世界の狭間で今日、また生きる

那菜里 慈歌

第1話 イティム(忌み子)

帳が落ちた世界。空に輝くのは、鉱夫さん達が掘り出した宝石の小川と、3つ…大きな大きな、赤と黄色と青の美味しそうな果物…

あの全てを差し出せば、自分という存在は許されるだろうか。



少女は走りながら天を見上げ、絵本の世界を見るように考えていた。足の裏を草地がくすぐり、風がボボボと音を立てながら耳のすぐ脇を通り過ぎてゆく。辺り一帯は向かい風だった。今、少女は夢を見ている心地だった。


実は空にあったものは、気が遠くなるほど遠くの恒星、惑星と、三つの衛星なのだが、今の少女に知る由はない。頭上に輝く「それら」を掴もうと、右の手を伸ばした。もう少しで掴めそうで、足が止まりかける。その刹那、もう片方の手をグイッと強く引っ張られた。


『何してるの、止まっちゃダメよ!ちゃんと走らなきゃ捕まってしまうわ…!』


手を引いた主はそう囁く。声の発せられた方を見ると、特徴的なネックレスが三色の月の光を怪しく反射させていた。

声の主は少女の母親だった。母親の決死の表情を見た少女は、今自分が置かれている身の事を思い出した。

「自分たちは何かから逃げている」

考え出した途端に、お腹の下あたりがキュッと縮こまるような感覚がした。

少女は空で、はち切れんばかりに自己主張を続ける輝くそれらを、恨めしそうに見上げた。




少女と母親は獣人だ。

母親はチパル(狼に似た生き物)系の獣人だった。大きく凛と立っている母の耳と、フサフサの尾が少女は大好きだった。母親が洗濯物を干している時等に、後ろから忍び寄り『ママ』と呼ぶと、耳がクリンと動いてから『なぁに?』と返事をしてくれるのだ。そして嬉しくなって抱き着くと、フサフサの尾がゆったりと、振り子時計の振り子の様に揺れ始めるのだ。その尾が頬に触れる、ふわふわした感覚が、くすぐったく感じるが母親の象徴のひとつだった。

少女は母親にとても似ていたが、母親の凛とした耳と違い、少女の耳は不機嫌な時の母親の耳のように、横に倒れた状態で生えていた。他にも、額の上部と両耳の間辺りに、小指の先より小さな角のような物が、ちょこんと生えていたりした。また食事の時、母親の口から覗く牙は、少女が持つ物とは形が違っていた。


『どうしてわたしはママと違うの?』


と聞くと、母親はいつも少し寂しそうに


『あなたのママと違うところは、全部パパにそっくりなのよ』


そう答えた。ここで『パパはどこ?』と聞くと、さらに寂しそうな顔をするため、少女はそれ以来、自分の父親の事を聞かないようにしていた。



森の奥深く、素人が作ったような粗末な家に、少女と母親は二人暮しをしていた。

小さな畑で少しの野菜を作り、足りない分は母親が集めてきた。肉は森に住む動物達の物を食し、外界との関わりは最小限、全て母親が行うのみだった。

少女の遊びはひとり遊びがほとんどで、たまに母親とかけっこや、おままごとをするくらいだった。

少女はかけっこが大好きだった。母親と遊べる時間、と言うのもあるが、走る事自体が得意だと、少女自身も自負していた。母親はその脚の良さを『シヴノーヴァル様からの贈り物』と言った。

シヴノーヴァル様とは、少女達が暮らす世界を作った神様として、この世界の信仰対象だった。神話を子供向けに分かりやすく描いた絵本を、少女は好んで読んでいたため、「神様から貰った足」と言うのは、とても誇らしい思いだった。

少女の持つ絵本の中には、神話の他に、この世界に生きる種族についてを綴(つづ)った絵本もあった。この絵本で、少女は自分が獣人である、という事を知った。この本には他にも各獣人の種族や、人間、竜など、この世界に生きる種族から幻獣までが、大きな絵と少しの説明文で記されていた。少女は森の外に、どれだけ大きな世界がこうこうと広がっているのだろうと、想像を膨らませながら夜の眠りにつく。それも少女の楽しみだった。


そんな日常の一方で、少女は、自分はこの世界(と言っても少女の知る世界は極々狭いが)では「普通ではない存在」という事をやんわりと理解していた。

いつも母親は、家が見えなくなるほど遠くへ行ってはいけないと、耳が痛くなるほどきつく少女に注意をしていた。少女は自宅の周辺以外を全く知ること無く育ったのだ。

また、必要最低限の稼ぎと食料を得るために、母親は町へおりる時があったが、家に帰ってくる時はいつも嫌な匂いを下げて帰ってきた。

嫌な匂いと言うのは、単に「くさい」という意味ではない。少女は感情やその残渣のようなものを、匂いで感じる事が出来た。

いい感情は、ふんわりとした匂い。

いやな感情は、つんつんした匂い。

好き、楽しい、寂しい、悲しい、怒りという単純な感情なら、間違いなく嗅ぎ分けられる。幼さゆえその程度ではあるが、それらを認識できた少女は、母親が町でなにか嫌な思いをしてきたという事を、じんわりと感じていた。

母親の自分を匿うような育て方、母親が町で浴びせられているであろう嫌な感情の数々。それらを合わせて考えて、「自分達、特に自分は、他人に見せられない普通じゃない存在」と認識するに至っていた。




