猫猫

私誰 待文

猫、

 吾輩は猫である。名前は猫である。

 私の名前はねこであり、今年の秋に19歳になる大学生である。


 私は帰路を歩いていた。親元を離れ都会で始まった一人暮らしは思ったより精神に応えたらしく、上京して二ヶ月目に私は身体を壊した。

 体を動かせないことはもどかしいが、何もしないとしても無用の焦りを生じさせる。


 だから私は、今日から日記をつけることにした。

 数少ない私の楽しみ。B5判の大学ノートを一冊買ってある。内容については、まだ決めていない。


 今朝の天気予報では、午後から曇天が広がり、本格的な梅雨の訪れだと報じていた。結果として、今の空は暗雲に覆われている。小雨から始まった雨の手はすぐに街を襲い、犬や猫さえ降ってきそうな豪雨に変貌した。私も私以外の誰かも皆一様に、雨傘を咲かせて帰路を急ぐほかない。

 現に私も、街を行き交う人波に沿うように、透明の傘を掲げて自宅へ帰っている。


 雨は一向に勢いの衰える様子はない。私の家が近づくにつれて人影は散漫し、路地を一つ曲がった後は人の子一人すれ違わなかった。


 だが、猫がいた。あのネコ科に属する黒毛の猫。


 黒猫は長靴を履いていないにも関わらず直立二足で歩いていた。猫の眼の先には、雨に打たれて苔色にくたびれた段ボール箱が一つある。


 私はぴんと起立する黒猫に目を奪われていた。しばらくすると、廊下掃除の雑巾みたくずぶ濡れになった黒猫は私の視線に気づく。

 猫はきゅうりを見つけた瞬間みたく身の丈ほど跳ね飛んだ。それから二足歩行で器用に私の前を横切ると、水分を吸って耐久性の死んだ段ボールを船舶の方向転換みたいにひっくり返した。

 段ボールの側面に書かれた手書き文字を口にしてみる。


「『ひろってください』……」


 黒猫は段ボールの中へひょいと飛び込むと、一部始終を眺めていた私に向けて、琥珀色の幼児じみた両目をこちらへ再び向けた。


「ただいま」

 どうして誰もいないのに、ただいまと言ってしまうのだろう。すっかり身に染みた一人での帰宅だが、今回ばかりは事情が違う。

 私は腕に抱えたずぶ濡れの黒猫を風呂場へ持っていくと、いそいそとシャワーで汚れを流す。


 湯を浴びせた後で「猫って水が苦手だった」と思い出しひやりとしたが、二足歩行の黒猫は存外大人しかった。

 猫用シャンプーはないから丁寧に猫の体を素手で洗う。それから、今度はお湯でくたくたになった黒猫をタオルで細かく拭く。

 

