第65話 罰を受ける 7

「マレン! マレン! 早く来い!」

 図書館で勉強していたマルは、いきなり背後から大きな声を聞きつけて驚いて振り返った。図書館の入り口でエルメライが手招きしている。マルはとっさに指を唇に当てた。図書館は絶対に静寂を守らなければならない場所だ。規則を破ると利用停止処分を受ける可能性がある。するとエルメライは苛立った足取りでマルに近付いて言った。

「お前の猿顔のルームメイトがタク・チセンと殴り合ってるぞ!」

「えー!!」

 エルメライに負けない大声を出したマルは、教科書にノート一切合切をそこに置いたまま外に駆け出した。

 エルメライの後について行った先には、大勢の生徒達が集まっている。そして生徒達の背中の向こうに見えるのは、紛れもなく制服を脱ぎ捨てて褌一枚になったシンとタク・チセンが重なり合い、もつれ合っている姿だった。タク・チセンの筋肉質の黄土色の巨体に、シンのほっそりした黒褐色の体が木の根のように絡みついている。タク・チセンに抑え込まれたかと思ったら、思いがけない場所からシンの鞭のようなしなやかな腕がスルリと抜けて、タク・チセンの首をくるりと絞める。タク・チセンがその腕を振りほどくとシンの顔にパンチを加える。すかさずシンが肘打ちで反撃する。かと思うと二人同時に立ち上がり、キックの応酬。周りを取り囲む生徒達は誰も静止ぜず、完全にこの格闘試合の観客になって、さすがに声援は上げないものの笑いながら二人の様子を眺めている。喧嘩はここでは御法度だ。また二人にどんな罰が加えられるか分からない。

(止めなきゃ!)

 そう思いつつ、マルは鍛え上げられた二人の見事な肉体と本物の格闘家もかくや、と

思われる俊敏な体の動きについつい見とれたまま立ち尽くした。

「おう……マレン!」

 タク・チセンを羽交い絞めにしたシンは、マルと目が合った瞬間、声を絞り出した。

「これはお前のためだ! こいつがいくらカサン語でお前に負けても降参だって言わねえから、今日こそ決着をつけてやる!」

「はあ? おらのせい?」

 マルはあんぐり口を大きく開けた。

(嘘ばっかり! 本当は自分が喧嘩したくて、自分が一番だって事証明したいだけのくせに!)

タク・チセンがシンの体を振り解き、土の上に投げ出した。

「俺は勝ち負けのために勉強してるんじゃない。己のためにしている!」

「嘘つけえええ!」

 シンは地面を這ってタク・チセンの脚にしがみつき、引きずり倒した。再び重なり合う二つの肉体。

「やめてよ、シン、お願い!」

「友よ! 止めてくれるな! ここは男の人生をかけた勝負だ! 俺は絶対お前のためにこいつに勝つ!」

「勝ち負けなんてどうでもいいでしょ!」

「何だよ! お前、いつもさんざんこいつに勝ちたい勝ちたいって言ってるくせに!」

 マルは恥ずかしさの余り我を忘れ、

「わあああああ!」

 と叫びながら二人の間に突っ込んで行った。その時、腹部に激しい衝撃が撃ち込まれた。マルの体は宙を舞っていた。その時、マルの目に映ったのはタク・チセンとシンが共に口を開けて茫然と自分を見上げている顔であった。そして次の瞬間、マルの意識は消えていた。


 再び目を開いたマルは、ニアダの浅黒い顔に迎えられた。

「ニアダ……」 

 固いシーツの感触から、自分が再び医務室に運ばれたのだという事を理解した。

「大丈夫?」  

 背中とお尻が多少痛いが、怪我、という程でもないようである。マルは体を起こした。部屋の扉が少し開いていて、その向こうからタク・チセンがこちらを見ているのが分かった。先程感じた恥ずかしさが蘇り、マルはうつむいた。

「さあ、パンとスープをおあがりなさい。今回の怪我は大したことなくてよかった。あんた、とっても上手にポーン! って空を飛んだから」

 ニアダの大きな身振りを交えた分かりやすいアジュ語が耳に心地良い。

タク・チセンがいなくなったのを確認してから、マルはスープの皿を手に取り、ゆっくりと匙を口に運び始めた。

「マル! ごめんな! あいつに一発お見舞いしたつもりがお前に当たるなんて! あいつ、岩みてえにびくともしねえくせに、お前はこんなにボールみてえに飛んじゃうとはなあ!」

 シンだった。マルはシンに向かって軽く手を振った。

「さっきからあの猿みたいな子と大きい子が代わる代わるやってきては、自分のせいであんたがこーんな風に宙を舞ったって言ってる。二人共、そんなに力自慢がしたいかねえ」

「あー」

 結局のところどちらの一撃が自分を直撃したのかは分からない。両方かもしれない。

「マレン! 大丈夫だったんだな! とにかくよかった! 今回はお前が飛んじゃったせいで試合終了になっちまったけどな! 次こそ絶対あいつを……」

 ニアダは立ち上がり、ツカツカと扉の方に寄ると、

「あっちに行って! もう黙んなさい!」

 と叱りつけた。再び静寂が訪れた時、マルは再びスープの匙を置き、物思いにふけった。

(『自分は勝ち負けのために勉強してるんじゃない。自分のためだ』かあ……)

 マルはタク・チセンの言葉を反芻した。

格好良い事を言う。自分もそういう心境になりたい、と思った。自分の場合は勝ち負け、ではなくタク・チセンに良く思われたい、という気持ちが強過ぎるのだ。

(考える過ぎてるんだ。タク・チセンの事もヒサリ先生の事も)

 マルは自分が今、「執着」という名前の妖怪に取り付かれてかけていると感じた。それは長い蔦のような姿をしていて、人の頭や心臓からドロドロと伸びて、他の人に絡みつく。「執着」に囚われた者は誰もが不幸になる。想う人も想われる人も……。

(ええい! おらももうこれからタク・チセンの事を考えるのはやめて、自分のために勉強するんだ!)

マルはスープの皿を手に取り、自分に絡み付いている「執着」を押し流すように一気に飲み干した。

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