第72話 テルミの結婚 1

 ヒサリがテルミの家に着いた時、すでにかなりの招待客が集まっていて、中庭では今日の宴のために屠られた豚の解体の作業が始まっていた。それをしているのはヒサリの教え子の一人であるトンニの両親と兄弟達である。トンニの家族は、普段妖獣の皮を取って鞣す仕事をしているが、今日のようなおめでたい日に家畜を屠るのも彼らの仕事だ

「母さん、俺も手伝うよ」

 トンニがその作業の場に近付くと、母親が手を上げて制止した。

「いいんだよ。あんたはテルミと話でもしてなさい」

「話すったって、テルミは花婿だから忙しいんだよ。のんびり話なんか出来やしない」

 トンニがそう言って振り返った瞬間、ヒサリと目が合った。

「ああ、先生!」

「随分、たくさん人が集まってるわね」

 ヒサリは言った。

「ええ。メームさんは腕利きの産婆ですからね。この村の若者のほとんどは、メームさんに取り上げてもらったんです。テルミはメームさんの子ですから、みんな来ないはずがありませんよ」

ヒサリはトンニと並んで、木蔭に設えられた椅子に腰を下ろした。豚の解体が行われている周りで、晴れ着を着た人々がお喋りしている。中にはもう既に酔っぱらっている人もいる。しばらく前のダビの結婚式に比べたら、金のかかっていない昔ながらの式になると聞いていたが、夜が更ける頃には楽師らも加わり、賑やかな宴会は夜明けまで続くだろう。

「先生は、いつタガタイに発たれるのですか?」

「来月には。本当は心残りです。ずっとここにいたかった」

「私も先生とのお別れは残念です。けれども、先生は身の安全を考えるとやはりタガタイへ行かれるのが正解です。先生はここで十分の事をして下さいました」

 ヒサリは黙って前を向いていた。トンニの冷静な言葉にいくらか救われた気がしたが、これは自分にとって敗北であるとヒサリは感じていた。

この度のヒサリを狙った爆破事件、またアジェンナ各地の田舎で女性教師が狙われている事件を受けて、いくつかの小学校の統廃合が行われた。ヒサリが教えていたスンバ村第四学校は第三学校に吸収され、男性教師と兵士が配置されることになったのだ。

ヒサリは、カサン軍のこの取り決めに抗う程の気力を失っていた。自分を襲った事件に、ヒサリは心の底から恐怖心を抱いた。もし自分を襲ったのが獣や妖怪であったら、それ程恐ろしいとは思わなかったろう。相手は人間だ。人間だからこそ恐ろしい。自分がこの土地の人々のためにこれ程尽くしてというのに、思いが全く通じず、逆に誰かの恨みを買った、という事実がただただ恐ろしかった。そして……思えば、自分がここで頑張ってこれたのはマルがいたからだ。ここに着いたばかりのヒサリに、あの子は小さな両手を伸ばし、甘えて見せた。ヒサリはその瞬間、きっと自分はこの地で受け入れられる、と思った。彼は絶えず「おみやげです」と言って作文を書いてきてくれたが、それは、カサン人とアマン人の違いはあっても心は通じ合えるという事の証であった。彼がいなくなった事は、ヒサリにあまりに大きな喪失感をもたらした。

確かに自分をしたってくれる人達はいる。テルミもダビも、ヒサリを結婚式に招いてくれた。しかし同時に、訳の分からない敵意にも取り巻かれている事を感じずにはいられなかった。トウ・アムトから再度求婚され、タガタイで一緒に暮らさないかと言われた時、ヒサリは受け入れてしまっていた。思えばそれは、これからずっとタガタイで暮らすであろうマルに少しでも近付ける、という事でもあった。

「タガタイではマレンの卒業式にも出席されるのですか?」

 トンニが尋ねた。

「ええ。学校から招待されました。でもね、私はあの子に会うのがなんだか気が進みません。あの子がもうすっかり変わってるんじゃないかと思って」

「いい事じゃないですか。甘えん坊で落ち着きが無かった彼も立派になっていることでしょうよ。それに全身のイボもすっかり無くなっているはずです。彼の接種した薬は本当に効果てきめんですからね。」

「そうね」

 しかしヒサリは不安でならなかった。イボの無くなった彼の顔には冷ややかな表情が浮かんでいるかもしれない。あるいは自分に対する憎しみが溢れているかもしれない……そんな思いを拭う事が出来ないのだった。

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