二、桜花麗人
「妖……ですか?」
歌でも唄いかねない抑揚の上機嫌な男の言葉に、少年は戸惑ったように眉を顰めた。
「なんだ知らないのか、坊主。最近の噂を。この
ここ数日の話である。ちょうど下の桜が盛ってきた頃からだろうか。明都の街から子供が次々に消えた。行方知れずになったのは、男も女も関係なく、齢十から十五の子ばかり。物心も付き責任の言葉も知る頃なので、ただの迷子とは考えにくく、神隠しでは、と周囲が騒ぎはじめたのを機に拡がった。
もちろん、その年頃は多感な時期でもある。ただ家を飛び出しただけの可能性も多分にあるのだが、親の言に寄れば、その予兆はなかったとのこと。これは単に親の自認に留まらぬのだという。周囲もまた、意外、と口を揃えた。
だから、妖の仕業だろう、と明都の人間は騒いでいる。実際、都の外では度々妖が見られており、噂は信憑性を増した。今では、その線での捜索がされている。
行方知れずは、数にしておよそ十。そのうち変わり果てた姿で見つかったのは三。残りの六は、未だ見つかっていない。
妖の仕業だとして、と話に怯えるでもなく、少年は首を傾げた。
「何故その妖は、子どもを攫うんですか?」
さあ、どうしてかな、と男は素っ気なく返し、
「花のためだ、という奴もいるが」
盃を寄せた口元を皮肉げに歪めた。桜を見下ろすその眼が、つい今までと違って冷えている。
「花のため……?」
「椿や梅の紅や桜の薄紅が、血によって染められているという話を聴いたことはないか? あれを妖どもが集めてやっているという話だよ」
人間の子を拐かし、血を搾り取って、水の代わりに与えたり、花弁に塗りこめているのだ、と誰かが騒ぎ立てたのだ。
「もしかしたら、あの桜もそうだったりして」
元に戻り、冗談めかして言えば、少年は顔を青くした。
「……迷信ですよ」
目を伏せそう一蹴する少年は、顔色に反して落ち着いている。
「妖怪が花のために人を集めているなんて」
「だろう。俺もこればかりは疑っている」
盃を置いた男は腕を組んでうんうんと頷いて、片手でまた新しい酒を注ぐ。少年が来る前からかなりの量を飲んでいるようだが、ひんやりとした外の風に当たっている所為か、男の顔は一向に赤くなる様子を見せない。気分は興じているようだが、言葉も意識もはっきりしていることであるし、めっぽう酒に強いのかもしれない。
「だがどのみち、坊主はなんだか妖に好かれそうな気がするからなぁ。夜道には気を付けるんだな」
なにとなしに忠告した男に、少年はただただ訝った。
「何故、僕が妖に好かれると?」
「ただの勘だ」
少年の方に目もくれないままさらりと返し、再び酒を口内に流し込んだ。その様子を何とも言えない表情で眺める少年。今更ながら、男の素性が気になってきたようだ。
「貴方、いったい何者――」
少年が問い質しかけたそのとき。
「
凛とした声が、二人の間に割って入った。少年も男も、その声に反応して振り返る。
男の手から空の盃がことり、と落ちた。
屋内と高欄の境に突如として現れたのは、周囲も息を呑む麗人である。白妙の着物に薄墨の袴。背はすらりと高く、体つきは細い。同じく細い線の顔は、男のものとも女のものとも知れぬ具合に整っている。艶やかに真っ直ぐ伸びた
これほどまでに華やかな容姿をしておりながら、麗人は何処か朧気だった。まるで桜吹雪が人の形を為したような、そんな印象を抱かせる人物だった。
周囲は、麗人の存在に静まり返っている。
「
そんな麗人に親しみと敬意をもって名を呼んだのは、隣の少年だった。なるほど、これがその主であるらしい。
横目で主従を見ながら、男は床に転がった盃を拾った。
「ご用事はお済みですか?」
