第70話 ヒサリの危機 2
ダビが去った後、ヒサリはつくづくと考えた。
自分はこの先、どうしたらいいのだろう? ここで教える事に、やりがいも意義も感じているけれどもかつてのような情熱は無い。マルを失った事の影響は限りなく大きい。
(私はこのまま結婚もせず、一人で老いて行くのかしら……)
ヒサリと同じくスンバ村で教えていたシム・キイラは、教え子のエルメライをタガタイ第一高等学校に入学させた功績でタガタイの小学校勤務が認められ、その後結婚したと聞く。ヒサリにもタガタイの学校に移る話があったが、ヒサリは応じなかった。十年以上の歳月を過ごしたこのスンバ村を離れる気にはならなかった。カサン文化部隊に送る報告書を書くヒサリの手は時折止まった。ああ、マルの汚い字で書かれた作文を清書する時間がどれ程楽しかった事か! これを読んだ人がどれ程少年の才能に驚嘆するかと想像するだけで、心に翼が付いたような心地がしたものだ。今の生徒達も、それぞれ良い所はあるが、マル程ヒサリの情熱をかき立ててくれる生徒はいない。
夜も更けた頃、扉の外から
「オモ先生、オモ先生」
という声が聞こえた。
(カッシだわ、きっと)
ヒサリは立ち上がり、扉を開いた。そこには案の定、カッシのグリグリした目玉が闇の中に浮かんでいた。体は大きくなったものの、相変わらずひどい身なりである。
「読み終えた新聞や雑誌は床下に置いているから、私に言わなくても勝手に持って行っていいわよ」
ヒサリは言った。カッシがなぜ新聞や雑誌を欲しがるのかはよく分からなかった。彼は出来の良い生徒ではなかったから、進んでそういう物を読みたがるとは思えなかった。恐らく何かを包んだり、火を焚いたりするのに使うのだろう。彼は山の民だ。山の民はとても貧しいからこんな物でも貴重なのかもしれない。
ヒサリはふと思いついて、彼にこう言った。
「あなたは今、何の仕事をしているの? まだあの魔法の実を売って生活しているの?」
「ええ、まあ」
カッシは言葉を濁した。
「感心しないわ。あの実は人々から労働意欲を奪うものです。町工場などで仕事をみたらどうかしら? あなたならカサン語の読み書きが出来るから、現場監督にでもなれると思うわ」
「工場の仕事なら、時々やってます」
「どうせ日雇いなんでしょう? 良い条件で出来る仕事を、私が探してみてもいい」
「それは先生に悪いから……」
「悪い事はありませんよ。私はあなたがしっかり働いて、一人前のカサン帝国臣民になってくれる事が嬉しいんです」
「はあ……考えときます……」
カッシはそう言って下を向いた。カッシはどうも自分の話をされる事が嫌いらしく、こういう話になると決まって背を向けてあっという間に帰ってしまう。しかしこの日のカッシは不思議な事に、すぐにその場を立ち去らなかった。顔を上げ、グリグリした目でヒサリの顔をじっと見つめたままだ。
「どうしたんです?」
ヒサリは不審に思って尋ねた。
「先生、しばらくここを離れてた方がいいと思います」
「どうして!」
「悪い事企んでる奴がいる」
「どういう事です! 一体誰が!?」
「それはちょっと……」
ヒサリはカッシの曖昧な返事に苛立った。
「誰かが私に危害を加えようとしている、という事ですか!? それは誰ですか!?」
「おらもよく知らねえです。ちょっと小耳に挟んだだけで」
カッシはそう言うなりクルリと背を向けて梯子段を下り、あっという間に闇の中に消えた。
ヒサリが、カッシの背中が消えた闇を見詰めつつ脳裏に思い浮かべたのは数日前の新聞で読んだ記事だった。
とある村で、自分と同じような立場のカサン人の女教師が、何者かに襲われ瀕死の重傷を負った、という内容を伝えていた。女教師は生死の境を彷徨っていて、犯人はいまだ捕まっていないという。山賊かもしれないし、反カサンゲリラかもしれない。僻地での仕事は危険と隣り合わせだ。その事はヒサリも十分承知していたし、ここに来る時から常に兵士の心持ちで、緊張感を持って生活していた。銃も常に手の届く所に置いている。新聞記事を目にして、改めて気を付けなければ、と肝に銘じたところであった。しかし、ここでカッシから直接このように言われると、言い知れぬ恐怖が足元から這い上がった。
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