十三、桜守散華
「惟織様!」
泣き出しそうな颯季の声に、燈架は中央の桜の根元へと駆け寄った。とうとう力を失った惟織は、玉砂利の上に仰向けになり、色を失った表情でぼんやりと桜を見上げていた。その胸元に、颯季が縋りついている。
手遅れであることは、すぐに見て取れた。胸に開けられた大穴に燈架も絶望的な想いに囚われる。
「染まって、しまったな」
早くも血を吸い、淡く紅がついた花弁を見やり、惟織は頬を僅かに引き攣らせ、自嘲した。
「よりによって、我が血で穢すとは……〈花守〉が聴いて呆れる」
ふふふ、と力のない声で笑いながら、風に舞う薄紅の花弁をしばらくの間見つめ、それから惟織は少しずつ顔を動かして、琥珀の瞳に颯季を映した。
「すまなかったな。私が油断したばかりに、怖い想いをさせた」
ふるふると颯季は首を振る。惟織はその頭を愛おしそうに撫で、颯季の傍らに呆然と立つ燈架を見やった。
「巻き込んですまなかった……。だが、礼を言う」
まさか妖祓いに助けられるとは思わなかった、と惟織は口の端を持ち上げた。
「俺は、別に」
気にするな、とも、そのつもりもなかった、とも言えずに言いよどむ。
敵だったはずだ。惟織が妖と知って、狩るために追いかけたはずだった。それがここに来ていつの間にか惟織を助太刀し、共に戦い、救われた。どうしてか、など自分でも解らない。ただ、颯季を助けねば、と思ったし、蔭把の所業に腹が立った。妖であっても、そこまでされる謂れはない、と憤慨してしまったのだ。
今更になって、そのことに戸惑う。
「また、頼まれてくれないか」
擦れ声の懇願に、燈架はその意とするところを察した。他でもない颯季のことだ。
言い残した蔭把の言葉からして、彼女はまた颯季を狙うだろう。しかしそのとき、惟織はもういない。いない、と今そう思っている。
だから、燈架に託そうという。成り行きで出逢っただけの妖祓いに。
何故、と燈架は口にする。惟織は答えず、ただ笑みを浮かべただけだった。
「人間に、この〈庭〉を侵される可能性を考えないのか」
「さて、な」
惟織の瞳が再び颯季の涙に濡れた顔に行く。
「そう簡単には、入れまいよ」
なあ、と確かめる声に、しかし少年はふるふると首を横に振った。
「僕は、人間です。妖が負う役目など、果たせるはずがありません」
「知らんな。もう決めた。……それに、今さら代わりなど捜せるはずもない」
だからどうか頼んだぞ、とそう告げて。
その後惟織は縋るように少年の胸元を掴み、薄れゆく意識の中でも必死に哀願した。
「己を殺さないでくれ。できれば幸せになってくれ。復讐など考えるな。……でも、私を忘れないでくれると嬉しい」
うんともすんとも応えず、ただ呆然と見下ろす颯季に、また優しく微笑みかけた。
「最後に一つ。人として生きろ、颯季。妖などに囚われるなよ。お前は、一人の人間だ。そればかりは決して歪めてくれるな」
そしてようやく身体の力を抜き、颯季から手を放した惟織は、下げる途中の手で宙を指さし、常世と現世を結びつける虚を作りだした。
「さあ、そろそろ帰ると良い。一度この〈庭〉を閉ざしてしまうから、しばらくはここに来れないだろう。でも、また、いつかきっと」
蔭把の脅威が去ったそのときに。またこの〈庭〉の手入れをしてくれ、とそう言って、惟織は瞑目した。まだ命はあるようだが、それもいつ潰えるかは判らない。
そして潰えてしまったら、燈架も颯季も帰る術を失くすだろう。
離れたくない、と惟織の身体にしがみつく少年を無理矢理引きはがし、燈架は虚へと足を踏み入れた。
閉じる直前に見えた、白い姿がいつまでも脳裏に焼き付いていた。
* * *
「さて、これはどうしたものか……」
昼日中の現世へと戻ってきた燈架と颯季は、その足で詰所へ向かい、
「〈常世の庭〉の存在。蔭把という妖。妖に通じているかもしれない人物。そしてなにより、人間の〈花守〉」
煌利は顎に手を当て、他人事のように言った。
「厄介事ばかりじゃないか」
