第2話 「夏と廃墟と死体の跡」:空木要(2)
あまり気乗りせずに、矢津井の後に続いた要だったが、店の外に出た途端、一気に後悔が押し寄せてきた。原因は喫茶店にいる間すっかり忘れていた暑さだった。
外は夏の太陽の光で溢れ、その容赦の無い刃めいた光は、肌へと直に焼きつくような感覚がするほどだった。
「昨日よりも暑いんじゃないの、これ。ここのところ、雨も全然降らないし、どうなってるのよ」
志帆も要同様、さっそく後悔したらしく、うんざりしたように愚痴りだし、かぶっていた青と白のチェック柄のキャスケットをずらしては、しきりにハンカチで額の汗をぬぐっている。いつもはポニーテールにしていた髪を、暑いという理由で夏休み前にバッサリ切っていたが、とりあえずボブカットも似合っているように要は思う。
「何を言っている、今日は涼しい方だろ」
二人の先を行く矢津井が、振り返るとしれっとした顔で言う。
「昨日の最高気温は三十六度。今日は三十三度ということだから間違いない」
「ああ、ハイハイ」
「よかったな」
志帆と要の冷ややかな返事を投げつけられつつも、矢津井は構うことなく張り切った足取りで進んでいく。色白で(今は海水浴にでも行ったのか真っ赤だったが)ひょろっとした体つきのくせに、いつもながら元気のいい男だ。この暑さの中でも、特にめげるような様子はない。
要は、そんな矢津井を恨めし気に見て、そしてそのまま空を見上げた。まったく呆れるくらいに真っ青で、我が物顔の太陽が、迷惑極まりない熱量の光をまき散らしている。家々の屋根瓦は、その光を受けて、てらてらと光り、『止まれ』の道路標識もやけに白くくっきりと輝いている。気がつくと両の腕には、滲み出た汗が無数の小さな玉となって並んでいた。
要たち三人が進んでいく住宅地の狭い路地には、ひとけは皆無で、窮屈そうに並んだ電柱たちが濃い影を落としているのみだった。電柱にへばりついていた間抜けな蝉が、通り過ぎる間際にバカでかい鳴き声を張り上げ、要は顔をしかめる。
「あーあ、今日は伯母さんとこから借りた本読もうと思ってたのに……矢津井君に乗せられたとはいえ、私も物好きだよ、まったく」
志帆が勢いでつきあうことになった顛末を反省するように愚痴る。
「でもまあ、なんかいかにもな探偵小説って感じの怪しさは気になるけど。にしても、あの小説にあった張り紙とか、殺人ピエロの噂とか、最近実際に起こってるけど、人の小説ネタにしてるとしたら、なんかヤバくない?」
「まあ……」要はあいまいに濁す。小説に書かれていたことが偶然起こるなんてことはないので、おそらく御堂自身が行っているということだ。確かにヤバイが、実のところ、御堂司という人間はそういうことを平気でやりかねないところを否定できない。
志帆は、そんな要の内心を見て取ったのか、それ以上は突っ込まずに、
「そういえば、中学生の時の同好会って、それどんな感じだったの?」
志帆の質問に、一瞬どんなふうにこたえようかと、要は迷う。とりあえず出てきた言葉が、
「御堂が作った御堂の会……かな」
何それ、と怪訝そうな顔をする志帆に、要は続けて、
「なんだろう……やってたことは、今の僕らとそんなに変わらない。読んだ本のことで駄弁ったり、書いた小説見せ合ったり。非公式の文芸部ということで文芸倶楽部なんて言ってたけど。ようはまあ、探偵小説とか、SFやホラーとか、そういう偏った趣味の連中の集まりで、メンバーは僕や矢津井を入れて全部で七人。全員が御堂に引き入れられる形で集まった、というか集められた。中学を卒業して、僕と矢津井は稲生高校。御堂を含めて残りは志帆と同じ四ッ谷高校だけど、今どうしてるかはよく知らない」
要と矢津井が通う稲生高校は、この稲生市で一番古い公立高校だ。いまだに廊下が板張りで、ゆっくり歩いても、えらい音がするほどだが、改装の予定などはたぶんない。反対に、私立四ッ谷高校は校内にカフェがあったりする新しめの雰囲気をまとっている高校だ。
「俺はあいつ、胡散臭い奴だと思ってたけどな。どうせまた、人を集めて妙な考えをペラペラ語ってるんじゃねえの」
矢津井が、今度は振り返ることなく、ぶっきらぼうに言う。矢津井は御堂に対して、あまり反発心を隠さない。それは、同い年にしては妙に知識を溜め込んでいて、よく舌の回る御堂への子供じみた対抗心だったと要はひそかに思っているのだが。
