十一、強欲艶姫

 虚の中は不確かな世界だった。青と黒の光陰が入り雑じり、混沌と揺らめいていた。足元に地面の感触はなく、己が身すら光と闇に揺らめいて溶けていきそうな心地がした。

 覚束ないのをそのままにひたすら足を動かす。もはや前後の感覚もなく、ただなにかに導かれるまま闇雲に歩いていた。

 どれほど歩いたか。突如目の前が白くなった。手を翳して目を庇い、光が弱まるのを見計らって目を開く。


 そこは、庭だった。周囲を白塗りの塀で囲われた正方形の石庭。足元に敷かれているのは白い玉砂利。塀に沿った縁は土が剥き出しになっていて、うち三方は花弁を白くした桜の木々が植えられている。残り一方は、閉ざされた門が設置されていた。燈架とうかはその門を背に立っている。

 天上は暗い。半月のみが浮かぶ真っ暗な夜の空だった。


 ――〈常世の庭〉。

 燈架の頭にその言葉が過る。ここまでの道を抉じ開けたのは、〈花守〉である惟織いおりで、行き着いた先が庭園ならば、十中八九そうではないか。

 件の庭に足を踏み入れたことの事実に、燈架は身を震わせた。歓喜、ではなく、畏怖。あるいは恐怖。見つけてはいけないものを見つけてしまった焦燥。どうすればいいのだ、と思いながら周囲を見回す。


 平行に波打つ白い玉砂利の上に、ぽつぽつと赤い点が続いていた。その先にいるのは、惟織である。白い尾を揺らしながら、石庭の真ん中へと向かっていた。そこにあるのは、庭の桜の中でも一際大きな桜。幹の太さからして、千年近い年月を生きてきたのだろう。枝は太く、しかし自重で幾つか落としたのか、周囲の花に比べると花の付き方が疎らで寂しい。しかし、荘厳さに置いては、他の桜に劣らない。

 その足元には、あの影から現れた女――蔭把かげはと、彼女の腕に拘束された颯季さつき

 惟織は、蔭把に相対していた。


「遅かったですわね、惟織。もう少しで、全部私の物にしてしまうところでしたわ。この庭も、この子も全部」

「ふざけるな、お前に渡すものなど何一つない!」


 負傷の所為で余裕がないのか、惟織は声を荒らげている。その合間に入る呻きに、燈架の不安が増す。


「あら、つれない。他の方にはお茶とお菓子を持って行ったと聴きましたのに、わたくしにはなにもなしだわ」

「玉を持っていっただろう! そのときの約束を全て反故にして、何を言うか、痴れ者が!」

「美味しいものはいただいてないわ」


 蔭把は拗ねたように口を尖らす。


「それに、どうしても欲しかったのですもの。この綺麗なお庭と、可愛いこの子」


 蔭把は繊手で颯季の頬を撫でた。術でも掛けられているのか、颯季はされるがままで動かない。顔は泣き出しそうなほどに歪んでいるというのに。


「とっても、美味しそう」


 平時であれば男の欲を刺激する艶かしい声でうっとりと呟いて、ぺろり、と上唇を舐めた。

 その仕草に、皮膚が粟立つ。官能めいた仕草は、しかし燈架には嫌悪感しかもたらさなかった。


「あなたが明都あきとに来ると知ってから、ずっとずっと待っていましたのよ。なにより〈庭〉の鍵を持っているという話でしたし。だから、とっても欲しくって、あんな玉だけじゃあ、とても諦めきれなくって……」


 蔭把は切なげに表情を曇らせると、俯いて涙を流しているかのように瞑目する。それから上目遣いで惟織たちを見て、うっすらと笑った。


「我慢、できませんでした」

「だとしても、お前に渡すはずもない。〈庭〉もだ。疾くと去ね」

「ケチね、本当に」


 蔭把は顔を不機嫌に歪めて惟織を見ると、颯季を地面に放り出した。歩きにくい木履で玉砂利の上を淀みなく歩く。広げた手の片方には、いつの間にか刀身の曲がった抜き身の大太刀が握られていた。


「なら、殺してしまいましょう。持ち主が居なくなれば、私の物になるでしょう?」


 女の手には重いだろうそれを、片手だけで振りかぶる。


 そこでようやく燈架の呪縛は解けた。玉砂利を蹴って惟織の前に割って入ると、振り下ろされる太刀を刀で受け止める。

 あ、と驚く声が二つ。颯季も惟織も、燈架が追ってきたとは思わなかったらしい。


「あら、人間?」


 乱入した燈架を見た蔭把は、不愉快そうに口を尖らせた。訝しむように細められた目は昏く淀んでいて、まるで深淵を覗き込んでいるかのようである。颯季はさっきからこれに覗き込まれていたのか、と思うとおぞけが走った。


