第24話 「サーカス」後編:早瀬 志帆(10‐2)

 いやにあっけらかんとした告白だった。嬉しそうですらある。志帆は何か、自分たちが大きく道を間違えたような感覚に襲われ始めていた。何か変だ。

 思わず要を見た。要はそれでも落ち着いていて、それが志帆の動揺どうようを少し和らげる。


「名探偵に犯人と指摘されたからには自殺か自首しなきゃならないわけだが、僕の場合は自首するとしようか。いや、本当に素晴らしかったよ」


「いったい何なんですか? その冗談みたいな言い方は……」

 奇妙としか言いようのない受け答えに、志帆は思わず声を出していた。


「このくだらない茶番の筋書きを描いたのは御堂なんですか?」

 志帆の言葉に被さるようにして、要のひどく冷たい声が割り込んできた。


 要はいつもの気難しげな顔を、さらに険しくして紙谷を見た。猫のような瞳が鋭くなる。それでも、紙谷は相変わらずの表情で、

「おや、どうしたんだい? 君の推理は正しいわけだけど、その名探偵の推理に何かまだ付け加えることでもあるのかい」


 志帆は要の次の言葉を待つしかない。彼と紙谷が自分が知らないその先を巡って話をしようとしている――要の口にした御堂という名前。それはやがて一抹の不安として、つかんだはずの真実へ陰りを差し始める。


「僕は、はっきり言ってもうどうでもよかったんですよ。全てはとっくに終わってた。さっきみたいに推理をしなくとも、あなたはいずれ逮捕されるか自分から自首したでしょうから。これから僕が話すことも、結局のところ意味はないはずだ。でも、僕にはわからないんです。あなたがそんなふうにして事件の犯人になる理由が」


 紙谷はニヤリと笑う。それはどこか楽しいというのとは違う……まるで、エデンの園でイブをそそのかす蛇が自分の思惑がうまくいった時に浮かべた笑顔――それは、もしかしたらこんな笑みではなかったか。


「そうかい。じゃあとにかく続けようじゃないか。君がたどり着いたらしい真実を話してみせろ」


 今までとは違う、挑むような視線を向けられた要は、おもむろに語り始める。


「これまでの推理で犯人を指摘することはできました。しかし、まだ説明を落としていたり、足りてない部分があります。首が切られていたことと、それが焼かれていたこと。そして、ロープそのものについてです」


 要は指を三本にした手を元に戻してから、

「そもそもなぜ首は切られ、焼かれていたんでしょうか。身元を隠すつもりは、はなからなかった。それを持ち去るにせよ結局は隠すわけでもない。そしてそれをすべての事件で行ったわけでもない」


 そういえば、第四の殺人とされた事件において、被害者は火をつけられたものの、首を切られたわけではなかった。まあ、志帆はそこに理由をつけずとも、犯人を特定できたため、とりわけ突っ込むようなことはなかった。正直、ただ事件を陰惨に演出するようなためでしかないと判断したのだ。しかし、ロープについてはどういうことなのか……志帆の疑問に答えるようにして、要は続けていった。


「ロープだって変です。あれを回収できなかったという推理は間違っていない。でも、そもそも犯人がそれを現場に持ち込む積極的な理由はないわけです。では何故、ロープは第二第三の事件において回収されたり、またはされなかったにせよ、現場に持ち込まれたのか? この矛盾は何なのか? 僕は逆に考えてみました。ロープは犯人が持ち込んだのではなく、首を切られることになった人間たち自身が持ち込んだのだ、と」


 ああ、そうか。志帆は思わず小さな声を上げた。そうすれば犯人にとってあまり意味のないロープがどうしてあったのかという説明はつく。とはいえ、それだと何故、被害者たちがロープを持ちこんだのかという疑問が新たに生まれるが……。