要や矢津井が御堂とともに所属していた小説同好会――通称文芸倶楽部は、全員が偏屈な人間たちの集まりで、みな御堂に誘われる形で集まった。だから、いつもその中心は御堂だった。どこか、妙にいつも楽しげで、ニコニコとニヤニヤの中間みたいな笑顔を浮かべた彼は、要をはじめとした倶楽部のメンバーたちの居場所の象徴のようなものだった。
「富田はやっぱり、まだ御堂と集まりを作ってたのかな」
要の問いに、矢津井は首をひねる。
「いや、どうも違うようだったな。昔から、富田は一人で距離を置いていることが多かったし、最近はほとんど一緒にいるようなことはなかったと言ってたぜ。それなのに急に映画を撮るとか言って引っ張り出されたみたいなんだが」
「で、その映画のタイトルとかは聞いてるのか?」
しかし矢津井はまたも、首をひねって、さあ、と言うだけだった。
「そもそも富田も聞いてないらしい。御堂は別に無くていいと言ってたそうだが……。ああ、それから空木の原稿を渡した時に、これが始まりだとか言ってたらしい。これからはこの文字の最後から生まれる虚構になるんだ、とかなんとか……例によってまたあのニヤニヤ笑いでさ。しかし、人の原稿使っといて何言ってんだかな」
矢津井は、どこか嘲るように言うが、要はなんだかちょっとぞくりとした。それは矢津井の言葉によって、要の中で御堂が甦ったからだった。美術館での一件で、中学以来の短い再会を果たし、そしてまたそれっきりになっていた自分の中での御堂司が再び、笑いかけてくるような気がしたのだ。
「ふーん、ヘンな人。やっぱり二人の同類っぽいじゃない」
そこへあっけらかんとした志帆の言葉がふってきた。それは、要の中に再びもたげてきたものを少し吹き飛ばすようなものがあって、要は思わず苦笑する。一方、矢津井は、あんなふざけた笑い男と一緒にしてほしくないな、と顔をしかめた。
とはいえ、御堂と離れても要たちは結局、御堂とやっていた部とも言えないような本好きの集まりの縮小版を作っているわけだった。
空木要、矢津井惣太、早瀬志帆は三人とも高校二年生で探偵小説をはじめとする、いささかレトロなミステリを好む人間たちだ。と言っても、別に何か団体名を名乗って仰々しく探偵小説の愛好家を標榜しているわけでもない。そもそもが、活動らしいことは何もしていない。やってることと言えば、今は要と志帆の伯母の家になっているかつての家主――二人の祖父が蔵に納めた膨大な探偵小説や雑誌、はては同好の志で編んだらしい同人誌を漁ったりするのをはじめとして、読んだ本の話で延々だべったり、たまに書く犯人あて小説やら評論を見せ合うくらいだ。先ほどいた喫茶店『一圓銀貨』は、よく犯人あて小説の発表場になったりしている。とはいえ、小説を書くのはもっぱら矢津井と志帆で、要は中学の時以来、小説らしきものは書いていないのだが。
要と矢津井は、中学生の時に知り合って以来の仲だ。そこへ高校生になってこの稲生市に引っ越してきた要のいとこである志帆もまた、探偵小説好きということもあってなんとなく加わり、今の形になっている。
とはいえ、志帆の学校が二人と違うということもあり、何とか部やら団やらという団体名を名乗ることもなく、何となくの気ままな集まりとなっている。
「なんか、話聞いてると、私としてはますます胡散臭くなってきてるんだけど。行ったところで、くたびれ損とかなんじゃないの。タチの悪いいたずらよ」
「早瀬、そんなこと言って、やっぱ怖いんじゃねーの?」
志帆は無言で矢津井の背中をはたく。矢津井は派手なうめき声をあげて、体をそらせた。その妙なポーズを見ながら志帆は吹き出していた。
「痛って! やめろって、おととい海に行って、背中ヒリヒリしてんだから」
「なんかドッキリが仕掛けてあって、矢津井君の間抜け顔が、隠してあったカメラなんかで撮られなきゃいいけどねー。ああでも、今みたいな感じで叫んで飛び上がる姿、もっと派手なのが見れたら面白いかも」
「お前こそ、頼むからビビッて俺の腕とか掴んだり、しがみついたりするんじゃねーぞ」
「矢津井君の方が、そういうのにかこつけて私の体に触ってきたりしそうなのよね」
「しねーよ! 」