『お家を出て、どこに行くの?ママ』

『どこへかしらね…ママと2人だけで過ごせる場所かしらね。出来るだけ遠くへ、早くここから逃げないと…』


少女は夕方頃、母親と交わした会話を思い出していた。必要最小限の荷物をカバンに詰め込んで、家を飛び出したきりで今に至る。

お気に入りの絵本やぬいぐるみは、カバンに入らないからと置いてきてしまった。

全てを、あの家に残してきてしまった。森で拾った綺麗な石も、母親が布の切れ端で作ってくれたぬいぐるみも、母親がこっそり買い与えてくれた数冊の古い絵本も、全て。

世界の狭い少女にとって、それらは母親の次に大切な物たちだった。出来るならば取りに戻りたい。それに家を出たきり走るか早歩きのままで、神の脚と言えど幼い少女の体力は限界に近づいていた。


『ママ、やっぱり絵本と……?』


絵本とぬいぐるみを取りに戻りたい。そう言いかけて口を噤んだ。後ろから誰か大人数の声と共に、嫌な匂いが流れてきた。いつの間にか少女達を吹き付ける風は、追い風になっていたらしい。まだかなり遠くだろうが、何かが自分たちの逃走の痕跡を、厭(いや)らしくも嗅ぎつけ追いかけてきている。そう少女は理解した。


『ママ、嫌な匂いする…後ろの方…』


それを聞いた母親の顔が、一気に恐れの表情に変わった。一瞬立ち止まるや否や、少女を赤子のように抱きかかえて、再び走り出した。


⦅そんなに早く走ったらすぐ疲れちゃうよ⦆


そう少女は思ったが、母親はスピードを落とさずに全力で駆けていた。次第に母親の息切れの音が、すぐ耳元で聴こえ始めた。見上げると、とても苦しそうな表情をしている。


『ママ……』

『大丈夫よ…大丈夫…だから…帽子を…深く…被りなさい…!』


少女は促されるまま、上着から繋がる帽子の裾を、ギュッと両手で握りしめ、深く頭にかぶせた。得体の知れない不安感に、蓋をしてしまうように…

だが少ないとはいえ、多少の荷物と子を抱きかかえ走るには、母親の体力では限界だった。次第に走る速度が明らかに落ちてゆく。しかし、家を出てからずっと歩くか走るかの状態で、メートル法にして約70km地点まで辿り着いていたのだから、大健闘と言えるだろう。

それだけ移動しても、追っ手の追跡が止むことは無いらしい。母親の速度が落ちるにつれ、嫌な匂いが段々と濃くなっていくのだ。


『ママ…自分で走る…ママ、もういっぱい疲れた…でしょ?』


すると母親は、少女をさらに強く抱き寄せた。


『だい………じょうぶよ……………もう少し……………ママに…あなたを………抱っこ…………させて………』


母親はかなり苦しそうだったが、それでもなお愛おしそうに、少女を抱きしめて走っていた。母親は何かを悟っていたのかもしれない。

一方で少女は焦っていた。このままでは、嫌な匂いの主が追いついてしまう。ここは草原のど真ん中で、身を隠せる場所など無いに等しい。それなのに母親の体力の限界は明白だ。母親がここまで必死で逃げるほど、自分達にとって悪い存在がすぐ、そこまで迫っているのに。


⦅もし……⦆

もし本当に、シヴノーヴァルという神様が居るのなら、なぜ自分たちはこの様な仕打ちを受けなければいけないのか。自分達がなにか悪いことをしたのなら、ちゃんと教えて欲しい。そう少女は願った。母親の腕の中で、強く強く願った。だが当然、返事など来るはずがない。


⦅シヴノーヴァル様…お空にいらっしゃるのなら…どうか助けてください…ママが…苦しそうです…シヴノーヴァル様…⦆


胸元で強く強く指を絡ませ手を組み、それを額につけ希(こいねが)った。力を入れすぎているのか、追われている恐怖からなのか、手の震えが止まらなかった。頭上で星がひとつ、強く瞬(またた)いたように見えた。




『匂いが濃くなった!イティム(忌み子)と母親は近いぞ!!探せ!!!』


そんな怒号が、草原後方から響いてきた。大人数の草地を踏み歩く雑多も、ハッキリと聞こえ始めた。後ろから漂っていただけの嫌な匂いが、少女たちの周りまでを激しく汚染し始めていた。

…自分達二人を追うために、一体何人動いているのだろうと少女は思った。

不公平ではないか。二対大勢など敵(かな)うはずが無い。少女はまだ姿の見えない後方の団体を、恨みを込めて強く睨んだ。


『グァァ!!??!』


嫌な匂いを切り裂くように、苦しそうな叫び声が鋭く聞こえた。時間差で鉄臭い匂いが漂い始め、後方からどよめきが響いてきた。


『なんだ!?』

『一人やられた!遠距離攻撃か!?』

『イティム(忌み子)だ!魔力を感じるぞ!』

『あぁ、イティムよ!イティムだわ!きっと近くから、私達を狙っているのよ!』

『お、俺たち殺されるのか?だから俺は、イティムなんぞに近づくのは、御免だったんだ!』

『早くイティムを見つけて殺さないと、犠牲者が増えるぞ!』

『あの森の女…ただでさえ穢れた血なのに、さらに穢れた血と交わり、子を為して居たなど…コフゴ(この国の名)の恥だ』

『女も殺せ!忌み子も真っ先に殺せ!』


そんな内容の怒号や叫び声が、大気を震わせていた。

「イティム」とは自分の事だろうか。なにか後方の団体にしてしまったのだろうか。どういった意味を指す言葉なのだろうか。そんなことを考え始めた時、『きゃ!』という声の後に、少女の体が地面へと叩きつけられた。母親が派手に転んだのだ。