「でも、被害者がロープを持ち込む理由って何?」

志帆はさっそく湧き出た疑問をぶつける。それに、要はそっけなくこう答えた。

「何って、ロープがないと首が括れないだろう?」


 あっさりと、しかし重大なことを要は言った。その瞬間、志帆は自分の立っていた足場が急に崩れていくのを感じていた。思わず大きな声が出る。


「何それ。じゃあ、もしかして……みんな自殺したってこと? え、でも第三の事件では被害者は確か後ろ手に縛られてから火を着けられて突き落とされたんじゃないの?」


 ささいな指摘で前提がひっくり返された形になっている。にもかかわらず自身も到達したこれまでの推理が正しいとするなら、ひどく混乱せざるを得ない。しかし、要は志帆の様子をよそに淡々と、

「最後の事件については誰かに後ろ手に縛ってもらえばいいだけだ。あとは自分で火をつけて飛び降りる。後ろ手でも、着火器具ぐらい使える。つまり、この場合は自身に火をつけたうえでの投身自殺だね」


 要の説明で、何故その事件だけが首を切ったうえで焼かなかったのかわかった。それはその必要がなかったからだったのか。そして、同時に志帆は気がつく。要があの防空壕跡近くの木で見つけた何かがこすったような跡も、ロープを括りつけた跡だったのだ。


「ということは、首を切ってそれを燃やしたのは、首を吊ったという跡を隠すためだったのね?」


 首についた縊死による索状痕を消すために首は切れ取られ、さらには燃やされたのだ。第二の現場で薬品が使われたのは、そこでどうしても首の表皮組織がついたりしたロープを焼かなければならなかったから。


 要は頷き、紙谷に再び視線を向ける。

「そして殺人であるということを強調するためでもあったんです。この事件のほとんど無駄ともいえる過剰な装飾性は、五つの自殺事件を一つの大きな連続殺人事件に仕立て上げるためのものだったわけなんですね」


 何なのよそれ……と思わず声が漏れる。要はその志帆の思いを察したように、

「別に志帆のたどった推理は間違いじゃない。僕も同じように推理して、そしてそこから気になった疑問から、この真相に到達したんだから」


「でも、紙谷さんが自分から罪を認めるようなことを言ってるのはどういう……」

 要は志帆の疑問に、暗い声で答える。

「ようするに、結局は最初に言った推理が現実になるんだよ」


「何なの、それ」

 言っている意味が分からなかった。要は紙谷を見据え、紙谷はさっきからただ面白い見世物でも見るような顔をしている。大きな口と、感情の読めない大きな目はやはりどこか蛇めいている。いや、違うこの表情は、いつか見た写真の中の少年、御堂司そのものではないのか。


「彼らが自殺であったということは証明できないし、物的証拠にも乏しい。それより紙谷さんが犯人とする物的証拠、被害者の首の頭髪なんかでもいいし、持ち物とかでもいい。それが紙谷さんの部屋から出てきて、彼が犯人だと主張し始めたらそれが真実になる。切り抜いたあとの新聞紙なんか恰好の証拠だろうね。あれとか、そのために今時あんな回りくどいことをしたんでしょ」


 理解がなかなか追いつかない。それではなんだ、紙谷はやってもいない、存在すらしない殺人事件の罪をかぶるというのか。


「意味わかんないよ。そんなことして何になるの。このままだと五人殺したことになるんだよ。それって下手したら死刑に――」


 はっとして志帆は紙谷を見る。相変わらずな表情が、志帆を迎える。そして、気がついた。

「死ぬつもりなの……? まさかそれが」

 言いよどむ志帆の続きを、要はさらりと言う。

「そう、それが紙谷さんの自殺の方法なんだよ。これまでの被害者とされた人間たちがそうしてきたように」


「何それ……バカ言わないでよ」

 急にどこか奇妙な場所に迷い込んだ気分になった。推理がもたらす、ねじ曲がった不可思議な世界。要も紙谷もそんな世界で奇妙な言葉をしゃべるいびつな生き物めいて見えるようだった。そして、ただただ、嫌な予感だけがみるみる大きく膨らんでいく。