 黒猫は喉元を拭いても耳を拭いても尻尾を拭いても暴れなかった。ごろごろと喉元から石を砕くような音を鳴らしていた。

「——極楽です」

 もう人語を話したところで特に驚きはない。


 ドライヤーで毛並みを整えて、私の手元から解放する。黒猫は身体をぶるると震わせると、テーブルの足へ背中を預けてラグドールみたく脱力して座った。


「助かりました。まずはありがとうございます」

「どういたしまして」

 自分の太もも程度しか大きさのない黒猫が、恭しく頭を下げる。向こうにならって私も礼を返す。

「本題の前に。現時刻は西暦2022年2月22日、場所は日本、貴方は猫さんですね?」

 私はこの奇妙な猫について何か知ろうと、質問してみる。


「はい。あなたにも名前はある? まだない? いっぱいあったりする?」

「本名はありますが、この時代の言語では発声できません」

 どうやらここを掘り返しても意味がないらしい。

「じゃあ猫って呼んでいい?」

「それでは叙述トリックを警戒されてしまうかもしれません」

「じゃあ黒猫って呼ぶ」

「了解しました。よろしくおねがいします」

 画して。私と変な黒猫は出会った。


「それで早速本題なのですが……くしゅん!」

 黒猫は足を投げ出した体勢のまま、起き上がりこぼしのように大きく体をくねらせた。

「私は今から遠い未来――2222年2月22日の日本からタイムワープをして、この時代へやってきました」

「なるほど」

「理解が早いのですね」

「変な事への耐性がついちゃったし」


 黒猫はこほんと区切りの一息を挟んで本題を切り出した。

「貴方は今日から日記を書き始める予定ですね。

 その日記を、焼き捨ててください」


 いつの間にか、私の視線は卓上に移っていた。B5判の大学ノートが一冊、全てのページが真っ新の状態で置かれている。


「何で」

 少しばかり刺の籠った言い方になってしまったかもしれない。黒猫はざらついた舌で毛づくろいをしていた。

「貴方は本来の今日、雨に打たれている捨て猫を拾う予定でした。貴方は捨て猫を拾い、そのままペットとして飼うのです」

「今日はあなた以外の猫なんて見てないよ」

「私がそうしたのです。過去に飛び、貴方が本来会うはずだった子猫に席を譲っていただいた上で、待ち伏せをしていたのです」

 ふと、あのくすんだ青カビみたいな色をした段ボール箱を思い出す。


「本来の歴史上、貴方は今日から『捨て猫の飼育日記』をつけ始めます」

「いいじゃん」

「それが最悪の未来を生むのですよ!」


 黒猫はたたずまいを正した。

 

「貴方の遺した日記が出土したのは遠い未来、2200年の出来事です。そこに書かれていた内容は厭世的かつ一部の社会的弱者、特にペット層たちの人間に対する強い反旗の意思を奮起させるものでした」

 黒猫はももを毛づくろいしながら話を続ける。


「2200年、高度な知性を獲得した猫が研究施設から脱走する事件が起きました。続く2202年、猫の知性生命体集団は〈反人類〉を掲げる革命集団を結成。彼らは貴方の日記を『教典』とし、更に研究所から盗み出したデータを元に、世界中の猫の知性化を着々と進めていたのです」


 猫の革命集団とはどんな様子だろう。ゆるいイメージしか私には想起できない。

「2220年。知性化猫の構成員が世界中に増えたタイミングで、彼らは〈反人類〉を目的とした戦争を起こしました。最初こそ人の叡智えいちが勝っていましたが、知性化猫の母数は人の想定以上でした。一国が猫に墜ちた後は雪崩のように陥落し、そして2222年に年が明ける頃には、人類は猫を『文明系の頂点』に認めてしまったのです」


 舌の回転を速めて話し終えた黒猫は、ふうと休んで枕みたく丸まった。

「つまり、あなたは猫が文明の頂点になる未来を防ぐためにタイムワープしてきた。それで、私に『教典』である日記を書かないよう説得しにきた」

「ご理解が早くて助かります」

 黒猫のいた未来人は、猫を追うより魚を除けることを選んだのか。


 黒猫は満足げに頷いて、にこやかに笑った。

「それでは、日記を焼いていただけますね」

「嫌」


 外は依然、雨が降っていた。窓からは生物の影など見えない。


「……私がこの時代へ訪れた理由を、きちんとご理解いただけてますか?」

「うん。猫の革命集団を助長しないために『教典』を焼けって」

「そうですとも。そして貴方は日記を焼いていただければ」

「やだ」

「どうしてですか!」


 生まれて初めて向けられる獣の敵意は、意外と怖かった。


「私、自分のために何かしたことないから。今日が駄目なら、明日から始めるよ」

「日記が遺ってしまえば辿り着く未来は同じです」

 黒猫は案外、熱い志を抱いたやつなのかもしれない。


「私が死んだ後の話なんてしらない。未来に起きた悲劇の責任を過去に問うなら、もっと大過去に飛ぶべきじゃないの」

 窓から見える曇り空と豪雨は、私の心象だった。どうして刺のある言い方しかできないのだろう。


 黒猫は俯いてしばらく押し黙ってしまった。だけど手に隠した爪をの手入れを一通りした後、水面に一滴、しずくを落とすような声で語り始めた。


「私は知性化を施される前、一般家庭の飼い猫でした」

 黒猫はアンティーク家具を眺めるように床の模様を見つめている。

「心優しい少女の下で、時に人形やクッションのような弄ばれ方をしながらも、惜しみない愛を施されて育ってきました」


 目の前の猫が私を見つめる。抉りだせばそれなりの値がつきそうなほど、澄んだ琥珀の双眸。


「猫の知性化に伴い、人々は文明から『ペット』を拒絶し始めました。当然です。いずれ反旗をひるがえされる恐れのある存在を、懐にはおけませんから。現に知性化処置を施された一部のペットが、飼い主へその牙を向けた例も少数ではありません」