打ち付けた部分の痛みをこらえ、母親の方を見上げると、苦しそうに全身で息をしていた。もう限界なのだと、少女は悟った。


『ママ…もう無理だよ…ごめんなさいして、許してもらおうよ…』


返事はない。激しく咳き込むように、でもなるべく音を立てずに、なおも全身で息をしている。首元では、ネックレスが激しく揺さぶられ、チャリチャリと音を立てていた。その姿を見た少女は胸がちくりと傷んだ。

母親は、今の自分達の運命を受け入れきれずに、生き延びる道を模索していた。だがどう考えても、二人揃って生き延びられる可能性は、ゼロに等しかった。母親は自分を覗き込んでいる幼子の顔を見た。今にも泣き出しそうな、不安げな表情を浮かべていた。その表情を見た時、母親は、心臓がすん…と冷えたように感じた。たとえ我が子がイティム(忌み子)だとしても、愛する子を死なせる訳にはいかない。母親は少女を諭すように、ゆっくり語りかけた。


『…聞きなさい…例えあなた一人になっても、走り続けるのよ…あなたは…あなたのその脚は…シヴノーヴァル様から賜(たまわ)った…強い脚よ…きっと逃げ切れるわ…ここまで来れたんだもの……』


母親は言葉を区切り、首からネックレスを外した。竜を象ったような、不思議な形のネックレス。母親が常に身につけていた、母親の宝物だ。


『これを…持っていきなさい…他の大人は、忌み嫌うけど…伝説の竜族、ミスヴァルは…とても強い力を、持った方々なのよ……きっとあなたを…守ってくれるわ…』

『い、嫌…!』


少女は本能的に察した。このネックレスを受け取ってしまったら、もう、母親とは一生会えないのではないかと。


『これは、ママのだもん…ママが持ってて、一緒に生きて逃げるんだもん…そんなこと、言わないでよママ…一緒に行こうよ…体を低くして、隠れてたら、きっと見つからないよ…だから…ママ…』


喋ってる途中でポロポロと涙が零れ始めた。しゃくりながらも、何とか言葉を繋げた。母親が居ない世界で逃げ続けるなんて、自分には無理だ。母親を捨てるくらいなら、自分はずっと一緒にいる。そう確固たる意志を持って、母親を慰(なぐさ)めようとした。でも少女も分かってしまっていた。こんな丈の低い草原では、隠れてもすぐに見つかってしまうだろうと。それでも、嘘をついてでも母親と逃げたい。見捨てられない。そう考えていた。


『あのね…ママは足を、酷く怪我してしまったわ…もう早く走れない…お願いだから…わがまま言わないで…ママの…一生のお願い……』


半ば強引に、ネックレスを手渡された。少女は、受け取ったネックレスを、両手で握りしめながら、ボロボロと、大粒の涙をこぼした。

そう、母親は転んだ時に、少しでも我が子を庇うために、膝を思い切り地面へと打ち付け擦(こす)る形になり、膝の皿を割ってしまっていた。毛皮が砂や砂利によりズタズタにすりおろされ、酷く出血していた。遅くなっていたとはいえ、チパル(狼に似た生き物)系獣人の全速力は50~60km/h程に及ぶ。その中少女が無傷で済んだのは、母親が足を犠牲にしたお陰だった。少女も母親の血の匂いで、怪我をしていることは理解していた。嗚咽混じりに言葉を紡いだ。


『やだ…やだよぅ…ママとバイバイしたくないよぅ…』


少女は倒れ込んだままの母親に、覆い被さるように抱きついた。服をぎゅうっと握りしめ、絶対に離さないと意志を示した。


『ママとバイバイするくらいなら、私も居なくなった方がいいもん…!』


自分のために必死な娘の姿を見て、母親も涙を零しかけていた。だが泣いてる暇など無い。もう、すぐそこまで、奴らは迫っている。


『お願いよセレン…言う事を聞いて…!』

『やだ!!!』

『おいこっちだ!!!声がしたぞ!!!』


ああ、遂に見つかってしまった。大声を出したせいだろうか。無慈悲にも、後方の団体は迫ってくる。


『セレン早く逃げて!行くのよ!!!』

『嫌!!!離さないもん!!』


大勢の乱れた足音がどんどん近づいてくる。


『見つけたぞこのクソアマ!!』

『私はどうなってもいい!娘には手を出さないで!!』


あっという間に、松明と毛皮の群れに囲まれる。少女達を追いかけていたのは、少女達と同じ獣人だったのだ。イバン(虎のような生き物)の獣人に、少女は物を扱うが如(ごと)く乱暴に、母親から引き剥がされた。服の襟首を持たれ、吊るされている状態だった。


『いやっ!!ママァ!ママァ!!!』

『どうかお願いします!娘だけは助けて!!手をかけないで!!』


獣の波に飲まれ、どんどん母子が、引き離されてゆく。

「殺せ」「穢れる」「イティムめ」そんな意味の怒号が飛び交う。獣の濃厚な臭いと、鼻を刺激する「嫌な匂い」にむせ返りそうだ。少女は思わず鼻を抑えた。自分を掴んでるイバン獣人が、牙をぬらりと覗かせながら言葉を発した。


『おいイティムゥ。帽子をかぶり顔を隠しても、俺たちゃ分かってんだぜ?四種族以上の混血だろ。ったくあのアバズレも、てめぇがこうなる未来を分かってて孕んだってぇわけだ。てめぇ個人に恨みはねぇが、災いを防ぐためだ。大人しく俺たちに殺されな。後で「ママ」も同じとこ、送ってやるからよォ』