「死刑になるのが自殺? なによそれ、そのために殺人事件として仕立てる意味なんて……」

 いったいどこにあるの、と志帆の声は訴えるような調子を帯びる。


「それはたぶん、単に自殺したとしたら自分の死があまりにも簡単に無視されるという事実を直視せざるを得なくなったから」

「……それって何、あの大量集団自殺のことを言ってるわけ?」

 そこで、志帆は気がつく。紙谷を見て、

「もしかして、紙谷さんたちも、あそこで自殺するつもりだった?」


「そうだ」

 答えたのは紙谷だった。短く答えた後、彼は続けていく。

「私たちは死に損ねたんだよ。本当はみんなあの山の中で死ぬはずだった。しかし、その前に事件が発覚した。私たちは、その後を――自分たちが死んでいたらどうなっていたかを見せつけられたわけだ。世の中に絶望し、自殺を選んだのに、死してなお社会に虐げられる。生きている人間たちに嫌悪された挙句、おざなりな憐憫とともに、あっという間に忘れられる」


 君もそうだったろう、と問われるような視線に志帆は少したじろぎながら、

「それが、理由だっていうんですか? そうなるはずだった自分たちの死が、目の前であまりにも簡単になかったこととして扱われたからだっていう」


「鉄塔山での自殺というのは、最初は一つの集団自殺に過ぎなかった。しかし、やがて意味を持ち始めた。積み重なる死。それは自殺者が最後に残す抗議のようなものを担っていくようになった。自分たちを追い詰め押しつぶす全てのものへの抗議でもあったのさ。量は力になる。自分たちの死の重なりは、生者たちへのカウンターだと、そうとらえられるようになっていった、特に最後の方の人間にとっては」


「それが、どうしてあんな殺人を装った自殺になるんですか」

 志帆の言葉に、紙谷は意外と物分かりがよくないな、とでも言いたげに、

「だからだよ。私たちにとって自殺は絶対条件だった。しかし、それがあまりにも世間にとって、一過性のショックでしかなく、根本的にはそれこそ意味ないものであるということを突きつけられた。だから私たちは、自分の死にまた違う決定的な意味を与えなくてはならなかった。より徹底的な意味づけを」


 だからこんな探偵小説じみた事件を起こした。紙谷や御堂にとって、この事件はただ派手に自殺するためのステージだったということなのか。


「本当にそれだけなんですか?」

 要の低い声が、告発するような響きを伴って紙谷に、そしてもうすでに居ない少年に向かって投げつけられる。


「自分たちを追い詰め、無視しつづける社会に自らの死をもって復讐しよう、はじめからそうやって自殺者たちを集め、そして今回の計画に移った。自分たちを殺されたものとして演出し、仮構された道化師という犯人で世間をいいように引きずり回してやろう――それは、あいつの計画の一部でしかない。そうじゃないんですか?」


「計画って……どういうことなの? そのためにあそこで自殺させてたって言うの」

 疑問を連発する志帆。要は志帆の混乱を整理するように、

「あいつは、御堂は最後に取り残される人間たちが欲しかったんだと思う。鉄塔山での自殺がある程度続いたところで御堂は、もしくは紙谷さんが途中で通報したんだろう。そして、残された人間たちを今回の“道化師”による事件に利用した。」


 そう、鋭く指摘した要に、紙谷は首肯して

「まあ、そうだね。長谷川君の自宅で押収させたノートとかだと最初から全部あつらえたみたいにしてたけど、実際はあそこで自殺を行うというグループをネットで見つけてから、あの山での集団自殺を本格的にプロデュースするようになったんだよ。そして、あの山で多くの死が集まるようにした。そしてそれが、生きている人間にとってとるに足らないものであることを、死にたいがそうできなかった者たちに見せつけることで、私たち本来の計画に誘導した。御堂以外の彼らが管理者のメンバーだっていうのはあくまでフェイクだよ」


