第79話 再会 3

その時だった。

「おいで! ここに下りておいで!」

 ヒサリの耳に、よく通る声が飛び込んで来た。ヒサリはサッと顔を上げて、声のする方を見た。中庭の隅の大きな木のそばに二人の生徒が立ち、木の上を見上げている。一人は背が高く、もう一人は小柄だった。続いて

「ニャーオ! ニャーオ!」

 という鳴き声が鋭く響いた。小柄な生徒の方が、木の上の子猫に向かってグイッと手を伸ばした。怖がっている子猫に、下りて来るように促しているのだ。ヒサリは思わず、二人の様子に見入った。この整然とした、秩序のある、陰鬱な寮の中庭の中で、この二人にだけ光が当たっているように生気に溢れていた。

「よっしゃー!」

 次の瞬間、長身の生徒は、全くこの学校の生徒らしからぬ行動に出た。彼は何と、長い手足が吸い付くような巧みさで木の上によじ登り始めた。そして子猫をその腕に抱えると、

「行くぞ!」

 と下の生徒に向かって呼びかけ、猫を放り投げた。猫は木の下の生徒の腕の中にスポッとはまった。

「怖かったね。いい子、いい子」

 猫をキャッチした生徒は、猫の頭と体を優しく撫でた。この格式ばった学園にまるでそぐわない、心温まる仕草に、ヒサリは心惹かれて思わず見入った。その時、猫を抱えた生徒がふと顔を上げた。ヒサリと目が合った。

(……マル!)

 ヒサリは、一瞬で彼だと気が付いた。もちろん、彼のイボの無くなった姿を見るのはこれが初めてだったし、その顔はヒサリが想像していた素朴で典型的なアマン人らしい顔とは違っていたにもかかわらず。その体から柔らかな光があふれ出しているような青年。彼以外に考えられない。彼の腕から、子猫がぴょんと飛び出して、この舞台から退場して行く。

「先生……」

 彼の口から言葉が漏れた。ヒサリは、ゆっくりと彼の方に進んだ。本当は駆け出して彼を抱きしめたかったけれども、彼との別れてからの歳月を踏みしめるかのように、ゆっくりと歩みを進めた。ヒサリが彼の前に立った時、彼は再び

「先生」

 と言った。二人は黙ったまま、ただ見詰め合っていた。ただ思いばかりが二人の間に降り積もってゆく。

沈黙を破ったのは、彼の隣に立っている背の高い生徒だった。彼は何か余興でもしていたのか、猿の面を付けている。

「ああ、この人が君の恩師のオモ・ヒサリ先生だね! 全く君が言っていたそのままの人だ! 俺が邪魔するのもアレですからね、とっとと退散いたしますよ!」

 背の高い生徒が一つ礼をして退場すると、マルは

「先生、どうかこちらへ」

 とヒサリを中庭に置かれたベンチに案内した。腰を下ろした後も、二人は互いに相手が話し出すのを待っていた。が、ついにヒサリの方から口を開いた。

「おめでとう。あなたが良い成績で卒業すると聞いてとても誇らしく思います」

「先生、ありがとうございます。私は良い友達と良いライバルに恵まれましたので」

「友達というのはさっきの青年ですか?」

「はい。そしてライバルはタク・チセン君と言って、本当は今日、卒業生代表として答辞を読むはずだったんです。でも彼はそういう事が嫌いで、辞退したんですけど。まあ、もっともライバルだと思っていたのは私だけで、本当は彼の足元にも及びません」

 タク・チセンという生徒については、ヒサリもテセから話を聞いていた。学年一の優秀な生徒で、卒業生代表として答辞を読むことになっていたが、ピッポニアの本を持っていたマルをかばう発言をしたためにその名誉をはく奪されたと。ヒサリはそれを聞き、何と骨のある少年だ、ぜひ会ってみたいと思っていた。

「先生が卒業式に来て下さるなんて、夢にも思いませんでした。先生が結婚されてタガタイに来られる事は聞いていましたが。……ああ、そうだ! 申し遅れました。先生、結婚おめでとうございます」

「まあ、そんな事より、あなたはトアン大学に留学するのでしょう? 素晴らしい事です。リュン殿下の前で朗読して、それが大層気に入られたとか」

「はい……大人の方にこんな事を言うのは失礼かもしれませんが、とても優しい目をされていて、友達になれそうな雰囲気の方でした。リュン殿下は、私にカサンの国を実際に見てほしい、と言って下さったそうです」

 ヒサリはマルがリュン殿下の事を「友達になれそうな方」と言ったのに驚いた。リュン殿下は少々頭が鈍い、という事は公に口には出来ないものの多くの人が知っている事実だ。しかしマルは、相手の身分や年齢や頭の良し悪しなどに頓着せず、まっすぐ相手の心を見る事が出来る子だ。