このイバン(トラ)が何を言っているのか、半分以上は理解出来ていなかった。ただ一つ確かなのは、自分達が殺されるという事だった。思わず母親のネックレスを、強く握りしめる。尖った部分が手のひらの皮膚を突き刺し、血が滲み始めた。少し離れたところから、大人達の怒鳴り声と母親の叫び声が、嫌という程響いてきていた。誰かが苛立たしげに、ブルルルと鼻を鳴らした。


『嫌!嫌だ!!わたし何も、悪いことしてない!!』

『てめぇの存在自体が罪なんだよォ。混ざりあった種族の血は、えげつねぇ質の魔力を蓄えるからな…』


イバン獣人が、小刀を腰の鞘から抜いた。松明の灯りに照らされ、ゆらゆらと怪しく、ギラついている。小刀がスローモーションかという程、ゆっくりと少女の喉元へ運ばれる。


『や、やだ!痛いのやだ!ママ居なくなるのもやだ!何もしてない!何もしてない!』

『あぁ?ざけんなよクソガキ。てぇいうかそもそも、てめぇのせいでさっき一人やられてンだよ。腕から急に血を吹き出したらしいぜ。怖ぇったらありゃしねぇなァオイ』


小刀の峰を、少女の顎の下ですりすりと、厭(いや)らしく滑らせる。


『おうおう。つまりてめぇには、仇(かたき)を打たなきゃ、行けねぇって事になるなぁ』


小刀の切っ先を、ゆっくりと少女の喉元に当てがった。


『という訳で死にな。来世は普通の体に生まれるといいなァ。流石の俺も同情するぜ。なぁ?イティム』


喉元にじわじわと、異物が入り込んでくる。

毛皮を貫通した感覚と、鮮烈な痛みが少女を襲った。世界の全てが、ゆっくりになった様に少女は感じた。


『おいみんなぁ!イティムの最後だぞォ!しっかり見届けて、シヴノーヴァル様に届けてやらねぇとなぁ!!』


大人達の雄叫びが大気を震わせる。だがそれは、少女の耳には届いていなかった。

イバン獣人は、少女を掴んでる腕を高く掲げた。喉元に軽く突き立てた小刀はそのままに。まるで逃がさないという、意思を表しているようだった。

その時、遠くで女性の叫び声が一際強く大気を震わせた。少女の母親の声だった。一拍空けて歓声が上がる。少女は声のした方角を見た。首を動かしたことにより、小刀が若干強く刺さったが、振り向くのをやめられなかった。苦痛で歪んだ少女の目に映ったのは、飛び散る鮮血と、髪を掴まれ高く持ち上げられた、母親の生首だった。その母親の顔は、酷く苦痛に歪み、涙を流していた。


『マ、マ…?』


母親の切り離された頭部。母親は死んだ。死んだのだ。もう呼びかけても、あの耳がくるんと動くことはもう無い。母親の血の匂いが、大気を一気に占領した。『次はガキだ!殺せ!』という声も響いてくる。だがそれらの音は、分厚い布を通して、聞いているかのようだった。喉にじんわりと、深く小刀が刺されていく。


⦅死にたくない。でもママが死んだ…ママが泣いてる…わたしも死ぬ…やだ…やだ…やだ、やだやだやだ⦆


少女は体の底から、熱いものが、込み上げて来るのを感じた。まるで、身の内を炎で焼かれていると錯覚するほどの、強烈な熱さだ。あまりの熱さに、呼吸が止まりそうだった。少女は、その熱を意識の中で一瞬、泥団子を作るように固く小さく丸め、蓋をした。そして強く目を瞑り、言葉と共にそれを放出した。


『いやだ!!!!!!!!!!!!!』


途端に爆風のような物が、少女を中心に放たれた。少女を持ち上げていたイバン獣人も、近くで槍を掲げていた獣人達も、遠くで母親を取り囲んでいた獣人達も、少女から半径10mほど外側に吹き飛ばされた。少女は吹き飛ばされなかったが、持ち上げてた獣人が飛ばされたことにより、重力と共に地面に落ちた。喉の傷を手で押え、恐る恐ると目を開けると、そこに広がっていたのは惨状だった。

一番近くにいたイバン獣人は、骨格的に手足がありえない方向を向いており、全身から血を吹きながら倒れていて、ピクリとも動かなかった。頭部は大きく醜(みにく)く潰れており、恐らく即死だったのだろう。他の獣人達も、骨折や流血による苦痛に、悲痛な呻き声を上げていた。


⦅?…!?⦆


少女は何が起きたのか理解できなかった。

確かに自分は、体の中の熱いものを強く放出するように叫んだ。だがそんなものは意識下の話で、こんな大事になるなど思いもしていなかった。ただ、大声を上げたかっただけ…それなのにこうなってしまった。力が抜けて、握りしめていた母親の形見のネックレスを、ポトリと地面に落としてしまった。どこか自分の中の遠くで、冷静ななにかが「お前がやったんだ」と繰り返し叫んでいる。だが少女の頭は、それを理解するのを拒んでいるかのようだった。それでもその言葉は、少女の脳裏にガンガンと響いていた。

風が吹き抜け、様々な嫌な匂いが、少女の体をねっとりと撫(な)で付けていた。自分がなぜ存在してはいけないのか、なぜイティムと呼ばれたのか。少女は分かってしまったような気がした。自分が何を起こしたかは分からない。でも目の前の光景が、それをありありと証明していた。


