プロローグ

プロローグ


 黄昏ゆく街のはずれ――雑木林に囲まれた赤土の坂を、一人の少年が早足に下っていた。だらだらと続く坂。傾く夕陽が空と雲を柔らかい色に染める。あたりにはヒグラシの声が満ち、時折駆け抜ける風が、じりじりとした空気を一瞬だけだが払ってくれる。


 少年の少し先を小さな雑種の子犬が、リードを引っ張るようにして進んでいく。臆病なくせに好奇心だけはやたらと強く、けれどそこが愛嬌になっている毛むくじゃらの腕白だ。せわしなく足を動かし、楽しげに土を蹴っている。


 ――それにしても、今日は運がいい。


 肩に提げた、古ぼけた黒い鞄に視線を落とすと、少年の顔は思わずほころぶ。前々から手に入れたかった絶版本が三冊も手に入るなんて、さすが一夫書房。散歩のついでだったが、わざわざ遠出をした甲斐があったというもの。ほとんどひと気が無く、客が容易に寄り着かなさそうな場所に建っているが、うるさそうな老人が営んでいるだけあってか、なかなか充実した品揃えの古書店なのだ。とはいえ、こう収穫があるなんてめったにあることではない。


 頭にインプットされていた題名と、背表紙のそれが一致する瞬間、古臭い書物がかけがえのないものに見えてくる。古書を漁る人間にとってもっとも興奮する瞬間。いつだってこの体験は新鮮だ。


――早く帰って読みたい。


どれから読もうか。はやる気持ちに比例するように、足の動きも早くなる。――が、急にその動きが止まる。いや、止められたのだ。


「おい、チェコ、どうした?」

 リードに引っかかりを覚え、気が付いたら先を行っていたはずの飼い犬を追い越していた。


 何故か足を止めた子犬は、どこか訝しげに小鼻をピクピクさせている。


 少年の左手側には、コンクリートの塀が坂に沿ってのびていた。その向こう側にはだいぶ昔に閉じられた工場跡が広がっている。小さく黒ずんだ建物が、どこかあきらめたようにうずくまり、塀の内側にはすでに、一足早く闇が溜まりこんでいるようだった。


 子犬は塀の向こうに対し、何かを感じ取っているらしい。少年のほうを見て、訴えるように小さく吠える。そして、今度はいきなり少年を引っ張るように走り出した。


「お、おい、なんだよ」

 戸惑う少年をよそに、子犬は工場跡の入り口に主人を引っ張っていく。左右にスライドするような鉄の格子門があり、近づくと、ひと一人通れそうなくらいの隙間が開いている。


「ちょっと待て。待てってば。どうしたんだよ」

 そこを通って中に入ろうとする子犬を慌てて制すが、子犬は五月蝿そうにちらりと振り返っただけで、少年をひっぱるのをやめようとはしなかった。


 何か変だ――。という思いが浮かばなかったわけではない。とはいえ、それはごく僅か一瞬のことで、どうせまだ遊び足りないかどうかして帰りたくないだけなんだろう、と少年はそう片付けてしまった。


 ――まあ、長い間店の前で大人しくしてもらったわけだし、ちょっとくらいは付き合ってやるか。


 もう少し通りやすいよう、少年は腐食の激しい格子の一本に手をかけて横に引いてみる。しかし、それ以上はびくともせず、仕方なしに肩のほうから門扉の隙間へ体をねじ入れた。


 工場の敷地内に入ると、子犬は急かすようにいっそう強く少年を引っ張る。

 入るとすぐ正面にある、小さな事務所のようなプレハブ小屋の脇を通り、その背後に位置する工場との間へ曲がりこむ。そこを抜けると、ちょっとした空間が広がっていた。地面はコンクリートで舗装されていたが、今はところどころ破れ、夏草がすごい勢いで顔を出している。


 子犬は、今度は右へと曲がり、工場に沿うようにして少年を引っ張っていく。ようやく、少年は何か変だと思い始めた。どうやらどこかに導こうとしているらしい。


 それにしても――と、少年は思う。このトタン造りの貧相な建物は、なんだか甲虫の死骸を思い起こさせる。黒ずんだ壁面にびっしりとこびりついたコケや、割れたすりガラスの隙間から見える建物内のガランとした沈黙は、そんな連想を強調させる。

 打ち捨てられた建物に特有の陰鬱な空気を、少年は今更ながらに意識させられた。そして、そこから不安が流れ込む。


〝そういえば最近この町に不審者が現れるらしいな〟

 友人の言葉が、にわかに少年の頭の中に立ち現れた。

〝いや、まあ、あくまで出るってのは噂で、俺も見たことないし、噂っていってもウソ臭い都市伝説みたいなもんなんだけどさ〟


 友人はそう前置きしたが、確かにそれはその場で聞いた限りにおいては、取るに足りない噂話の類でしかなかった。ただ、後に別の知り合いからも同じ話を聞いたので、案外ひろく広まっている噂だと分かったのだが。