「御堂とあなたの計画って何なんですか? 結局は同じようにして死ぬ以外に何があるっていうんです」

 要の問いに、紙谷がニヤリとした笑みを浮かべた。

「そこまではわからないのか。まあ、だからこそ、ここにいるんだろうけど」

 いぶかしむ要と志帆に、紙谷はことさら楽しそうに、

「結局、君たちもこの事件の周りの連中とそう変わらんよ。どんなにあれこれ推理しようが、当事者の心の中を理解はできない」

 志帆は、その言葉に奥歯を噛む。

「まあでも、それでいい。君たちは十分役割を果たしたよ。空木君の書きかけの小説が、御堂君によって現実になった。探偵小説が現実になったわけだ」


 ハッとするようにして、要が紙谷を見返していた。信じられないように。そして、同時に志帆も気がついていたのだ。


「これが、御堂やあなたがやりたかったことなんですか……こんなことが」

 要がうめくように言う。

「ただ、探偵小説的な事件を起こしてみたかったってこと……」

 つられるように出た志帆のつぶやきに、やはりわかってないな、というように紙谷は嗤いながら、

「探偵小説的な事件じゃない、彼が作りたかったのは、探偵小説そのものだ。奇怪な事件が起き、名探偵が謎を解く――そういう、現実ではありえない、フィクションそのものを世界のほんの片隅でもいい、ただ現実にさせたかったのさ」

「じゃあ、僕がした推理は……」

 紙谷は、今度こそ心底おかしそうに口の端を釣り上げた。


「そうだよ、全部あらかじめ用意されたものさ。探偵小説は解決されなくてはならないからね。そもそもおかしいと思わなかったかい? 推理だけで謎が解けるなんてさ」


「そんな……」呆然とつぶやく志帆。


「そうか、第二の事件の僕たちにしか認知されなかった密室――あれは明らかに僕らに向いてたんですね。わかりやすい謎で僕らを解決へと誘導していた。」


 無意味な密室の意味、それはトリックなどどうでもよく、ただ解かれるべきものとしてぶら下げておく必要があっただけだ。全ては作られた事件で、解決の道筋まで〝犯人〟につけられている。自分たちはまんまと彼らの〝名探偵役〟を果たしたというのか。だとすれば、それこそとんだ道化だ。


「本当に……自分が犯人だってことにするつもりなんですか」

 志帆は、声が大きくなるのを抑えられなかった。

「本当に死刑になるかもしれないのに」


「なるだろうね。面白半分で殺したことにするし、命乞いをする彼らを殺すのはとても楽しかったと証言するよ。物証も血の付いたナイフやら首を絞めたロープ――彼らの皮膚をこすりつけたものだけどね――の物証は揃えているし、世論が形成されれば、裁判員たちは心置きなく死刑判決を出すのに躊躇はしない。裁判所もそれを覆す可能性は低いだろうね」


 そうか、と要はつぶやいた。彼はひどく青ざめた顔になっていた。

「そうやって、あなたは自分を殺させる気なんですね――僕たちみんなに」

 要の言葉で、志帆は自分たちが知らず間に、とんでもない場所に追いやられていることに気づく。紙谷はくっくっと喉を鳴らした。


「ようやく気がついたかい。ここまでがプロローグ。君が書き、御堂君が現実に続けた小説のね。君の書きかけ小説そのものは、君を事件に引き込むためのものでもあったけど。そして、それが今ようやく終わったんだよ。そして、本当の殺人事件が始まる。みんなが、私を殺すんだ。自分が正しい側にいることを確信しながら」


「あなたがそうさせたんでしょ。私たちに勝手に罪を着せることが何になるっていうのよ」志帆は思わず語気が強くなる。

「そんなことのために、関係ない人だって死にかけた。矢津井君だって」

 いまでもあの赤い血の匂いと感触は志帆の中に残っている。矢津井があんなことになって、紙谷は何も思わないのだろうか。

 しかし、志帆の憤りを紙谷はどうでもよさそうに見やる。

「あれは想定外だったが、まあ、あれだってほかの連中にとっては盛り上がりの一つぐらいだっただろう」

「他の人なんかどうでもいいでしょ。あなたにとってどうなんですか」


 しかし、紙谷はひどく冷めた視線を崩さない。志帆はその瞳にこもる冷たさに、続けようとする言葉をつぶされる。この人は、本当になにも感じていないのかもしれない。自分が死ぬことくらいしか興味がないのか。


