十二、白桜染紅
三頭の狗猿たちが身を屈め、こちらに向けて唸る。燈架は足を滑らせて後退した。三頭との間合いが近く、下がらねば刀を振るえない。
燈架が距離を取るのを待たなかった狗猿は、一頭ずつ牙を剥いて飛び掛かった。燈架は玉砂利の上を転がって避ける。体勢を整える暇もないまま、次から次に、爪と牙。立ち上がることもできぬまま、立ち膝でなんとか刀を振るった。
「惟織も。もう、わたくしのお庭を汚さないでくださいませ」
「私の〈庭〉だ!」
叫びとともに飛ばされる狐火を、蔭把は跳ねて躱した。歩きにくいぽっくり。砂利ばかりの不安定な足場の上なのに、まるで素足で野山を駆けるかのようにその動作は軽やかだった。
「人間の子に鍵を渡して、おめおめとわたくしをここまで通して。それで清らかなる〈庭〉を守護する〈花守〉だなんて、笑わせますわ」
だから、と玉砂利にふわりと降り立った彼女は、にんまりと笑って、太刀を両手で握った。
「わたくしが代わって差し上げます」
蔭把は一跳びで惟織に肉薄すると、負傷の所為で力の入っていない相手の身体を押し倒し、刀で掌を地面に縫い付けた。
くぐもった悲鳴が聞こえる。
「惟織様!」
高笑いが庭に響く中、颯季の悲鳴が聴こえた。惟織の身体を跨いだ蔭把は、掌に突き刺した太刀をさらに地面に押し込み、惟織を覗き込むように上半身を倒す。
「ねぇ、惟織。どうして元の姿に戻らないのですか? ああ、もしかして戻れない! わたくしが妖祓いに渡した毒の所為ですね? 刀に塗らせたの。だからあなたほどの大妖怪が、人間ごときに遅れを取るのですわ!」
惟織の身体の上でころころと愉しそうに笑う蔭把に、惟織は呻き声しか返せない。
「ああ、良い気味。ずっとこうしたかったのです。あなた、ずっとわたくしのことを嫌うから、わたくしもう、なんだか腹立たしくって」
そして蔭把は身を起こし、突き刺した太刀から手を離した。すっと背を伸ばした彼女の表情は、さっきまでくるくると転じていたのが嘘のように、消え去った。
「死んで」
色のない声の後、惟織の胸に蔭把の手刀が突き刺さる。白妙の衣を破り、胸に埋まった纎手が、溢れる血に赤く染まった。
「惟織様っ!!」
一際大きい颯季の悲鳴。燈架もまた一瞬、狗たちの相手を忘れ、そちらの方へ顔を向けてしまう。
白妙の麗人姿のままの妖は、琥珀色の眼をこれでもかとばかりに大きく見開き、喀血しながら背を大きくのけぞらせていた。太い尾が、毛をまっすぐに逆立てて、一層太く見えている。
「ああ、汚れてしまったわ」
喀血する惟織の上で、蔭把は抜いた己の手を眺めて悲しそうに言った。赤く濡れたその手に、桜の花弁が貼り付く。
蔭把の目が不思議そうに大きく見開かれた。背後を振り向いて、庭の中心に鎮座する桜を眺める。
「そうだわ。白だけなんて寂しいですし」
蔭把の顔が綻ぶ。太刀を抜いて身を屈め、惟織の服の胸ぐらを掴んで持ち上げた。細腕からは想像できないほどの力。身体が持ち上げられ、惟織の手足がだらりと下がる。
「染めてしまいましょうか」
一度振り子のように揺らした後、下手で惟織の身体を放り投げた。低く弧を描いて飛んでいった惟織の身体は、桜の大樹の根元に転がった。
玉砂利の下に、血が流れていく。
「貴様っ!」
あまりに粗雑な扱いに、
とん、と地面を一蹴りして刃を躱す
熱で青藍の着物の糸が縮み、焦げる。
蔭把の顔色がさっと変わった。
「わたくしの庭で、火を焚かないで!」
女の悲鳴に耳を貸さず、燈架は火力を強めた。一振りと同時に火球を三つ飛ばす。蔭把は、時に宙返りなどの軽業をもって躱した。その際に袖を一つ焦がしてしまったらしい。黒くなった青藍の袖を見て、
「本っ当に無粋な方。女の邪魔をして、着物を焦がして……。わたくしの犬も殺してしまうし、あなたのこと嫌いです」
拗ねた台詞とは裏腹にその表情はこの上なく憎悪に歪んでいた。眉は吊り上がり、眉間には深い皺が刻まれ、口からは歯が剥き出し。これでは男を惑わす顔も台無しだ。先程までの蕩けるような表情との格差が凄く、まさに鬼の形相。並みの胆力の持ち主なら、怖じ気づいて引き下がってしまうに違いない。
だが、怒りに飲まれつつある燈架は違った。感情のままに力を練り上げて、刀身を媒介とする焔の火力をさらに上げていく。
蔭把はそれが気に障ったらしく、太刀でもって燈架を排除しようとした。流れるような動きは剣舞のよう。しかし、刃は確実に燈架の急所を狙っていた。燈架はそれぞれの攻撃を打ち払うも、相手に押されていく。踏み出すことはできず、むしろ後退していった。
食いしばった歯から呻きが漏れる。
どうにか押し返そうと足を踏みしめたそのとき。
まさにその体重のかかった足を掬われた。
玉砂利の上に燈架の身体が投げ出される。蔭把の背後から、触手のような影が揺らいだのが見えた。
「これで終いです」
冷たい眼差しを落とす蔭把。持ち上げられた刃に、刀を翳す。衝撃に備えて柄を握る手に力を込めた。
燈架を切り払わんとしたその身体が、突如青白い炎に包まれた。
「ああ……っ!」
甲高い悲鳴が上がる。
少しでも炎から身を守らんと自らを掻き抱きながら、蔭把はよろよろと後退し、それでも消えない炎に、遂には地面に転がった。それでもなお、狐火は蔭把の身体を焼き続ける。
「まだ……、生きて……っ」
焼ける苦しみの中で蔭把が見たのは、桜の根本にいる
燈架はすぐさま立ち上がると、燃え上がる艷姫の前に立ち、刀で頭から真っ二つに割った。
剥き出しになった断面は真っ暗だった。殻の中に闇でも詰め込まれていたかのような、黒い靄が充満し、はみ出た先が陽炎のように揺らめいている。
「「どうしてぇ……っ!」」
女の姿を残した殻がそれぞれ嘆く。重なりあう二つの声に、燈架は顔を顰めた。先程と同じ声質なのに、金属を擦り付けたような、毛の逆立つ不快感がある。
「「わたくしの〈庭〉なのにぃ……」」
酷い酷い、と泣きながら、二つに割れた殻が倒れる。白い玉砂利に触れた瞬間、とうとう艶姫の姿をなくし靄と化すと、互いに身を寄せ合い溶け合った。
まるで黒い炎のような影。これが蔭把の本性なのか。
「まだ、諦めませんから……っ」
一つに戻った声が告げる。人の形を保っていたら上目遣いに睨み付けていただろうその声音で、この場に残る三人に宣言する。燃料を失った炎のようにその姿が徐々に衰え薄れていった。
「必ず迎えにいきますから、絶対に待っていてくださいね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます