第66話 リュン殿下の来訪 1
その日、朝からカサン第一高等学校全体がものものしい空気に包まれていた。
前日には、校舎全体が生徒達全員の手でピカピカにみがきあげられていた。カサン皇帝の弟のリュン殿下が学校を視察に訪れるのだ。
朝礼では、教官達はいつも以上に高らかに声を張り上げ、生徒達に訓示を与えていた。緊張の余り声が上ずっている。マルはそれを聞き、吹き出しそうになるのをこらえつつ、昨夜シンが言っていた事を思い出していた。
「皇帝の弟ってのはそんなにおっかねえのかよ。妖怪が何かか?」
マルは笑いながら言った。
「身分の高い方をお迎えするから、先生達、緊張してるんでしょ」
「みっともねえな。それに比べて、おめえは王族だの皇族だの目の前にしても平気な顔して、いつもどうりにこにこ微笑んでるんだろうなあ」
「とんでもない! 緊張すると思うよ、やっぱり」
「いいや、絶対そんな事ねえ」
「そうかなあ……」
そう言いつつ、マルは思った。確かにそうかもしれない。何しろ賤しい「妖人」という身分だった自分にとって、それ以外の人達はみんな「えらい人」だった。相手が王様だろうが皇帝だろうが平民だろうが等しく「えらい人」だから特別どうという事もないのだ。
「緊張もするけど、お会いするのが何だか楽しみ。どんな方なんだろう」
「どうもこうもねえ。普通の人間だよ。お前まさか、皇族や王族は後光がさしてるとか思ってねえだろ?」
「違うの? アジェンナ王家の方々の写真を見たことあるけど、みんな後光がさしてたよ。特にヤーシーン王子は美男子で、神々しい感じだったなあ」
「そりゃあな、後光がさしてるように見えるよう後ろに光当てて、それで写真撮ってんだよ」
「そうなの!?」
「そうだよ! まあ、ヤーシーン王子が美男子ってのは本当だけどな」
「昔、おらの住む村にタガタイから物乞いがやって来て、ヤーシーン王子の歌物語を聞かせてくれた事があるんだ。王子はすごく可哀想なんだ。ヤーシーン王子は王様の第一お妃との間に生まれた最初の子で、本当は王位を継ぐ立場なんだけど、第二王妃にそそのかされた王様に嫌われて、王宮を追い出されてしまったんだ。ああ、でもヤーシーン王子はあれからどうなったんだろう。生きているのかなあ」
「その歌物語の続きはお前が作りゃいいんじゃねえの?」
「作れないよ。ヤーシーン王子様がそれからどうなったか知らないもん」
「じきに分かるぜ」
「そうだといいな」
マルはなぜシンがそんな事を言うのか分からないまま、ただ微笑み返した。
教室に、カサン語の教官が入って来た。教室内の空気は、触れればひびが入りそうな程ピンと張り詰めた。教官はサッと振り返り、誰かを招き入れた。マルにはすぐに、その人がリュン殿下である事が分かった。カサン皇帝と皇后の写真は教室に掲げられ、生徒達は毎日その前で深々と礼をして着席するのが習慣である。その皇帝によく似た面差しだ。リュン殿下は一般のカサン人のように肉厚な体つきではなく、小柄で、マルも以前見た事があるブリキの兵隊人形を思わせた。軍服の至る所に勲章がぶら下がっているのが、いかにも重そうである。皇帝とそっくりに油できれいに撫で付けらられた髪や毛先のピンと持ち上がった髭は、いくらか滑稽だった。沈黙が教室を覆い尽くしている。最大の敬意を持ってお迎えしないといけない人を前にした緊張で、教室の空気は軋んでいた。リュン殿下の後から、四人の男がひどく重そうな立派な椅子を抱えて入って来た。おつきの者がリュン殿下に椅子を勧めたが、リュン殿下は首を振り、教室内を見渡した。口髭や髪形は滑稽だけど、澄んだ目をしている、とマルは思った。カク先生は、一度高い咳払いを教室に響かせたかと思うと、
「ハン・マレン!」
と言った。リュン殿下やおつきの人達に見入っていたさ中、急に名を呼ばれ、マルは慌ててカク先生の方を見た。
「教科書六十五ページの『モデ王、村で水を求める』の章を読みなさい」