「だからこうして、相談しているんです……」
がくり、と燈架は肩を落とす。今朝からの疲労も溜まり、正座をしていても背筋を伸ばすことも難しくなってきた。
そんな燈架の様子を知ってか知らずか、煌利は面倒だとばかりに溜め息を吐いた。
「神隠しの件が解決したのは良いが、これではな」
「終わった……のでしょうか?」
戸惑ったような声を上げたのは、颯季だった。蔭把の脅威に一番に晒されていた彼は、彼女の恐ろしさとその執着ぶりを身を持って体感しているわけだから、蔭把が生き残っていると知っている今、安心できないのも無理はない。
燈架もまた、颯季に同意した。
「そうだな。あの女のことだから、また手慰みと言って、他の子どもを襲いかねん」
「警戒を強めるよう、通達しよう。ただし、他の一門は当てにできんな。誰がその蔭把とやらに通じているか判らん」
胡坐を掻き、頬杖を突きながら、はあ、と憚りもせずまた重い溜息を吐く煌利。砕け過ぎだとも思わなくもないが、気が重い事態であるのは確かだった。
「さて。ではまず、颯季君のことだ」
身を起こし、ぱしん、と膝を叩いて、煌利は颯季を見やった。
「一番良いのは、朱門で匿うことだな」
「まあ、そうなるでしょうね……」
力なく燈架も同意する。惟織から託された以上、燈架は可能な限り颯季の傍に居なければならない。しかし、燈架は妖祓いとしての仕事があるし、颯季もまた妖に狙われている。となれば、一番都合が良いのは、当の颯季に妖祓いになってもらうことだ。それならば、燈架の傍にいても問題にならないし、颯季自身も妖に抵抗する術を身に着けることができる。
ただ、問題は、燈架たちが妖と敵対する立場にあるということだ。妖が請け負う〈花守〉のことを思うと、不都合が多分にあるような気がしてならなかった。
そのことを颯季に問いただすと、少年は分からない、と首を横に振った。
「でも、僕は力が欲しい。惟織との約束を守るため、蔭把に対抗し得る力が」
そうやって煌利を見つめる瞳は、酷く真剣だった。強い決意の表れ。己の無力さの所為で今回の事態を招いたのだ、と少年が後悔していることを燈架は知った。
「……そうか。歓迎する」
また同じものを感じ取ったのか、煌利は静かに颯季を迎え入れた。
「それで、〈庭〉のほうは」
最後に一つ残った問題。こちらもどうにかしなければ、と燈架は煌利に対応を伺うが。
「知らん。俺は何も聴いていない」
は、と燈架の口から間の抜けた声が漏れる。今の今まで、いったい何の話をしていると思っているのか。脱力してしまいそうな燈架を知ってか知らずか、しれっと煌利は続ける。
「聴いていない以上、報告することは何もない」
「……左様で」
つまりは、聴かなかったことにして、上には黙秘することを決めたようだ。
おそらく考えるのが面倒になって投げたのだろう、と燈架は推測した。
「さて、報告は終いだ。これから颯季君が妖祓いとなる準備を進めなくてはならないが、二人とも疲れているだろう。今日のところはもう休め。それでもって、明日燈架の故郷に向かうと良い」
これまた唐突なお達しに、燈架と颯季は互いの顔を見合わせた。
「俺の実家、ですか? また何故」
「素性を隠し、権力から守るには、身内とするのが都合が良い。多少の贔屓もできるしな」
しかし、頭首である煌利にあまりに血の近い関係であると、まず身内を誤魔化すのが難しくなってしまう。そこで、
だが、煌利は聴く耳持たぬ、と燈架の抗議を一切拒んだ。
「面倒もお前が見ろ。どうせ、惟織とやらにそう頼まれたのだろう?」
なにせ惟織の正体が妖である者だから、そのことについては触れていなかったのだが、幼い頃から共に過ごした煌利にはお見通しであるようだった。
絶句する燈架に、煌利はさらに告げる。
「そういうわけだ。しばらく慌ただしいぞ。心しろよ」
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