「僕にもよくわからない。あなたがどうしてそうやって死のうとするのか。いったいなぜなんです」

要は訴えるような視線を紙谷に向ける。


「罪を背負ってほしいからさ、お前たちに」

 道化師は笑いを消し去った。


「くだらない憶測、邪推や都合のいい情報を自分たちが望むように加工して食い散らかす餓鬼のような連中。正しい側にいるということを疑いもせずにいる奴ら。そんな奴らに罪を背負ってほしいのさ。どうせ連中をどうにかなんかできはしない。だから、そうするからにはせめて、罪人であってほしいわけだよ。空木君は御堂君が自殺者たちをそそのかしたといったが、彼らもまた選んだんだよ。君たちは笑うかもしれない、理解できないというかもしれない。しかし、それでも彼らは、必死だった。自分たちの作り上げた虚構が、自分たちを追い詰める現実を塗りつぶす。その徹底した虚構に、彼らは自分たちの命を懸けた」


「紙谷さんがこんなことをする、その塗りつぶすべき現実って、美月さん――御堂のお姉さんが関わっているってことなんですか?」


 要が口にした名前を、志帆はニュースやネットの情報で覚えていた。御堂美月――御堂司の姉で、二年前にストーカー被害で亡くなった、と。


「彼女は、私の高校の頃のクラスメイトだった。それだけだよ」

 そう言った紙谷だが、たぶんそれだけではないのだろう。

「彼女に非があったわけじゃない。男が一方的に付きまとい、身勝手な理由で心中しようと思いつめた挙句殺した。しかし、周りはそれを下らない憶測や、彼女に非があるような言葉を並べ立てた。そうやって死者を喰い散らかすおぞましい人間たち。何故、彼女が死ななくてはならなかったのか。彼女が死ぬ――特に理由もなく死ぬというこの現実が、私には滑稽に思えた。あの美術館での事件のとき、私は彼女の弟である御堂君と再会したんだよ。私たちはやがて会って話すようになった。彼もまた同じようなものを抱えていた。そうするうちに、御堂君が計画を持ち掛けてきたんだよ。彼がすべての青写真を作り上げたのは確かだ。そして私はそれに賛同する形で彼と一緒に計画を作り上げた」


「御堂は自分が犯人に――死刑になるのは難しいと踏んだから、あなたはそのためにあいつに引き込まれただけなんじゃないですか?」

 要の指摘を紙谷は意に介さず、

「そう思いたければ思えばいい。大きな存在がすべてを操っている――死んだ御堂司という人間が――それもいい。最後まで君たち好みの探偵小説じゃないか」

 そして紙谷は失望したように、志帆と要を一瞥いちべつする。


「結局、死者はキミら生きてる人間たちのエサでしかないんだろう。被害者が何故あらぬ噂を立てられ、何の関係もない連中に誹謗されなくてはならないのか、何も知りもせずに自分の思い込みや面白いストーリーに飛びついて思いつきをさも真実のように語る人間たちの存在。御堂君や私にとってこの世界は、そんな連中の出来の悪い虚構でいっぱいだった。その不出来な虚構を、まるごと自分たちの作る虚構で塗りつぶすこと。そして、その虚構の中で戯れるすべての人間に、罪を背負ってもらいたかったのさ。どのみちそれは続くだろうし、そうやって延々と続ければいい」


 志帆は何も言えなくなっている自分に気が付く。狂った論理――それは都合のいい言葉でしかない。むしろ、果たして紙谷は狂っているんだろうか。


 私たちはこの事件で何をしていただろう。日夜メディアに流される映像や真偽不明の情報に私たちは飢え、眺めている。それはまさしくサーカスで、今も何の屈託くったくもなく見て、無邪気に楽しんでいる。そしてサーカスは終わらない。おそらくまた私たちは、あいも変わらず、くり返し続けるのだ。


 志帆は途方とほうにくれる。自分は、そして要は真実を知ることでそんな場所から外へ放り出されてしまった。しかし、そんな疎外された場所で何かができるわけでもないのだ。人々が犯人の思惑に閉じ込められているのを眺めるしかない。まるで密室だ。観念が作り出す檻が、事件の外側にいると思い込んだ人間を閉じ込めている。そこから抜け出たところで、結局はそのだだっぴろい外側に閉じ込められているようなものなのだ。