「はい」
マルは立ち上がって読み始めた。五百年前の王モデが周辺諸国を制圧して統一のカサン王国を作り上げるまでの過程を描いた『モデ軍記』の中の一節である。『モデ王、村で水を求める』の場面は、激しい戦闘場面が続く軍記の中で、清涼な風を思わせる美しい章である。戦いで深手を負い、逃げる途中に山奥の風光明媚は村を通りかかった王は、水と食べ物を求めて貧しい木こりの家に立ち寄り、美しい娘に出会う。そして木こりの一家に丁重にもてなされ娘の手当てを受ける。数日の滞在のうちに、二人の間には愛が芽生える。そして気力体力を取り戻した王は再び出陣し、連戦連勝を重ねる。王は後に娘を妾にするが、その二人の間に出来た子の子孫が今のカサン皇帝であると伝えられている。マルはカク先生はきっとリュン殿下に喜んでもらうためにこの場面を読むように言ったのだ、と思った。マルは、はるばる遠いカサン帝国の都トアンからやって来たリュン殿下のために、心をこめてしっかりと読んだ。先生はなかなか「やめ」と言わなかった。
(随分長く読ませるんだな)
教室内は物音一つせず、マルの声だけが教室の空気の中に染みわたってゆく。マルはだんだん、自分が聴衆を前に歌物語を披露しているような気になってきた。「モデ王、村で水を求める」の章は特に名文として知られている。読むのも心地良く、マルの口から水のせせらぎのように言葉が流れ出た。
ついにその章を読み終えてしまった。マルが教科書から目を上げると、リュン殿下がじっと自分の顔を見詰めているのが分かった。まだ教科書を読み続けるべきかどうか分からず、マルはリュン殿下の済んだ目を見詰めながら立ち尽くしていた。すると、不意にリュン殿下が口を開いた。
「あなたはいつからカサン語の勉強をなさっているのですか」
リュン殿下の口ぶりがあまりに丁寧だったので驚いた。これまで生きてきて、自分に対しそんな口の利き方をする人などいたためしがない。
「六歳の時からです」
「見事なものだ……あなたがそんなに熱心にカサン語の勉強に取り組んでくれた事が嬉しい……アジェンナ王子」
(え!?)
いきなり「王子」などと言われてマルは面食らった。
(これは何か、皇族の方特有の冗談だろうか)
マルは訳が分からないまま、微笑みを浮かべてリュン殿下の顔をじっと見返していた。生徒達は声は上げないものの、教室じゅうの空気がざわめき立っているのが分かった。みんな驚いているのだ。その時、カク先生が
「彼は……」
と言いつつリュン殿下に近寄り、耳元に何かささやいた。リュン殿下は頷きつつ、なおもマルの方をじっと見つめていた。マルはそのまなざしに心打たれた。リュン殿下はカサン人としては小柄で、胸いっぱいに付けた勲章が重そうだし、動作もどこかいびつで、まるでねじを巻いた人形がおずおずと歩いているようである。その姿は、どこか不器用な自分に似ている、と思った。もう壮年という年齢に違いないのに、そのまなざしも言葉もどこか少年のようで、そのアンバランスさがマルの中に哀切な感情を呼び起こした。
「殿下、どうか、お座りになって下さい」
お付きの者に言われて、リュン殿下はおもむろに、宝石をたくさん埋め込んだ立派な椅子に腰を下ろした。カク先生はリュン殿下の前で深々と頭を下げ、
「では、授業を続けさせていただきます」
と言った。そして立ち上がり、
「教科書の百二十ページを開きなさい」
と言ったその声は、いつもの力のこもった声とはまるで違い、ひどく上ずっていた。
しばらくの後に、リュン殿下とおつきの者が教室の外に出て行く。カク先生は教科書を読むのを止め、リュン殿下に向かっておじぎをした。生徒達もおじぎをするような具合に下を向いていたが、マルは顔を上げたまま教室から去って行くリュン殿下の背中を見送っていた。
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