白桜染紅/花守奇譚

森陰五十鈴

一、薄紅絢爛

「あの、すみません。相席良いですか?」


 夜も賑やかな茶店〝天覧堂てんらんどう〟。洋燈ランプに照らされた賑やかな店内を背後にし、高欄こうらんを覗き込んだ少年は、一人酒を飲む男に声を掛けた。毛が立つほどに短くした散切り頭。浅葱の色無地を着流し、群青の帯を巻く、二十を過ぎた齢の男。床板の上に胡座を掻き、碧い玻璃ギヤマンの盃で酒を飲みながら眼下の景色を楽しんでいたようだが、少年に声を掛けられたことで、視線が店内の方に向けられる。


「他に、空いている場所がなくて……」


 所在なげに立ったまま、少年は男を見下ろしていた。学生のような黒い詰襟を着た身体は、十代半ばの年頃の割にずいぶんと華奢だ。まだ顔立ちに幼さの残る彼の困り顔を見て、男は畳敷きの店内を見回し、納得する。二十はあったはずの四人掛けの卓は全て埋められており、人が入り込む余地がないほどの盛況ぶりだった。

 だからこの、床に座布団が置かれただけの、高欄の席を覗いてみたというわけか。


「ああ、いいぜ。座れよ」


 快く返事をしながら、着流しの男は自らの身体を右に寄せた。一人分の身体が入るほどの隙間ができる。


「ありがとうございます。それでは、失礼し、て……」


 遠慮しいしい座ろうとした少年は、欄干に降りたところでふと足を止めた。夜の肌寒さも忘れ、そのまますぅと眼下の景色に視線を奪われる。


 地上十階ある楼閣の、その七階に設けられた天覧堂からは、道々に提灯が掛けられた祭り気分の通りと、その向こうにある大きな湖を望むことができる。ぼうと光る暖色の灯りの連なりは、それだけで幻想的。さらに、春孟しゅんもうも半ばとなったこの時期は、湖岸に沿って植えられた桜が満開で、なお見事な景色になっていた。灯りは花よりも下にあるので、薄紅の花笠が浮かび上がってくるようにも見える。

 しかし、今宵はそれだけではない。桜の木々の向こう、穏やかな水鏡には、向こうの山より昇った満月が映し出されていた。冴え冴えとした青い月の光は湖岸の提灯の光に遠く、自らの色を湖に弾いている。


「見事だろう。天覧堂の花見は常に格別だが、今宵は普段をさらに上回る。奥には望月、手前には夜桜。これほどまでに美しく月見と花見の両方を楽しめる場所はそうないぞ」


 そうして男は美味そうに酒を飲み、未だ放心している少年に声を掛けた。


「座れよ、坊主。店内ここで景色を見るならば、酒か茶を嗜みながらするのが礼儀だぞ」

「あ……はい」


 男の言葉で我に返った少年は、ようやく床の座布団に正座して、か細い声で女給を呼んで茶を一杯乞うた。

 注文を繰り返し立ち去りかけた矢絣やすがり着物に袴姿の女給を、男が呼び止め、酒の追加を注文する。


「それから姐ちゃん。こいつに茶菓子もつけてやってくれ。干菓子じゃないぞ、主菓子だ」

「え……あ、でも僕そんなお金――」


 長い前髪の奥の目を瞠って振り返った少年に、男は朗らかに笑った。


「気にするな、俺の奢りだ。代わりにしばし、俺の酒に付き合え」


 はあ、と少年は頷いた。

 女給が立ち去った後、居心地悪そうに少年は身を縮ませる。男はこれに苦笑する。傍らに盃を置き、徳利から新しい酒を注ぎながら気さくに話し掛けた。


「それにしても坊主、何処の坊っちゃんだ? その歳でここに来るなんて、それなりの身分なんだろう?」


 天覧堂は、この高さと景色と落ち着いた雰囲気の店の内装からも分かるように、上流階級向けの高級茶店である。先程の〝賑やか〟も実は談笑程度に留まっており、常に上品な雰囲気が漂っていた。

 そんな店を利用できる者など、ほんの一握り。身軽な服装ではあるものの、この男もまた然り、だ。

 少年はまたもぎょっとしてこちらを振り返り、両手の平を前にかざして否定した。


「いえ、そんな滅相もない! 僕は、ただの使用人です。ご主人様がこの辺りでご用事があって――」


 それからふと、瞳が陰る。前に出した手が力をなくして膝に落ちていく。


「でも僕は連れていけないから、ここでお茶を飲んで待っているようにと、そう言われたんです」


 憂いの瞳が景色に向いた。どうやら少年はそのご主人を慕っていて、だから置いていかれたことが寂しいらしい。

 可愛らしいことだ。男は口元を綻ばせる。主人もさぞかし可愛がっているのだろう。だからこのような高い店で、使用人を待たせているのだ。たまの贅沢をさせてやろう、と。


「ふむ、なるほど。そいつはついていたな。滅多にない僥倖だ。とくと味わえ」


 男が朗々と話している間に、女給が盆にのせた茶を運んできた。丸盆の手前には懐紙に乗った主菓子。奥には薄い陶器の、淡くぼかした薄紅色の茶碗。中は、良く点てられた薄茶である。

 少年が目の前に置かれたそれに、ぼうっとして見入っている横で、男もまた丸盆の中を覗き込んだ。


「なるほど、これは気が効いてるな。桜色の萩茶碗に、懐紙は桜の透かし入り」


 それから男は、茶碗の右側に並べられた小さな布にも目をつけた。


古帛紗こぶくさまでついてくるとはな」


 古帛紗は通常濃茶を入れた唐物か楽焼の茶碗に使われるもので、外での手前でない限りは薄茶を入れた茶碗に使われることはあまりないのだが、店は細かな作法に拘らず、演出として添えたらしい。小さな六角が連なる中に、丸に固まる桜の花を置いた、亀甲に桜の丸紋。

 そして、今一度菓子に目を向ける。男が女給に持って来させたそれは、転がした餡を水色の帯状の生地で包み、線が入った表面に薄紅の花弁が散らしてあった。


「練りきりは花筏、か。とことん桜推しだな」

「凄い。綺麗です」


 頬を紅潮させて、少年は頷く。主様に持って帰りたい、と前髪の合間から黒曜石の目を輝かせていた。興奮している様がよく判る。


「さすが天下の天覧堂、ってな」


 ふふん、と笑う。たいそう気を良くしているのは、酒精ばかりが理由ではないらしい。

 男が盃を空にしている間に、少年もお茶に手を伸ばした。左手に古帛紗を広げ、その上に茶碗を乗せる。茶碗を回し、正面を避けて口付けている様子からして、心得はあるらしい。主人が教育しているのだろう。

 一口すすり、ほう、と溜め息を吐く。それから眼下の景色に目を向けて、もう一つ溜め息。話し相手の務めも忘れて、桜と月の織り成す二色の光景に魅入られていた。

 そんな少年に気を悪くすることもなく、男は静かに酒を飲んだ。その歳で謙虚な様が、男にとっては愉快だった。少し気後れするきらいはあるようだが、礼儀正しいのは見ていて気分が良い。

 そうこうしている間に、追加の熱燗が男のもとに届けられた。男は盃に新しい酒を注ぐと、玻璃ギヤマンの碧を満月に透かすように掲げた。


「良い夜だ。これほど明るい夜ならば、妖どもも鳴りを潜めるに違いない」

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