暑いなかギャーギャー言い合いだす二人をよそに、要は少しでも陰になっている場所を選びながら歩くことに専念する。とはいえ、頬には汗がつたう。なんにせよ、やはり暑い。
閑散とした道路を抜け、やがて要たちは例の工場跡地へと続く赤土の坂を上り始める。ここにたどり着くころには、人家はまばらとなり、辺りは青々とした竹林や雑木林が目に付き始めてくる。だらだらとしたこの坂道に沿って、ヒョロッとした木製の電柱が続いていく。ちなみに、この坂のことは百足坂とか呼ばれているらしい。理由は不明だが、初めて聞いたとき、矢津井が「病院坂」とか「暗闇坂」とかみたいだとはしゃいでいたのが思い出される。
それにしても、一帯は街の中よりセミの鳴き声がより大きく響いていて、煩わしいことこのうえなかった。耳の中から頭の中へとじくじくしみ込んでくるようだ。
「さて、ようやく到着だ」
右手に現れた廃工場の門を前に、腰に両手を当てた矢津井が言う。
その先にある一夫書房には、今でもたまに通うこともあるが、その途中にあるこの工場跡――どうやら板金工場だったらしい――を改めて見るのは久しぶりで、目を細めて中をうかがう。そういえば中学時代に矢津井や御堂とともに、廃墟巡りと称して入り込んだことが思い出される。
長い風雨に時代がつき、朽ちかけ、廃屋となったこの灰色の建物――。富田の体験談のせいか、まばゆい光の中にあっても何かしら不吉な影を背負っているように感じてしまう。
「ちッ、これ以上は開かないみたいだな」
門の鉄柵に手をかけて、矢津井は引っ張ってみるが、びくともしない。鉄柵の熱にアッチチチ、と言いながら掌についた赤錆を払うと、あきらめた様に、
「しょうがないな、このまま入るか」
肩から門の隙間に体を通して入っていく。次いで志帆、要が続いた。
工場の敷地内は、当然のことながら、ひとけは無い。荒れ放題で、青々とした夏草が我が物顔で茂っている。所々ひび割れたコンクリートの割れ目からも勢いよく草色が吹き出し、その人工と自然のコントラストが寂寥感をあおる。
「とりあえず、原稿どおりに辿ってみるか」
矢津井の提案に、要と志帆も特に異論はなく、そのまま矢津井の後に続いていく。
要たちはまず、手前にあった小さなプレハブ事務所とその後ろの工場との間を通り抜けていこうとするが、
「あれ――」
矢津井が突然声を上げ、立ち止まった。
「この窓、割れてるな」
プレハブ事務所の入り口のドア、そのすぐ横に窓があり、引き違いの二枚ガラスの手前側――クレッセント錠付近のガラスが何か硬い物で殴られたように割れ、ギザギザの穴が開いていた。よく見るとクレッセント錠は半月部がストッパーから外されている。
「ちょっと、これ、血じゃないの……」
志帆の声を潜めるようにつぶやきに、要は改めてガラスを見る。
割れた穴の横に指で擦りつけたような、さび色の跡が流れていた。
「おいおい、マジかよ……」矢津井の声にも少し強張りが混じる。
要は割れたガラスのふちを観察するが、特に血の跡などはない。割った時に傷がついた、ということではないようだった。どうやら意図的に血を擦りつけたようだ。
ガラス越しに中を覗き込んでみる。中は荒らされたような様子は特にない。がっしりとして年季の入った鉄製のデスクと、破れてスポンジ部分が露わになっているパイプ椅子が数脚、転がっているのがまず目についた。他には、奥に空のボール箱が二、三箱転がっているのが見えるだけ――。
「なんだ、あれ……」
要がデスクの一つに置いてあったものに目をとめた。三角形の頂点に丸い――ピエロが被るあの三角帽。
ふいに横の矢津井が急に身を乗り出す。
「わっ、なに……」
矢津井のにゅっとした急な動きに、志帆が少しびっくりしたような声を出す。
矢津井はドアノブをひねるが、鍵が掛かっているらしく、ドアは動かない。そこですぐに、窓のサッシに手をかけた。アルミサッシのカラカラという乾いた音。そして室内の熱くこもっていた空気が、ゆっくりとこちらに漂ってくる。
「よっと」
「ん……なんだ、これ」
帽子の下から出てきたのは小さな紙きれのようだった。それを手に取り、矢津井は開く。
「それ、何なの、何か書いてあった?」
紙片に目を落としている矢津井に志帆が声をかけるが、
「……何か、変な紙だ」