〝奇妙なことに、そいつピエロの格好をしているっていうんだよ〟

 そう言った時の、細身の眼鏡越しに見える友人の目は、ウソ臭いと言うわりには、面白がるような輝きを見せていた。


 ――ピエロ! まったく、しょうもない話だ。その友人が好きそうな古臭い探偵小説じゃあるまいし。しかし、そんな噂が自分達の学校だけでなく、町中で広がっているというのだから、何だかよく分からない。


 その噂は、いつの間にか広まっていたのだ。気がついてみたら、その話を知っている人間が、自分の周りに増えていたという感じだった。


 いったい、何処からどうやって広まっていったのか、それは曖昧模糊としていてはっきりしない。その友人の場合は、クラスの女子が話していたのを耳にしたということだった。


 街なかに出没するらしいピエロを、いったいどこの誰が目撃したのか、もちろんそんな具体的な話は上がってこない。どこそこのお婆さんが買い物帰りに見ただとか、学校帰りの小学生だとか、後は誰々の友達、もしくは知り合いといった噂にありがちなパターンを踏襲している。


 そして、その噂自体の具体的な内容というと、実際のところ特に面白いわけでもないのだ。


 ――黄昏時、ひと気のない路地を歩いていると、路地の影から湧くようにしてピエロは現れるという。赤い水玉模様のだぶだぶとした服、モジャモジャの金髪かつらに三角帽。顔にはメイクではなく、泣き笑いのペイントをほどこした仮面を被り、出会った者にただその姿を見せ付けるようにヒョコヒョコと飛び跳ねてみせる――ようは、それだけの話だ。それが何故、ここまで噂としての広がりを見せたのか、少年には不可解であった。


 しかし、この噂には、背後にとある実際の出来事が支えとして存在していることは容易に想像できた。


 その実際の事件――これがまた奇妙というか、よく判らない事件だった。事件自体はたいした内容ではない。ただ、町中に変な張り紙がベタベタと貼り付けられていたというだけの話だ。電柱やコンクリート塀、道路標識にミラー、公衆トイレの鏡、はたまた街の掲示板にまで。


 張り紙の内容は、この街でサーカスの興行を予告するポスターのようなものだった。時や場所、演目などといったものは一切なく、ただ歯をむき出しにして笑う気味の悪いピエロの絵と、ただ赤い文字で道化師のサーカスがやってくる、とだけ書かれていたという。地方局のニュースで、悪質な悪戯としてちらりと報道されただけだったが、知っている人間は多いようだった。少年自身、見たことはなかったが、実際に張り紙を目にした奴を何人か知っている。ただの悪戯にしては、なんだかいやに気味の悪い事件ではあった。


 そういえば、最近、流れる噂の内容が若干変化している。それは最後の部分なのだが、ピエロを見た人間は、その後ピエロに付きまとわれたうえ、斧か何かで殺されるのだという――いや、もしくはその場で惨殺されるのだったか。いずれにせよ、陳腐な尾ひれが付いたものだ。


 少年はそう、馬鹿にしたように思っていたのだが……。

 ――ガサリ、と音がした。


 少年の体が、一気に引きつる。野良猫? それとも野良犬? いや、そんな小さな生き物が動く音ではない。もっと大きな……そう、例えば人間の足音――。

それは、もう少し先――工場の角を回った向こう側から聞こえてきた。


 こんな場所にどうして人がいるのか。単なる物好き? 廃墟マニアというやつ? それとも遊び盛りの小学生か……。しかし、そのどれでもないことを、少年はなんとなく本能のようなもので確信していた。


 だが、彼の飼い犬は相変わらず少年を引っ張るままだ。そういえばさっきからしきりに鼻をクンクンさせている。少年も釣られるように鼻をヒクつかせる。すると、自分にも分かるくらい何かが臭ってきた……ような気がした。


 あれ、これってもしかすると……。


 はっきりと気がつく前に、少年は角を曲がってしまっていた。

途端に、少年は目をいっぱいに見開いたまま、その動きを完全に止める。大きめの鼻の先を、滲み出た汗がゆっくり滑り落ちていく。


 目の前に、ピエロがいた――。


 赤い水玉模様のダブついた服を着て、モジャモジャの金髪に三角帽。そして、泣き笑いの笑みを浮かべる白くのっぺりとした仮面。噂のままの格好をしたピエロが、そこにいた。


 だが、本来のサーカスにおけるピエロのように、観客を笑わせ、幕間をにぎわせる本来の姿から、それは程遠いものだった。なにせ、ピエロはその右手に人間の生首をつかんでいたのだから。服には赤い水玉模様以上に、赤いものが目立つ。