『い、イティムの魔力だ…腕が…腕が…!』

『あ、あいつが次に、なにか起こす前に殺せ!!』

『嫌!もう近づきたくも無いわ!息子が…息子が…!』


獣人達の多くは、少女へ近づくことを激しく拒んだ。だが一部の者は、余計に激情したようだった。仲間の仇を取らんと、再(ふたた)び武器を構えていた。その中で一人、ずんずんと少女に近づく者がいた。立派なたてがみを携(たずさ)えた、スィバ(獅子のような生き物)の獣人だった。


『よくも……よくも親父を殺ってくれたなクソガキが!!!』


勢いよく少女の喉を掴み乱暴に持ち上げた。スィバ獣人の鋭い爪が、首に強く食い込んだ。少女は掴まれている苦しさと痛みにより、息が出来なく喘いでいた。

スィバの獣人は剣を構えた。ゆらゆらと、少女のこめかみに照準が合わされてゆく。


『親父の仇だ!!死ね!!!』


スィバ獣人が剣をかまえ終わり、少女へ突き刺そうとするまでのその刹那に、少女はそこにいるか分かりもしない神へ、心で語りかけた。


⦅シヴノーヴァル様…これはみんなを、いっぱい怪我させた、私への罰ですか…ママを助けられなかった、罰ですか…生まれてきてしまった、罰ですか…⦆


頭上の星のひとつが、大きく二回瞬(またた)いたような気がした。スィバ獣人の刃が、すぐそこまで迫ってきていた。今の少女には、世界の全てが今もなおスローモーションだった。彼の刃(やいば)が自分に届くまでが、とても長く感じていた。殺すなら早く殺して欲しい…そう願おうとした刹那、頭上から閃光が、雷鳴と共に降ってきた。雷に打たれたのだと認識した頃には、少女の身体は光の塊に包まれていた。そこに、先程まで自分を殺そうとしていた、血走った獣人達は居なかった。少女は光の柱と共に、草原から姿を消した。




少女は何も無い、白いモヤのようなものが満ちた空間に浮いていた。上下左右の感覚が麻痺しており、雲の中のようだと思った。


⦅ここは死んだあとの世界…?⦆


光の中で、少女はぼんやりと考えていた。あの自分のこめかみを狙っていた刃(やいば)が、自分に刺さったかは正直覚えていない。だがここは草原ではない。土草の匂いも、血の匂いも、獣臭も、「嫌な匂い」も全くしない。


⦅なんの匂いもしない…変な感じ…あの世って何も無いんだ…⦆


そんなことを、手の傷を見ながらぼんやりと考えていた時だった。急に様々な情報が、少女の脳を駆け巡った。小さな窓枠を吹き抜ける風のように、絶えずとめどなく、その窓枠を壊さんが勢いで、轟々(ごうごう)と流れてゆく。自分が見てる光景ではなく、誰か別の人の視点のような映像が、一つ、三つ、九つ、七つ、百、と不規則な量で通り過ぎてゆく。揺られる鉄の箱の中で、本を読んでる視点かと思ったら、次の瞬間には、赤子をあやしている視点と、草原の草を食む生物の視点が、合わさって流れてくる。視界だけでは無かった。聞こえる音も、鼻を刺激する匂いも、思考や思いも、一人称で感じていたものとはかけ離れていた。情報の嵐が、襲ってきたようなものだった。少女はあまりの情報量に耐えきれず、嘔吐した。胃液しか出てこないが、それでも何かが込み上げてくる。目を閉じ、耳を塞ぎ、呼吸を止めた。それでも情報の嵐は、肉に食らいつくピラニアのように、容赦なく少女を襲う。いつしか少女は、その暴力的な衝撃に耐えきれずに、気を失うのだった。



___________________


………………………


「………い…」

「…こ……倒れて……」

「…い、おーい!…お、意識が戻ったようです。でも一応救急車を…」


少女は聞き覚えのない言語を発する人々に、揺すぶり叩き起こされた。空は薄暗く見え、所々に四角い星がぼんやりと浮いていた。体の調子といえば、あちらこちらにずしりと重りを乗せられているような、嫌な疲労感に襲われていた。胃を握り締められて居るような、暴力的な吐き気もまだ続いていた。自分を取り囲んでいる人影達は、絶えず体を揺すってきていた。それに耐えきれなかった少女は、血液混じりの胃液を吐き出した。


「わ、吐いた。大丈夫かい?血が混じってるじゃないか」

「…はいそうです。子供が雷に打たれたみたいで…はい、意識は今戻りました…はい…」

「見慣れない服だな…外国の子か?」

「君、言葉わかる?ママは?」

「手も顔も、毛に覆われて…多毛症か、何かか?」


少女の視界は、まだぼやけたままだった。よく見えないし、この生物達が何を喋っているのか、さっぱり理解出来なかった。初めて耳にする音の羅列。不安になった少女は、母親を呼ぼうと声を絞り出した。


「ラナ…」

「らな??おなかがいたいの?」


やはり通じない。返事を返してくれる母親も…

そこまで考えた少女は、気を失う前の、熱にうなされた日に見る悪夢のような、残忍な光景を鮮明に思い出した。自分は殺されかけて、母親は首を…


「ラナ!ラナ イロ!!(ママ、ママどこ)」


叫ぶと同時に、飛び起きた。少女を取り囲んでいた景色が、急激にはっきりと少女の目に映った。

話しかけてきていた人影は人間で、自分が横たわっていたのは黒い石の粒を合わせたような、黒光りする地面。道と思われる場所を、ごうごう、と騒音を起(た)てながら走るカラフルな塊や、巨大な箱の塊。森の木々より密集してそびえ立つ、石や反射する素材で建てられた、光る塔の数々。

