第77話 再会 1

 まだ日が昇る前の早朝にアジェンナ国南部の都市アロンガを発った列車は、その日の真夜中に、ようやく北部の首都タガタイに到着した。

(長い旅だったわ……)

 ヒサリは、次第にゆっくりの速度になって流れる窓の外の景色を見詰めつつ、長時間座りっぱなしで固くなった体をほぐすように背中を揺らした。かつてマルがこの長い道のりを乗り心地の悪い馬車の荷台に何日も揺られて来た事を思うと、胸が痛んだ。

 タガタイの駅の中は、夜といっても明るかった。駅の中の方々に掲げられた電灯は、駅舎内を隙間なく照らしている。そして大勢の人が駅の床に座り込んでいる。ほとんどの者の傍らには大きな籠が置かれている。タガタイで作った物を地方に売りに行く商人だろうか。彼らはそのまま駅で一夜を過ごし、翌朝の列車を待つのだろう。

「ここは闇の無い町だわ」

 ヒサリは思った。スンバ村には本物の、深くて太い闇があった。

(これからこの町で暮らす事になるのね。信じられない……私は明るい喧騒の町で、果たして眠る事が出来るかしら)

 婚約者のアムトには、今日ここに到着する事を伝えていなかった。マルに会うまで、ヒサリは一人の時間を持ちたかった。

 少し前に、ヒサリはテセ・オクムからハン・マレンの元教師としてタガタイ第一高等学校の卒業式に学校側から招待されたと伝えられた。ヒサリは驚き、同時に安堵した。それはつまり、彼が自殺する事も問題を起こす事も無く、無事に高等学校を卒業するという事を意味しているからだ。

「良かった……本当に良かった! あの子が無事に学校を終えてくれて!」

「本当の事を言うと、ちょっと危なかったんだよ。ハン・マレン君は一度大問題を起こしてね。実は、ピッポニアの本を所持していた事があった」

「まあ、そんな! でもあの子に邪悪な意図など絶対にありません。好奇心の強い子なんです。それでつい、ピッポニアの本にも手を出してしまったんだと」

「それは分かっておる。ただピッポニアの本の所持は禁止されている。決まりは決まりだ。本を持っているだけならまだしも、あの子はピッポニアの血を引いている。それでだいぶ問題になったね」

 テセの言葉は、あまりに思いがけないものだった。ばかな。そんな事、あり得ない。

「そんなはずありません! あの子はこの地で代々歌物語をしていた吟遊詩人の家系の子なんです! ピッポニア人の血など引きようがありません!」

「私もオモ先生からそう聞いていたし、それに間違い無いと思ってた。だがね、あの子の顔立ちを見ると明らかにそうなんだよ。だからあの子を退学処分にするべきだ、と主張する教官も何人かいた」

「そうですか!」

 ヒサリはたった今知った事実に呆然とした。確かに、妖人達のコミュニティでは血へのこだわりは薄く、外部から来た者や流れ者を受け入れる事も多いと聞く。混血珍しくない、と聞いてはいたが、まさかあの子がピッポニア人の血を引いていたとは。

「ところがね、一月前に事態が大きく変わった。リュン殿下が学校を視察に訪れたんだよ。その際、ハン・マレン君は非常に立派に教科書を読んだようで、リュン殿下はいたく感動され、ハン・マレン君にカサン本国で学んで欲しいと切望された。つまりハン・マレン君はリュン殿下が名誉会長を務めておられる帝国青年学術協会の奨学金を得て、トアン帝国大学に留学する事が決まったんだよ」

「まあ、何と……何と名誉な事! 信じられません!」

 トアン帝国大学はカサンの首都トアンにあるカサン帝国の最高学府である。

「そうだ。オモ先生は大変な教え子を持ったもんだね。しかしオモ先生があの子の事をあれだけ熱心に手紙で知らせてくれなければ、永遠に埋もれてしまった才能だろうね」

 ヒサリは、テセの話を聞いたその日からろくに寝付くことも出来なかった。あの子に会ったら、どのような言葉で褒めてやったらいいのだろう! 

 しかしヒサリの乗った列車がタガタイに近付いて行くにつれ、ヒサリの心は曇ってきた。

(あの子は私の手紙に対し、ただの一度も返事をよこさなかった。あの子はもう完全に、私から心を閉ざしてしまったのではないか)

 テセの話によると、マルはカサン語の成績は常にトップ、教練だけは苦手だったようだが他の教科はおおむね上位を保っていたという。ヒサリの知っているマルは、確かにカサン語に関してはずば抜けていたが、決して優等生ではなく、他の教科の出来はむらが激しかった。好きな事にはとことんのめり込むが、そうでない事に対しては全く上の空で、集中力に欠けていた。エリートの集う学校で上位を保ったという事は、相当、血のにじむような努力をしたはずだ。あの子がどれ程の思いでここでの厳しい日々に耐えたかと思ううちに、ヒサリの目から涙が溢れかけた。しかし、タガタイ第一高等学校の優秀な卒業生になった彼は、もうかつての無邪気な少年ではなくなっているのではないか。ヒサリはそんな事を思いつつ、ホテルのベッドの上で悶々と寝返りを打っていた。

「あの子は私を恨んでいるかもしれない。私に会うなりぷいと顔をそむけてしまうかもしれない。それなら、せめて……」

 ヒサリはそのままベッドから体を起こし、夜が明けるまでマルに持たせるための注意書きをしたためた。カサン帝国の首都トアンは冬になればアジェンナでは想像出来ないような寒さだから防寒対策に気を付ける事、冬は雪で何日も出歩けない事があるから食べ物や暖炉で燃やす石炭を常に多めに備蓄しておく事、など思いつく限りの細々した事だ。トアンにはカサン帝国軍所属の弟クオや妹のランがいる。しかし二人は、マルの慣れない生活を支える友になってくれと頼むにはふさわしくない相手であった。血を分けた弟と妹ながら、どういうわけか二人に対し肉親の情が湧かなかった。クオとは昔から距離があり、あまり親しく話をした事もない。ランはわがままで意地悪な子だ。昔スンバ村でマルに会った際、「土人」「バケモノ」などと言ってさんざんいじめたのだ。ランは今、トアン帝国大学に近い位置にある裁縫学校に通っているが、「マルがトアン大学に行くからよろしく」と頼むよりはむしろ秘密にしておかねばならないような妹だった。

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