかったといえば嘘になる。学校での行事など父は仕事が常。おばあちゃんが来るには重労働。授業参観も、運動会も、合唱祭も……。
休みを取って父が見に来てくれることもあったが、みんなにいる母が羨ましかった。
色鮮やかな弁当も、綺麗な服を来ている姿も、厳しくも優しい声も。
でも、俺はおばあちゃんがだいすきなのだ。
俺のことを一番に考えてくれるおばあちゃんが。
それをバカにされた気がした中学生時代。
弁当のことも、母親がいないことも、全ておばあちゃんに当たってしまった。
最低だとわかっていた。自分の感情も行動も、コントロールできないことが情けなかった。
それすら受けとめてくれていたおばあちゃんは、紛れもなく俺にとっての母だ。
堰き止めていた涙が一気に溢れた。
声を抑えているせいで、喉の奥がヒリついて痛い。スプーンを持ったままボロボロと泣き出した俺を、おばあちゃんは目を細めて見つめ、掠れた声で笑っう。
「おや、泣くほど美味かったか」
懐かしい思い出に身を浸していた俺は、すんと鼻を啜った。あの瞬間の笑顔は忘れない。
あれから、昼飯用の弁当を再開した。
囃し立てる奴らには言わせておいて、俺はおばあちゃんの愛情の篭った茶色い弁当を食べた。すぐ売り切れる購買の人気パンより、どんなに高いコンビニ弁当より、俺の為に作られた弁当が一番美味しい。
堂々と弁当を広げる俺を、日が経つにつれて誰も気にかけなくなっていった。
時を同じくして、おばあちゃんの味を自分でも作れるようにと料理を教えて貰った。今でも満足のいく味にはならないけれど、父は美味しいと言って食べてくれる。
今日は夕飯を一緒に食べることは出来なさそうだが、後で作ってあげることにしよう。
高校を卒業するまで、おばあちゃんは待てなかった。細くなっていくおばあちゃんを見ているのは悲しかったが、最後まで料理の話をたくさんした。
おばあちゃんの味は最高だと、伝えられた。
そしてそれを、俺も引き継いでいく。
小さなフライパンから、丼に入った白米の上へと卵を滑らせる。二度に分け入れた卵がとろりと光り、鶏肉は低温でじっくりと煮立てたので柔らかい。
昔はかけられなかった山椒をふって、温かい丼を手にローテーブルにつく。
目の前には小さな写真立てがあり、中にはおばあちゃんの写真。
今日も話したいことがたくさんある。
手を合わせて、数瞬目を閉じた。
「いただきます」
おばあちゃんの親子丼 小宮 亰 @bibliophilia
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