魔窟だ…そう少女は思った。こんな世界、見た事も聞いた事も、想像したことも無い。ここは地獄で、人間の魔窟なのだと想像した。

恐怖のあまり震えが止まらない…震えのあまり、被っていた帽子がずり落ちてしまった。少女の容姿が顕になった。


「なんだ?動物のコスプレ?」

「ヤベー‪ガチのケモコスじゃん。完成度やば」


最初に少女を取り囲んでいた人達より、外側に立っていた人々が、板のような物を構え、少女に大量の光を何度も浴びせ始めた。


「ルガナィ!イルム ヘクス!ラナ!!(やめて、誰か助けて、ママ)」


帽子を深く被り直し、母親の助けを呼んだ。だがそれに対し、少女の理解できる言語での、返答は得られなかった。


「チッ…フード被るなよ…」

「やめないか!相手は子供だぞ!君、大丈夫かい?」


最初に少女の体をしきりに揺さぶっていた人が、ゆっくり手を伸ばしてきた。その映像が、イバン獣人が自分を母親から引き剥がした時の光景と、合わさって見えてしまい、さらに恐怖の底に落とされた。


「ヌ、ヌガ!!(やだ)」


差し伸べられた手を振り払い、少女は群衆から逃げ出した。その刹那、叫び声が聞こえた気がしたが、少女は振り向かずに、人々の足の隙間をすり抜け、囲われていた場所から抜け出した。裸足に石粒の黒い地面では、肉球がジクジクと少し痛いが、そんなことを言っていてはまた捕まる。そう恐怖した少女は、痛みに構わず走り出した。

何人か追ってきていたが、少女に追いつける者はいなかった。少女は隣を走る、カラフルな箱とほぼ同じ速度で走っていた。すれ違う人間達がみな振り向き、走る少女を見ていた。その視線から逃げ出したい一心で、魔窟のような塔の森とは、反対の方へ向かった。



十数分走ったところで、人間達はほとんど見なくなった。だが相変わらず、カラフルな箱と巨大な箱は、ごうごうと隣を走っている。道の端には柵が立っていた。柵の隙間から道の下を見ると、そこそこ大きい川がざぶざぶと、走る箱に負けぬ音を立てて流れていた。


⦅道の下に川があったなんて…⦆


人間の文明は大したものだと、少女は幼いながらに感心した。だが今はとりあえず、身を隠さなければならない。大きな道から逸れ、川の方へ歩くと、道の下と川岸の隙間に、隠れられそうな暗がりを見つけた。少女はそこに身を寄せることにした。


相変わらず頭上では、鉄の箱たちが飽きもせずに、大きな騒音を立てながら走っていた。ここは風がよく通り抜け、すこし肌寒く感じた。少女はぼーっと、川の流れに反射する街明かりを見ていた。川の上をまたぐ道の名前は橋。絵本でそう読んだ事を思い出していた。だがこの橋は、絵本で見た丸太の橋とはまるで違っていた。恐らく材質は鉄で、触るとひんやり冷たかった。

温もりを一切放たず、絶えず行き来する鉄の箱を支える橋を撫でりながら、少女はぼんやりと母親の最後の温もりを思い出していた。


何もかもが突然だった。いや、正しくは予兆はそこかしこに、散りばめられていたのかもしれない。だが少女自身、きっと何かがどうにかなって、二人とも助かるのだと、無意識に甘えていた部分があった。しかし現実は非常で、お別れや心の準備も出来ないまま、永遠に会えなくなってしまった。苦痛に歪み、涙を零していた母親の生首の映像が、何度も脳裏を過る。


「ラナゥ…ノーヴァル ウナ ホロナィ…(ママ、神様 なんて 嘘だ)」


あんなに願っても、こんな状況になっても、助けてくれないのであれば、神様なんて嘘っぱちだと思った。

世界を作ったり、手を差し伸べてくれるシヴノーヴァルなんて、御伽草子(おとぎぞうし)の夢物語で、現実には居ないに違いないと。

体の中が空っぽの器になって、すきま風が冷たく吹いているような感覚だった。お気に入りのぬいぐるみが破れてしまった時のような。いや、それよりももっと大きい風穴だ。きっとこれは、少女の全てを失ったから。

少女は自分の膝を抱き寄せ、キュウッと縮こまるような切ない痛みを、絶(た)えず与えてくる胸を擦りながら、静かにすすり泣いた。



少女は悪夢にうなされていた。数分毎に目が覚めては、疲れと眠気で再び眠りに落ちるのだが、寝ても醒めても母親の断末魔と、あの苦痛の表情が繰り返し迫ってくる。跳ねるように頭を起こした後、悪夢によりバクバクと脈を打つ心臓の辺りを押さえると、再び睡魔に囚われる。


『オマエガヤッタンダ オマエガヤッタンダ』


次に見たのは、そう言いながら近づいてくる、血だらけで手足の方向がおかしい獣人達の夢だった。


『イティム ハ オマエダ。 イティム ハ オマエダ。オマエノセイデ、オレタチハシンダ』


頭を抱えうずくまってる少女を、ゆっくり持ち上げながら、頭部が潰れたイバン(虎に似た生き物)獣人の異様な骸(むくろ)が、そう囁いてくる。


⦅もうやめて…許して…⦆


恐怖と罪悪感に押し潰されそうになった頃、甘く柔らかい匂いが、少女の鼻をくすぐった。人の気配だと反射的に感じ、思わず飛び起きると、目の前にヅフムゥ(ミミズク)なような真っ白な面を被り、白銀の髪を風になびかせてる人間の女性が立っていた。女性は黒の服に身を包んでおり、橋の下という暗がりに溶け込んでいた。女性は髪を耳へかけながら、少女に対し、少女にわかる言葉で話しかけてきた。


