第69話 ヒサリの危機 1

夜が更けた後も、ヒサリはただ一人机に向かい、ランプの明かりを頼りに書き物をしていた。

一時間もそうしていた時、なぜかランプの明かりが揺れた。それと共に、鈴を鳴らすような声が聞こえた気がした。

(マル……!)

 ヒサリはとっさに振り返って窓の外を見た。空耳だったのだろうか。声は引き続き聞こえる事はなかった。

(バカな。あの子はもうずっと遠くへ行ってしまったのよ。恐らく戻って来る事もない……)

 ヒサリがアジェンナ国中でも特に遅れた地区と言われる南部のスンバ村に赴任してからもう十二年になる。カサン帝国に編入されたアジェンナはこの間大きく発展したが、進歩と開発の波はまだスンバ村には押し寄せてはおらず、昔ながらの風情を保っている。しかし、そのスンバ村も少しずつ変化しつつあった。教え子で農民のラドゥは村の若きリーダーとして人々の生活や農地の生産性の向上に努めている。

 ヒサリが十八でこの村に赴任して最初に教えた子供達は、奇跡的な程優秀な子供達だった。中でもヒサリにとってマルは特別な生徒だった。彼が意に反してタガタイに連れ去られた時は、彼の事が心配で夜も眠れない程だった。ヒサリはマルに何度も何度も手紙を送ったが、返事が来る事は無かった。

(あの子はきっと、すごく怒ってるんだわ……)

もちろん、検閲によって互いに送った手紙が相手のもとに届いていない事も考えられる。しかしヒサリにはやはり、マルが自分に恨みを抱いて手紙をよこさないのではないか、という気がしてならなかった。

(当然だわ。あんな牢獄のような場所に送りこまれたら、誰だって……)

 自分を恨むならいくらでも恨んでくれればいい、と思った。ただ、マルが絶望の余り自ら命を絶ってしまわないかと気が気でなかった。カサン式の教育に慣れた生徒達ですら何人も自殺したり精神を病んだりすると噂されるタガタイ第一高等学校の生活に、マルが耐えられるとは思えなかった。ヒサリは何度もテセ・オクムに彼の様子を尋ねた。その度に、「よく分からないが元気にやっているらしい」という返事が返って来るばかりだった。

(いくら何でも死んだら私に連絡があるはずよ)

 ヒサリは祈るように、彼の卒業の日を待った。

 マルのいなくなった空疎な日々を埋めるのが、時折尋ねて来る卒業生だった。南部の大きな町アロンガの学校に進学したダビは、休暇の間ヒサリの元を訪れる度に、マルの事を口にし羨ましがった。

「タガタイ第一高等学校に入れたなんて奇跡ですよ! 将来が約束されたようなもんじゃないですか! 私も入学する事は出来ないんですか? カサン語は勿論彼には及びませんが、他は決して負けていないと思うんですが」

「そうですね。ただ学校側は、やはり選考基準としてカサン語力を重視したんだと思います。人々を導く言葉を発することの出来る人材を求めていたんでしょう」

「そんな事なら私にも出来ます! ハン・マレンはおとぎ話や夢物語が出来るだけでしょう? むしろ私の方が適任だと思いますが」

 ヒサリは、マルの作文を読んでいないダビは彼の凄さが分かっていない、と思った。と同時に、ダビの言う事も一理ある、と感じた。

(あの子はカサン帝国の思惑通りに大衆を啓蒙するような言葉を使うには不向きなのだ。もちろんそれも大切だけど、あの子はもっと豊かな言葉の使い方を知っている)

「私もハン・マレンはあの学校には向いてないと思います。彼が思い詰める余り無茶な行動に出たり命を絶ってしまわないかと心配です」

「命を絶つ、ですって!? そんなぜいたくな! 誰も望んだからって簡単にタガタイ第一高等学校に入れるわけじゃないんですよ! もしそんな事をしたら、私は奴に同情なんかしません! 自分の幸運を無駄にするやつは軽蔑にしか値しない!」

「まあ落ち着いて。勿論私は彼が強い子で、ちゃんと生き抜いて学校を卒業してくれると信じています」

「私は……私は……」

 ダビは不意に声を震わせ始めた。

「私は、ハン・マレンが羨ましくて仕方が無い。率直に言わせてください。悔しいんです。タガタイ第一高等学校まで行けば、彼は出世して高級官僚になれるんでしょう? そして彼が南部の妖人の子として蔑まれ、かつては忌まわしい病気を持っていたなんて知られることなく生きていけるでしょう? でも、私は出来ません。アロンガでは役人の仕事に就く事は出来ません」

「まあ、そんなはずありません!」

「いいえ、そうなんです! カサン帝国の理想や平等の原則は、タガタイの恵まれた人には当てはまってもこんな田舎で古い考えの人間に囲まれていればはそうはいきません。結局私は、父の仕事を受け継いで妖獣の皮を扱う商人になるしかありません。この仕事をすればカサン軍がたくさん靴を買ってくださるから金は儲かりますよ。しかし人々からは陰でこう言われています。羽振りが良くてもあいつらはどうせ卑しい半分妖獣みたいな人間だと!」