「オモ先生がせっかくタガタイに来られるというのに、私はトアンに行ってしまうなんて! でも、行くのが楽しみでもあります。私はぜひ、ナサに行ってみたいです」

 ナサ市は首都トアンから少し西に位置するヒサリの生まれ故郷の町だ。

「まあ、ナサに見る物などありませんよ。それよりもしっかりと勉強をすることです。トアン大学はカサン帝国内でも最高レベルの学校ですからね」

「どうでしょうか」

 マルは言った。

「タガタイ第一高等学校は、アジェンナで最高の教育が受けられる場所、と聞きました。でも実際は違いました。中には尊敬出来る先生もおられましたが、多くの先生はただ殴ったり大声で怒鳴ったりするばかりでした。スンバ村でオモ先生から受けたものとは比べ物になりません。トアン大学に行ったところでオモ先生程の先生に会えるとは思えません」

「シッ! 静かに!」

 ヒサリは、マルの次第に熱を帯びてきた言葉を制した。マルのまなざしとヒサリのまなざしとがぶつかる。マルは顔を赤らめて俯いた。かつてはイボの下に隠れていた彼の表情の変化が、今では手に取るように分かる。少しの間の後、マルは口を開いた。

「……先生、実は私は、先生に会うのが怖かったんです。私がこんな顔をしているので……」

「まあ、まあ、そんな事……!」

 ヒサリは、自分が授業の中でピッポニア人を激しく非難した事が、彼のコンプレックスを増す事につながったかと思うと申し訳なく思った。確かに彼の華奢な体つきや顔立から、ピッポニア人の血を引いている事は明白だった。小ぶりな口と鼻、尖った顎などはピッポニア人の特徴をそのまま引いている。肌の色も白くは無いがやや薄い褐色で、特に色黒のアジュ人の中にいると違いが目立つ。しかし黒くて丸い瞳はアマン人的だ。アンバランスで決してハンサムではないが、不思議と魅力のある顔立ちだった。そして、ヒサリの体に染み込むかのような彼の言葉の素晴らしい事! かつての鈴を鳴らすような声は大人の声に変わり、より深みを増している。この先、どれ程多くの女性達が彼に魅了されることだろう! 彼とこれから愛し合うであろう若い娘達の事を、ヒサリは羨ましく思った。

「あなたの顔立ちや肌の色がどうであれ、あなたは立派なカサン帝国人でありアマン人ですよ。自信を持つ事です」

「はい」

「それから、トアン大学には本当に学識豊かな立派な先生方がいらっしゃいます。あなたが前向きに勉強してくれる事を望みますよ」

「はい」

 マルはそう答えた後、まだ何か言いたげにヒサリの方をじっと見つめていた。

「先生、私は十八になりました。先生は今の私と同じ年で、たった一人でスンバ村まで来て、私達を教育してくださったんですね。信じられません。私はこれから自分一人を教育するためにトアンに行くというのに。先生はとても立派です。勇敢です。私は先生を尊敬します」

 幼い頃はイボで半分つぶれていた目は、今ではくっきりと見開かれ、そこからヒサリへ強い思いを送っている。ヒサリはその目を見詰め返す事が出来ず、思わず下を向いた。

「先生!」

「何ですか?」

「先生は、少し痩せたように思うのですが」

「まあ、そんな事はありませんよ。あなたこそ、以前よりは逞しくなったけれども、もっとしっかり食べて太るべきです。そうでないとトアンの冬は乗り切れませんよ。ああそうだ! あなたに、トアンの生活についての注意書きを書いてきました。まだまだここに書ききれない事がたくさんあるけれども!」

 ヒサリは鞄の中から、昨晩ホテルで書いた手紙を取り出して、マルに持たせた。

「……先生……」

 マルはそれをギュッと握ったまま、中を見ようともせずじっとヒサリの方を見返している。しばらくして彼は、何かを思いついたように、

「アッ」

 と言った。

「先生、私も先生に渡したい物があるんです」

 そのままサッと立ち上がり、寮の部屋の中に入って行った。ヒサリにはそれが一体何かは分かっていた。彼はきっと、ヒサリ自身がたいして期待もしていないタガタイでの生活を潤してくれる最高の贈り物を持って来てくれる事だろう。果たして、マルが持って来たのは袋の中にぎっしり詰め込んだノートだった。

「まあ、こんなにたくさん!」

 勉強も相当頑張ったはずのマルが、その合間にここまで多くの詩や物語を書いたというのは驚きだった。

「先生、でもどれも先生のために書いた、というわけじゃありません。友人や後輩達に読ませた物もたくさんあります」

「それは良い事です。あなたの書いた物はたくさんの人に読ませるべきです。私があなたからもらったおみやげを他の人に読ませたのは、私が感じた楽しみを多くの人と分かち合いたかったからです」

「…………」

「あなたは不本意な思いをしたでしょう。 これからは私が本当に信頼できると思った人にだけ、あなたの書いた物を見せたいと思います。それは許してくれますか?」

 マルは頷いた。

 その時、けたたましく鐘の音が鳴り響いた

中庭にいた人々は皆いっせいに、建物の中に移動し始めた。

「先生、また後で、式が終わった後で、門の所で待っていてください!」

 マルはそう言って、寮の建物の中に入って行った。

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