犬であれば尾を振っていたことだろう、それほどまでに分かりやすい少年の喜び顔に、麗人は冷悧そうな顔立ちを綻ばせる。それもまた、散る花のように華やかであるのだった。
「ああ、終わった。待たせたな。茶が済んでいるなら、行きたいのだが」
「飲み終えています。只今」
と足下の盆を整えて立ち上がりかけたところで、自分を見守る隣の男のことに気がついた。
「あの、お菓子のお代、やはりお支払いします」
ここに来て申し訳なくなったのか、少年はおずおずと申し出る。
そんな彼に、既に気を取り戻していた男は、必要ない、と手を振った。
「構わんよ。短い間だったが、愉快に過ごせた。あれは、その礼だ」
少年は不思議そうに首を傾げたが、男が引き下がらないことは理解したのだろう。
「では、お言葉に甘えます」
申し訳なさそうに感謝の言葉を残し、少年は主と連れ立って店の外へと出ていった。
その背を見送り、男は正面に向き直って、徳利が空になるまで酒を注いだ。
「これはまた、妙なものを見た」
独りごちて、杯を仰ぐ。
再び桜を見下ろした瞳は、先ほどまでの酔いに浮かれた様が嘘のように凪いでいた。
* * *
石で造られた円形の楼閣から出た少年――颯季は、主と連れ立って提灯に照らされた湖畔の通りを歩いていた。危なっかしくもちらちらと道端の桜を見上げながら、白妙の麗人の後を追っていく。そんな少年の様子を見て取ったのだろう、麗人――惟織は赤い鼻緒の草履の歩調を緩めて後ろを振り返った。
「どうだった、あそこからの景色は」
ほど良い高さの声は、夜風にも似た落ち着いた響きを宿していた。
「見事でした。桜が浮かび上がってくるようで」
颯季は頬を紅潮させて、自分の見たものを次々に上げていく。その興奮する様は幼子さながら。しかし、惟織は少年を宥めることはせず、ただいとおしそうに目を細めて話を聴いていた。
「惟織さまも、ご覧になったのでは?」
良かったな、と他人事のように言う惟織を、颯季は不思議そうに見上げた。楼閣の茶店の高欄の席まで颯季を迎えに来たのだ。湖とその畔を
しかし、あれほどの光景を目にしていながら、惟織の反応は薄かった。
「観た。だが、あまり好かないな」
そうして傍の桜を見上げる瞳は、疎ましげ光を宿していた。
「掛け合わせとはいえ、紅の差した桜は好かない」
颯季は主につられて、薄紅の花を見上げた。風にそよぐ目の前の桜。花ぶりは大きく、鮮やかな色のその木は、二つの種類の桜を掛け合わせて作りだしたものだという。桃のように色濃く花は大きいがわずかにしか花を付けない品種と、卯の花のように小さく白く多くの花を付ける品種と。
組み合わせがよほどうまくいったのか、色も数も理想通りの見事な種の桜が生まれたわけだが。
「やはり桜は白に限る」
力強く、惟織は断言した。主の強い拘りに、理由を知る従者はくすりと笑う。
桜の薄紅は、根元の死体の血を吸い上げた色。そこここで語られる迷信は、実はおおよそ真実だった。昔、桜は白のみだったという。それが、あるとき血に穢れた桜が生まれ、それが紅を持つようになった。
一度紅を持った花は、色もそのままに繁殖して拡まったので、現在においては全ての薄紅の桜が血を吸ったというわけではない。しかし、主は未だ穢れの象徴という印象が未だ拭えていないようだ。だからこそ、桜は純粋無垢な古来の色が好ましい、と口にする。
「……そうですね」
颯季もまた、同意の言葉を口にした。思い浮かべるのは、以前見た夜桜の庭。古い桜の真っ白な花弁は、華やかさに欠けてはいたが、闇に茫と浮かぶ様は、趣のある美しさを備えていた。
華やかなのは素晴らしくあるが、性分ではないかもしれない。だからこそ颯季も、あちらのほうが好きなのだろう、とそう思った。
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