「まあ、君たちはよくやってくれたよ。後は特等席から眺めていればいいだろう。ごく普通の人間とかいうやつらが、手前勝手な憎悪とともに私を殺すのを」


「そうなるとは限りませんよ」

 要はそう言って紙谷を見ていた。そこには、まだどこか意志の力が残っているようだった。

「まだ時間は残っています。あなたや御堂が望んだとおりにいくとはかぎらない」

 紙谷はやはり、ただにやりと笑う。

「可能性に賭けるってやつかい? しかし、何に賭ける? 人間の善性か? それとも真実を求める意思?」


「人はそれでも真実を知ろうとする意志があるはずです。だから僕はそれを書きます」

 要の言葉に、紙谷は一瞬何を言われたか分からないといった表情をした後、憐れむような笑みを見せた。心底、愚かだというように。


「ああ、ああ、書くがいいさ。それで何になる。君に何ができる。警察やマスコミに見せるか? それともネットにでも流すか? そんなもので何が変わる。人は自分が見たいもの、みんなで見たいものしか見ないよ。そして、一片の罪悪感もなく、そして一体感をもって嗤えるものを手放したりはしないものだ。自分はもしかして悪なのではないかなどと、考えたり指摘されることなど、怒りや嘲笑を買うだけだよ。君は何もできやしないさ、名探偵。何の力もないし、君の話を誰も真に受けはしない。みんなたわごとだと無視するだろう。その当のたわごとの中にいながら」


「それでも、僕にはそれしかできない。だからですよ」

 要は紙谷を見据えて言う。


「そんなもの、自分への慰めにしかなりえないだろう? そうすることで自分を救おうとしているだけだ。自分はあいつらとは違うのだという免責のためだ」

 紙谷はあざけるように言い、要はそれに負けじと返す。


「僕は、自分のできることを定めてそれをすると決めただけ。それに何の意味があるとか、それがどんなことになるのか、それは僕の及ぶところじゃない。この事件での僕がそうだったように」


「……まあ、やるがいいさ。君が終わっていないというならば、これからの始まりのためにせいぜい何かやってみろ」


 そこで、これでもう話すことはないとばかりに、紙谷は立ち上がった。

「君たちはよくやってくれたさ、名探偵。それじゃあ、さようならだな。道化師にはまた新しいサーカスが残っているからね」


 そう言い残し、紙谷はあっさりと二人の前から去っていった。夏の暑さでゆがむ空気の向こうへ、その黒い姿は店のドアをくぐって消えた。


「ねえ……どうなるの? これから」


 志帆は呆然となりながらも、要に尋ねる。要は口を引き結んだまま、何も答えない。志帆にとっては、この世界がいっぺんに変わり果てたもののように感じられた。異様な事態がこれから起ころうとしている。あってはならないことが。人々はそれを喜々としてやりおおせるのだろう。


「なるようにしかならないだろうね」

 志帆はすがるように、

「何とかできないのかな……」

「どうだろう。僕らの推理なんて、実際のところ無力だろうし。僕たちの話が立証できるだけの証拠があるかどうか。やっぱり、推理はそれだけでは無力だ」


 なんだか突き放すような言い方だったが、志帆は何も言い返せない。そう言っている要が、一番無力感にとらわれているだろうから。


「それで、カナは書くってわけ? ……それは、何かを変えられるかな」

「それは分からない。誰かに伝わったとしてもどうにもならないのかもしれない。別に人を信じているわけでもないし。ただ……真実を書き留めておきたいだけなんだよ、きっと」

「私も手伝うよ、それ」


 要の決断を志帆は支持しつつ、しかし、これでいいのだろうかという思いがぐるぐると渦巻く。しかし、それでも、自分たちにはそれくらいしかできそうにない。

 道化師は去り、そこに残された虚無を穴埋めするような行為でしかないような、無意味の中にある意味を探すこと。それは希望でも何でもないのかもしれない。


 虚構の中の探偵、そして記述者。そんな役割を押し付けられた要は、その気難しげな表情を紙谷が去ったドアの先に向けていた。外は相変わらずの熱が渦巻いているだろう。


 いつもまでも終わらないような暑さ。狂った熱気が街をまた包み始める。それを見つめるような要の視線は、その向こうに消えた少年を見ているようだった。

 

 夏はまだ、終わりそうにない。

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