「妖祓いですわね。惟織を追ってきたのでしょうか」


 燈架が太刀を押し返したのに乗じて後ろに跳んだ蔭把は、苛立たしげに刀を揺らしながら、燈架を上目遣いに睨め付けた。


「ここまで来るなんて、無粋ですわ。貴方がたは、惟織を炙り出してくれさえすれば結構でしたのに」


 吐き捨てるような台詞に、燈架は眉を顰めた。どうやら、緋坦ひたんのところの妖祓いと間違えているようだが、これではまるで――


「あいつらをけしかけたのはお前なのか……?」


 燈架の疑念に、蔭把は目を丸くする。


「ということは、別の妖祓い? もしかして、お邪魔虫のほう?」


 それからまじまじと燈架を観察して、美しい顔を忌々しげに歪めた。


「……ああ、わたくしのしもべを殺した方ですわね。では、余計に懲らしめて差し上げないと」


 だらり、と下げていた太刀を持ち上げる。

 僕、と聞いて思い出すのは、颯季を襲った狗猿の妖である。あれがこいつの仕業なら、神隠しもそうである可能性がある。

 問い質せば、彼女は訝しげな顔をして首を傾げ、


「……ああ、あの子たちのことかしら。颯季がなかなか手に入らないものだから、戯れに攫ってはみましたけれど、あまり満足できなくて……」


 だから、犬たちに下げ渡してしまいました、とつまらなそうに言い捨てた。

 燈架は腸が煮えくり返るような想いがした。


「桜に吊るした子供は!」


 問い詰める口調が強くなる。


「あれもちょっとした戯れ。わたくしが探していること、あれで惟織に分かっていただけるかなって。……っと」


 言葉を切るのと同時に太刀を横に付きだして、颯季のもとへ行こうとした惟織を阻んだ。惟織が蔭把を睨み付ける。


「お前がそう性悪だから、妖祓いのもとに預けたのだ!」

「本当に困りましたわ、あれは。まさか妖のあなたが妖祓いを頼るとは思いませんでした。さすがのわたくしも、妖祓いの巣窟に乗り込む気にはなれなくて」


 頬に手を当てながらやれやれ、と溜め息を吐くと、それから思わせ振りに燈架を見た。


「だから、ちょっとある方にお願いをして、颯季と一緒にいるときに、他の妖祓いに惟織を襲ってもらうことにいたしましたの」


 そうすれば隙ができると思いまして、と得意そうに言う。結果的に思惑は上手くいったものだから、調子に乗っているようだ。


「お前は、人間に働きかけることができるのか……?」


 まさかとは思いつつも知らされた事実に、燈架は愕然とする。しかも、あれだけの妖祓いを動かすことができるというのなら、かなりの立場にいる人物だ。それが、こんな妖と通じている、と……?

 蔭把は目と唇を細めてにんまりと笑うと、うふふ、と笑い出した。


「さあ、無駄話ももういいでしょう。いい加減、どちらも目障りだわ。死んでいただきます」


 蔭把は刀を持ち上げると、右手を引き、付きだした左手に刀身を乗せて構えた。


「安心なさって、惟織。ここはわたくしが守りますし、颯季も大事にしますから」

「弄んだ末に喰らうだけだろうが……っ!」

「できるだけ長ーく遊びます」


 くすくす、と笑う魔性の女。それから、正眼に刀を構える燈架へと流し目を寄越した。


「人間は、請うなら僕にして差し上げますよ。今謝れば、あの子と一緒に遊んであげますし」

「やめろ。反吐が出る」


 どれほど蠱惑的でも、燈架は蔭把に対して嫌悪感しか抱けない。それに、〝遊び〟がどのようなものであるか、惟織の反応と桜に吊るされた被害者を思えば、愉快なものでないことは明白だ。

 燈架の反発心が不愉快だったのか、蔭把は顔を顰めた。


「……そうね、やっぱりお邪魔虫なんて不快だわ。……でも、ただ殺すのは霊力が勿体ないですし、犬たちの餌にしましょうか」


 蔭把は掌を合わせて、ぱんぱん、と叩く。その足元に黒い靄が三つ現れた。やがて形を為して現れたのは、いつかお茶屋の前に出たあの狗猿の妖だった。


「さあ皆、ご飯の時間よ。お庭を汚してはいけないから、血の一滴も残してはなりません」

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