そして、鼻腔を突き上げるように襲い掛かる血のにおい。


「ふぁ、あ、ああ……あ……」

 間の抜けた、空気のような声しか喉を通っていかない。肌の表面はひどくじりじりとしているのに、体の芯はひどく冷え冷えとしている。来ていたTシャツが、背中にべったりと張り付くのを、はっきりと感じた。


 ここまで少年を引っ張ってきた子犬はというと、彼自身にとっても、これは想定外のことだったのか、吠えようともせず、あろうことか少年の後ろへと怯えたように身を隠してしまっていた。


 幽鬼のごとく立つ、不吉の塊のようなピエロ。そいつが髪を引っつかんで手に持つ生首は、もちろんマネキンなんかではない。それは、自身とそう変わらない年恰好の、少年の首――。


 その表情は目を閉じているにしても、いやに安らかな感じがしていたし、口元も何故か笑っているように見えた。切断したばかりなのか、首の下からポタポタと滴る血液がひどく生々しい。だからだろうか、その表情はよけい異様な感じがした。


 何なんだ、何なんだ、何なんだよ――。乱れるように揺れる少年の視線が、ピエロの背後に放り出されたモノをとらえた。両手両足がすでに切断され、無造作に放り出されている、それを。


 切断面からトロリとたれる、赤黒い糊のような血。白く尖った骨。そして滲み出す黄色い脂肪らしきもの。その解体された死体は、圧倒的にただの物体と化した人間の残骸だった。


 少年はひたすらぶるぶると震えていた。体じゅうの筋繊維がひきつけをおこしたように、ぎこちない振動が全身に走る。指先が、ひどく冷たかった。


 ――恐怖。かつてない恐怖が、脳内を真っ赤に染める。


 少年がひどい恐慌をきたすなか、ふと、ピエロの左手が動く。ダブついた服の大きなポケットからさっと取り出したもの。それは一本の、赤と白の縞模様のクラブだった。


 そして、次の瞬間、突拍子もないことが始まった。ピエロは、その道化師自身のような模様のクラブと、つかんだ首とを交互にヒョイ、ヒョイ、と宙に放る――いわゆるジャグリングを始めたのだった。


 ピエロがジャグリング。当たり前といえば当たり前なはずなのに、それはあまりにも異様な芸だった。だいぶ重量差があるはずなのに、ピエロは器用にもそれらを宙に舞わせていく。その、あまりにも調子っぱずれなジャグリングが、少年の目の前で繰り広げられていた。


 放り上げられる度に、首の切断面から血が飛び散っていく。ピエロに、そして、少年に。


 頬にかかる血液のぬらぬらとした感触。はっきりと鼻をつく生臭いにおい。宙に踊る死者の髪が、生き物のようにうごめく。


 悪魔のジャグリング――。そうとしか言いようのないものだった。


 なんだかそれは、少年に、というよりは黄昏――これからさらに染み出てくるであろう闇に披露せんとしているようだった。


「う……ひゃぁぁぁあああぁぁぁあああぁぁ!!」

 理性のタガが外れたかのように、少年は悲鳴を上げた。


 すると、今度はピエロが首とクラブを放り出し、突として、それこそ狂ったように笑い出した。


「ヒッヒッヒ。ヒャヒャハ、ハハハッ。ヒィー、ヒッヒッヒッヒヒヒ」

 ――悪魔だ、悪鬼だ、妖魔だ、魔物だ。

 混乱し、堂々巡りし始めた少年の思考が、やがて一つの像を結ぶ。


 ――地獄の道化師。


 日本の探偵小説の祖による血みどろの猟奇曼荼羅さながらのピエロは、なおも笑い続ける。


 ――殺される。


 純粋にそう、少年は思った。沸騰するように沸きあがった切実なる恐怖。それが、ようやく少年の体を動かした。


 自分でも理解不能な奇声を発し、あらん限りの力で目の前のものを振り切ろうと、地を蹴った。リードなどはすっかり放り出し、むちゃくちゃに走り出す。もはや、飼い犬のことなど頭になかった。


 工場から走り出るとき、門にしたたか肩を打ちつけたが、かまわずそのまま坂を駆け抜けた。幾度となく前につんのめりそうになったが、そんなことはかまいやしない。全身の細胞という細胞が興奮し、熱を帯び、ひたすら頭の中で逃げろ、逃げろ、という言葉だけが跳ね返っているだけだった。


 少年は走り続けた。立ち止まることはもちろん、背後を振り返って確かめることなど、恐ろしくてできっこなかった。何処まで走っても、あの気持ちの悪い哄笑が背中に張り付いているようで、振り返るとピエロがすぐそこで大きな口を開けているのではないかと思えてならなかった。


 少年はなおも走り続けた。延々と――だが、走っても、走っても、その圧倒的な恐怖が振り拭われることは、ついぞないのだった。

 

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