 黒猫はまた左手を舌で毛づくろう。彼は話の途中で、頻りに毛づくろいをしている。


「私も例外ではありません。知性化を施され、より世界を多角的に理解し、人間に匹敵するほど言語野が発達したのに……あの娘には、言えなかった」


 彼の話を聴いている間、私はずっと卓上のノートに視線を置いていた。


「私のような思いをしている元ペットは、未来世界には無数にいます。事実、ほとんどの動物が『知性化なんてされたくなかった』と後悔しているのです。あくまで、私が調べられる範囲でのほとんどですが」


 何だか身をつまされる想いがする。


「私は貴方に日記を焼いていただきたいのです。そうしたら人間とペットは、この時代と同じような関係を未来も続けていけるはずです。

 私はあの娘と、また友達になりたいのです」


「……そっかぁ」

 未だ、外はささやかな雨音が鳴っている。


 友達とは何だろうか。少なくとも、私の人生でそれに該当する人はいなかった気がする。


 今まで知り合った中で、本名が動物の人に会った経験はない。皆は私を「可愛い」と言ってくれた。だけど、そのおだてに添えられる眼差しが、小動物や飼いならされた愛玩動物に向けられるものと同等だと知ったのは、もう十年も前の話になる。

 会った人は全員、猫背に体を曲げた姿勢で私を見下ろしていた。


 私の名前は、お母さんが大好きだった小説の主人公から拝借したらしい。


 ぐう。

 私のお腹から、情けない音がなった。そういえば今日はまだご飯を食べていない。


「ねぇ」

 私の呼びかけに、窓をぼうっと眺めていた黒猫は反応する。

「ご飯、買ってくるけど。何か食べる?」


 黒猫はすくっと立ち上がると、二足歩行で百合の花みたいに歩き出す。学者が思考をまとめようとする一連の仕草は、猫にも通ずるらしい。

「では……チョコレートを頂けますか。久しく食べてないのです」


 外の雨はどうやら夜通し降るつもりらしい。私はコンビニエンスストアでインスタントラーメンとお茶、それと個包装のチョコレート菓子を買い終えて帰途につく。

「……猫にチョコレートっていいんだっけ」

 冷ややかな雨が背中を伝う。


 途中、黒猫と会った例の路地にやってきた。

 当然だが黒猫はそこにいない。


 代わりに、白い子猫が寒さに震えていた。


「ただいま」

 本来なら誰に言うでもない挨拶だが、今は黒猫が寝ころんで待っているはず。濡れそぼつビニール傘とビニール袋の水気をぱぱっと掃う。


 それから私は風呂場に行って、拾ってきた子猫の汚れを洗ってやった。

 白猫はお湯が嫌いみたいで、ゴム製のアヒルみたいな声でわめきながら何度も私の体を引っ掻いてきた。

 無理やり体を抱きながら何とかタオルでふき取る段階まで終わった。


 それから、私のご飯とチョコレート菓子が入った袋を引っ提げつつ子猫を抱えて、私は黒猫の待つリビングの扉を急いで開けた。


「あ」


 消えていた。

 黒猫は消えていた。


 リビングのテーブルには、日記のために買ってきたB5判の大学ノートが一冊、あてどもなく置かれている。


 抱えた腕から子猫がひょいと躍り出て、見慣れない私の家を興味ありげに右往左往する。それから子猫はテーブルの足に鼻を近づけて数度くんくんと嗅ぐと、その場へ渦を巻くように丸まる。


 子猫は青空に似た双眸で私をじっと見つめる。

 それから可愛げを乗せた声で小さく「にゃん」と鳴いた。



                                 〈了〉

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