『こんな所にいたんだ。寒かったでしょ?暖かいご飯、用意してあるから、一緒においで』


女性の髪が風になびく度に、先程鼻をくすぐった、あの甘く柔らかい匂いが流れてくる。人間からわかる言語が飛んでくると思わなかった少女は、思わず身構えた。


『そんなに怖がらないでよ。ホヅキサマにお願いされてね、君を探しに来たんだ。』


コロコロと笑いながら、女性は少女の目線に合わせてちょこんとしゃがみ込んだ。ホヅキサマとは?少女は訝しげに、ヅフムゥ(ミミズク)面の女性を眺めた。顔はお面で隠れているのに、美しいのだろうという事がひしひしと伝わってくる。体は黒い服のおかげで闇に溶け込んでいるのに、主張の強い白銀の髪と白のお面が、橋の下という闇の中でも輝いて見えた。月光が僅かに差し込んで来たからだろうか。


『ほら、大丈夫だから。おいで』


女性がスっと手を差し伸べてきた。その時、一瞬悪夢のイバン獣人の骸が自分に掴みかかってきた映像と、合わさって見えてしまった。少女は目を瞑(つむ)りながら、思わずその手を強く振り払った。


「ヌガ!(いや)」


ザパッという嫌な音が、橋の下で冷たく響いた。目を開けると、ヅフムゥ(ミミズク)のお面が二つに割れ、血を吹きながら倒れる女性の姿が目に映った。倒れた女性はすぐ上体を起こし、顔を押さえていた。橋の下の空間を濃厚な血の匂いが一気に支配した。

「ツッ」という、痛みに耐える声が聞こえる。顔を抑える黒手袋の細い指の隙間から、月の光に照らされた、真っ赤な血が滴るのを少女は見てしまった。また、何かをやってしまったんだと、即座に理解した。自分の手を見るが返り血は着いていない。無論彼女の顔に自分の手が当たった感覚もなかった。それでも目の前で女性は血を流しながら、痛みに耐えている。落ちてるお面は綺麗に割れており、それが切り傷であると、ありありと証明していた。頭の中で、悪夢の中の骸が言っていた『オマエガヤッタンダ』という言葉が脳裏を三千と駆け巡る。


「ア、アアアァァァァァァァァ!!」


少女はやってしまった事による迫り来る罪悪感から逃げるように、その場から逃げ出した。後ろで女性がなにかを必死に叫んでいたが、もう少女の耳には届かなかった。



木の葉が全て落ち、裸になった木々の梢(こずえ)の擦れる音が、不気味に響き渡っている。どこか遠くからチパル(狼に似た生き物)に似た遠吠えが、変な抑揚をつけて響いて来ていた。


少女は、あの橋の下から逃げ出した後、川岸や川の中を無我夢中で走り、木々が密集した地に辿(たど)り着いた。故郷の森とは違う匂いだが、木があるということで少しでも落ち着けると考え、さらに奥に入った山地に隠れる事にしたのだ。木々の中に頭一つ飛び抜けた小山のような大木があった。その木には、ぽかんと口を開けたような洞(うろ)が出来ており、少女はそこに身を隠していた。橋の下と違い、吹きさらしでは無い分、少女の体温でやや暖かく感じた。


他人を自分の手で、怪我させたとはっきり自覚できる出来事は、生まれて初めてだった。

この魔窟の世界に来る前の、あの悪夢のような出来事は、自分は叫んだだけの為どこか他人事で、勝手にそうなったのだと、言い訳できる余地が少女の中にはあった。だが今回あの白銀の女性を傷つけたのは、紛れもなく自分なのだと、はっきりと理解していた。触った感覚も、爪で引っ掻いた感覚もなかった。しかし、あの女性は血を流した。自分が、あの差し伸べられた手を、勢いで払った瞬間に。

あの人間の群れから逃げる時に聞いた誰かの叫び声は、女性を傷つけたように、振り払った時に怪我をさせてしまった、その声だったのだろう。


「トロゥ…サムスグナ、サムスグナ、サムスグナサムスグナサムスグナ…(怖い、ごめんなさい、ごめんなさい)」


少女は、ただ謝る事しか出来なかった。涙を流していた母親に、怪我をさせたり殺してしまった獣人達に、この魔窟で自分を起こしてくれたあの人間に、わかる言葉で語り掛け手を差し伸べてくれた白銀の女性に。


「サムスグナサムスグナサムスグナサムスグナサムスグナサムスグナサムスグナ…」


『そーやってただ謝り続けても、なぁんも変わんないよ』


少女ははっと顔を上げた。誰かが自分にわかる言葉で話しかけてきた。だが姿は見えない。ふと、いい匂いがして足元を見ると、ヨレヨレの金属を丸めたような、拳大の塊が二個、無造作に転がっていた。


『食べなよ。この世界で「オニギリ」って言う食べ物だよ。包みは剥いてね。中身はお米と魚の身だから』


自分と同じくらいの子供だろうか。姿の見えない幼い声に促され、恐る恐る金属の膜の包みを開くと、中から黒い物が出てきた。黒い物は苔に似た、不思議な香りを醸(かも)し出していた。