「あなたは役人になりたいのですか? なれない、という事はないはずです。私がつてを頼って……」

 ダビが首を振った。

「たとえなれたとしても、足を引っ張る輩がいるんです。必ず。妖人のくせに役人になるとは何たる事か、と。昔、カサン語大会に出ようとした私がどんな仕打ちを受けたか思い出して下さい。私は弟達と協力し合って身を守っていかなくてはなりません」

 ヒサリは二の句が継げられなかった。

「……すみません、先生、私はこんな話をしに来たわけじゃありません。私は来月結婚するんです」

「まあ、それはそれは、おめでとう!」

 この国の人々の結婚年齢は早い。たいがいの人は十代でしてしまう。

「ぜひ結婚式に先生も来ていただきたいと思ってまして」

「もちろんですよ。喜んで。それで、お相手は?」

「ムーンサワーンです」

「ああ、あの子ね!」

 ムーンサワーンもダビと同じく妖獣の皮を扱う職人の子だ。

「選べる相手は限られています。選り好みは出来ません。私は長男ですし、早く身を固めないといけませんから」

 ダビはそう言った後、軽く溜息をついた。

「まあ、あの子は賢いし、しっかりしたいい子だと思いますよ」

「ええ、分かってます。不満なんてありませんよ。アディみたいに夢見てちゃ、結婚なんて永遠に出来ませんからね」

 アディについては、ヒサリも母親のダヤンティから「身の程をわきまえない恋にうつつ抜かしている」と散々愚痴を聞かされている。汲み取りの仕事で通っている役人の家の娘に恋をしているのだ。

「あとね、驚きの情報です。テイも来年結婚するんです。あの女の子みたいな彼が!」

 テイはテルミのカサン名だ。

「まあ、そうなの!」

「テイは先生とマレンを結婚式に呼びたがってます。でも無理でしょう? タガタイ第一高等学校まで行った人間がこんな田舎に戻って来るなんて」

「結婚は来年のいつ?」

「大寒月です」

 ダビはカサン暦で答えた。

「タガタイ第一高等学校は、普通の高等学校と違って一年履修期間が長いんです。だからその時期は残念ながら戻って来れないわ。でも、結婚式にはぜひ写真屋を呼んで、あなたとテイの晴れ姿を撮っておきましょう。彼に見せたら喜ぶと思いますよ」

「それにしても、オモ先生のもとで学んだ生徒は変わり者揃いですよ。結婚したか予定があるのがラドゥと私とテイだけなんて! トゥイなんて人の体には興味はあっても人には興味ないときてますからね」

 トゥイはトンニのカサン名だ。ヒサリは「人の体には興味はあっても人には興味ない」という言い方がおかしくて、思わず噴き出してしまった。トンニはダビと共にアロンガの高等学校に通いつつ、休暇にはスンバ村のカサン人医師、ウォン・カンのもとで助手として働いている。確かに、女の子と付き合っているという話は聞かない。

「まあ、そんな事を言ったら、私も結婚していませんよ」

 ダビは「アッ」という顔をした。三十にもなろうというのに嫁に行かないなど、この国の感覚では遅いにも程がある、といったところだろう。

「あの、でも、オモ先生にはお付き合いされている方がいらっしゃいますよね」

「ええ、そうね」

 ヒサリは心の中で溜息をついた。

アムト。

あの人の一体どこが不満だというのか。彼もいい年だというのに、私を待ってくれている。流行作家で、カサン文化部隊員として精力的に活動している。彼には、自分など待たずともいくらでも結婚相手が見つかるだろうに。自分にはもったいない位の相手だ。ただ、彼の言葉の端々から感じるアジェンナ人を見下した様子が、どうしてもヒサリには耐えられない。彼を差別主義者などと言うつもりは無い。彼はアジェンナ人を「土人」などと言うような下品な人間ではない。ただ、アジェンナの民に対する無知や無関心ゆえに、自然と彼らに対し厳しい言い方をしてしまうのだ。その事がヒサリには何とも歯痒かった。また、若い時のように彼に対する「ときめき」ももはや感じる事が無い。

(私は年を取ったのかしら? いいや、そうじゃない)

 なぜなら、いまだに思い出しては体が熱くなるのだ。今から五年程前、夢の中にマルの兄と名乗る青年が現れて、自分を抱きしめた時の事を思い出すと……。

余りに生々しい感覚だった。あの夢に出て来たのは、実際にマルの兄さんの魂だったのか。それとも自分の心が生み出した幻だったのか。いずれにしても恐ろしい事だ。

マルの一番上の兄さんは、カサン帝国によるダムの建設に動員され、劣悪な環境の中衰弱し、その後死亡した。あってはならない事だが、拭い去る事の出来ないカサン帝国の汚点だ。直接労働者の募集に当たったのは地元のシャク人警察官や「人狩り」という怪しげな人夫斡旋業者である。しかしだからといってカサン帝国に責任が無いはずがない。その幻影から逃れるために、アムトと結婚しようと何度も考えたが、その行為によってもたらされるのは苦しみだけなのも分かっていた。ヒサリの表情と沈黙に気付いたダビは、

「それでは、また」

 と帰り支度を始めた。

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