矢津井は曖昧な返事を返すに留まり、今度はデスクの引き出しを次々と引いて、中身を確かめだしていく。
「他には……なんも無いな」
もう一度、室内を確かめる様に見回すと、今度は鍵を開けてドアの方から出てきた。
「しかし、中暑いな。ムシムシしすぎて、外が涼しいくらいだ」
汗でずれたらしいメガネをかけ直し、溜息をつくように息を吐く。
「結局、なんだったの、その紙」志帆がじれったそうにもう一度聞く。
「うーん、なんだろうな、これ。確かに何か書いてあるんだが、意味がよく分からん」
要は志帆と一緒に矢津井の手にある紙片を覗き込む。それは、二つ折りにされていたハガキ大の紙で、そこに定規を当てて書いたらしい、妙にカクカクした赤い文字が引っ掻き傷のように並んでいた。
『道化師のジャグリング。バラバラ、バラバラ飛び散る死体。けれど首だけ見つからない。首はどこ? 首はピエロのなか』
「なにこれ、意味わからないし。なんか気味ワル……」
志帆は顔を顰めて紙面の赤い文字列を見つめている。
「でも、何かあるぜ、これ。ピエロ――富田の話に関係があるだろきっと。まあ、とにかくこの紙切れのことは後にして、とりあえず富田がピエロに遭遇したらしきところに行こう」
そう言う矢津井を再び先頭にして、要たちは工場の裏手へと足を向けた。事務所と工場の間を抜け、右へと工場の角を回る。小説と同じように、途中にあった窓のすりガラスが割れていて、中の暗がりに薄く光が入っている。その光で、細かな埃がゆらめいていた。
要は妙な気分になる。自分の小説の中に入り込んでいくような、見たことがないはずなのに知っているような感覚に戸惑いを覚える。ほとんど忘れていた内容が、強制的に思い出されていく気味の悪い感覚。
横の志帆が、二の腕をさすりながら、
「正直、嫌な予感がするんだけど」
「なんだ、早瀬、やっぱりビビッてるんじゃないのか」
すかさず矢津井が茶化すが、その声にもあまり力はない。
「静かに。何か聞こえる……」
要は、少し前から何か音がするのに気がついていた。セミの合唱の合間に微かに聞こえてくるノイズのような音。……耳障りな羽音。
これは、まさか……。
蠅の羽音だということをはっきりと認識した時には、要たちはもうそれを見つけていた。富田がピエロに遭遇したと思しき場所に広がる、赤黒いものを。
「これって、血……だよね」志帆が少し乾いた声で呟く。
生い茂る草の一帯が倒れるようになっていて、そこに大量の赤黒い色がこびりつき、蠅たちが耳障りな音を立てて飛び回っている。
「だろうね……。まさかペンキじゃあるまいし」
そもそも黙っていても臭いが鼻を衝く。
要は屈みこむと、赤黒いシミを観察する。纏わりつこうとする蠅を払いながら、
「どう見ても血液だと思うけど……。結構な量だし人間の物かもしれない。これは、骨か? で、こっちにあるのは……たぶん肉……」
「ここで解体したんだな。ピエロの奴が」
矢津井も同じように屈みこみ、断言するように言う。
「本当に殺人ピエロが現れた……のか?」
過去に自分が書いていた原稿の内容、それが急に現実になってしまったようで、何か禍々しいものに侵食されていくような感覚が要を包む。ほかの二人も似たような思いを抱いているかもしれない。
要たちは、それからしばらくは口を交わすこともなく、赤黒い血痕を前に押し黙ってしまう。
「死体は……無いよね」
ぽつりと志帆がこぼし、あたりをうかがい始める。それに釣られたように、要と矢津井も周囲を見回す。しかし幸い、と言うべきか、それらしきものが目に入ることはなかった。
じりじりと光と熱が力を増すなか、青々とした草のむせ返るような青臭さも濃くなっていく。それが、要にはただただ、気味の悪いものに感じられてならなかった。その草むらの間から、今にもピエロが首だけ覗かせて、ゲラゲラ笑いだすんじゃないか、そんな空想が、頭に浮かび上がる。
何かが起こり始めている。前兆は目の前の光景によって終わり、より邪悪なモノの始まりが、宣言されている気がした。
相変わらず、セミの鳴き声はワシャワシャと沈黙の空間を埋めていく。つつ、と要の首筋を汗が伝っていった。その軌跡はなんだか、ひどく冷たい気がした。
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