『ああ、それは「ノリ」だよ。嫌なら剥がしてもいいけど、お米と一緒に食べると美味しいよ』


また声がした。どこかからかこちらを見ているのだろうか?こんな怪しいもの、と少女は思ったが、お腹がクキュゥと情けない音を立てた。最後に食事を口にしたのは、昼頃が最後だったのを思い出した。お腹が空くのも当然だ。いい匂いに耐えきれず、少女は思い切って黒い塊にかぶりついた。口に含んだ瞬間、塩気を含んだ黒い物の不思議な香りと、お米の甘みが口中に広がった。黒い物はほんの薄い膜のようなもので、噛んでるうちに思ったよりもすぐ、ホロホロとほどけてしまった。お米は若干冷めてしまっているが、人肌程度にまだ暖かく、ふんわりと口中に行き渡った。久方ぶりの食事に咀嚼の口が止まらない。慌てて二口目にかぶりついた。今度はお米と共に、川魚のような旨みが舌いっぱいに伝ってきた。魚の肉はややしょっぱめに味付けられており、甘いお米との相性は抜群だった。少女は掻っ込むように、「オニギリ」と呼ばれた食べ物を、口の中に詰め込んでいった。


『そんな焦んなくても、オニギリはどこにも行かないよ』


口いっぱいに詰め込みすぎて、思わずむせそうになった。詰め込んだ分を上手く呑み込めず四苦八苦していると、急に足元に水のような液体が入った透明な容器が現れた。


『上の白いところ、左回りに捻れば蓋が開くから。中身は普通の水だよ』


あまりの苦しさに、少女は疑いもせず容器を手にした。慣れぬ容器に四苦八苦しつつ、なんとか白い部分を捻り蓋を開け、水を口に流し込んだ。お米が詰まっていた苦しさはサラサラと徐々に消え、死ななくてよかったと少女はため息をついた。腹が少し満たされると、声の主の事が気になってきた。洞の外は風が強く、感情の匂いは流され、探ることが出来なかった。


『…あなたは、だれ?』

『私はリリヲネート。長いからリリヲでいいよ』

『どうして姿を見せないの?』

『私は別に見せてもいいけどさ。君、さっきまで怖さとか悲しさで壊れそうだったでしょ?ニムニスで何があったかは穂月から聞いたし、怖いだろうなーって思って、あえて見せてない』


姿を見せないのに、まるでこちらを見ているかのような返事だった。

ニムニスと言うのは、少女が暮らしていた世界の名前だ。という事は、声の主リリヲはあの悪夢のような出来事を知った上で自分に話しかけているという事になる。


『私の事、怖くないの?ザクって血が出ちゃうかもなんだよ。バンって、なっちゃうかもなんだよ?』


恐る恐る、リリヲに尋ねた。やったつもりがなくても、これまで出会った人達を傷つけてしまった。到底しばらくは人に会う気にはなれなかった。


『私はそんなヘマしないから。シルから聞いたけど…あ、シルって言うのは、君が怪我させた白い女の人の事ね。そのシルが言うには、君のあの力は衝撃波みたいな物、らしいよ。それならヨユーで避けられるし』


逃げられると覚悟して聞いた話なのに、案外あっさりと返答された。怪我させた女性の事も、咎められるかと思いきや、すんなりと流されてしまったようだ。リリヲと名乗った声はそんな事より、と言葉を続けた。


『とりあえずオニギリ、食べちゃいなよ。冷めないうちにさ。話はそれからでも遅くないから』


上の方から風の音に紛れ、欠伸のような声が聞こえてきた。どうやらリリヲと名乗った人は、この木の上に居るらしい。気になりつつも、少女は二つ目のおにぎりを口へと運んだ。



オニギリを食べ終え、水も飲んで、少し落ち着いた頃また声がした。


『食べ終わったなら、食休みに少しお話しようか』


少女は少し違和感を感じた。さっきは気にならなかったが、まるで今いる木の洞の前に立って、そばから話しかけられているような声の聞こえ方だった。欠伸は上の方から聞こえたというのに。


『どうしてこっちから声が聞こえるの?上にいるんでしょ?』

『ここからだと梢(こずえ)の音がうるさくて。これなら、聞こえやすいでしょ?』


どうやっているのかはともかく、なるほどと思った。洞の外はさらに風が強くなってきており、ザワザワと木々が騒いでいるようだった。


『君の今後についてなんだけど、君はどうしたい?まさか、ニムニスに戻りたいなんて言わないよね?』


少女は悩んだ。正直、家には一度帰りたかった。大切な物は全てあの家の中だし、母親から渡された竜のネックレスも、あの草原に落として無くしてしまった。しかし、自分をイティム(忌み子)と呼び、殺そうとしてくる人達が大勢いる所へ帰るのは、とても怖かった。それにまた、たくさんの人を傷つけてしまうかもしれない。


『特に行きたい場所無いならさ、私達のとこおいでよ。元はと言えば…』


少し間を置いて、渋々と言った声が聞こえてきた。


『元はと言えば、情けに駆られて穂月がやらかした事、だからね。私らとしてケジメつけなきゃなんない訳よ』

『ホヅキって、だれ?』

『エル(新しい)・シヴノーヴァルだよ。会えばわかるよ。悪いやつじゃないって』


リリヲは確かに「シヴノーヴァル」と答えた。まさか、本当に神様が居るのだろうか。


『ほんと?ほんとにシヴノーヴァル様なの?』

『まだ成り立ての、赤ん坊ノーヴァルだけどね』


やれやれといった調子でリリヲは答えた。

少女は、神様に会えることならば、直接会って聞きたいことが山ほどあった。


『いく。シヴノーヴァル様んとこ、いく』

『じゃあ、移動しようか。今からゲートを開くから。そこに座ったままでいいよ』


頭上に、木のてっぺんをくり抜いたように、ぽっかりと星空が現れた。星空に気を取られてるうちに、少女の体は徐々に木の洞から、その姿を消したのだった。

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世界の狭間で今日、また生きる 那菜里 慈歌 @sekainohazamade

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