第57話 タガタイの街 4

まるで城壁を思わせる堂々とした建物の前に立ったとたん、マルは立ち竦んだ。

(こんな所、おら、本当に入っていいの? ロロおじさんの小屋みたいに、裏口におらの入る所があるんじゃないの?)

 シンに促され、それでも尻込みする所を、シンに腕を絡ませられ、映画館正面の立派な石段を恐る恐る上がり、中に足を踏み入れた。

そのとたん、驚いた。床には赤い敷物が敷き詰められ、一歩歩くごとに靴が埋まるかのような柔らかさである。壁は磨かれた白い板が張り巡らされ、天井には金持ちの家の屋根の魔除けか何かのような凝った形の照明がピカピカ輝いている。案内人の男が次々入って来る客を左右に振り分けている。マルはすぐに、ロロおじさんの小屋で妖人と平民様の席が分かれていたように、カサン人とアジェンナ人を分けているのだと気が付いた。シンとマルが示されたのは、意外にもカサン人客が入って行く方の扉だった。

「え!」

 一瞬戸惑ったマルの腕をシンが引く。

(そうか、この制服を着ているから、きっと……)

 マルの胸が一瞬軋んだ。制服は自分を偽る飾りなのだ。

しかしそんな思いも建物中には入るなり消し飛んだ。観客の多くはマル達よりいくらか年上の着飾った若者で、半分位が女性だった。女性の体から発せられる香水の匂いによって、マルはいくらか酔い心地にさせられた。そして会場には、まるで物語に出て来る玉座のような、赤い布を張った椅子がずらりと並んでいる。

「すごい! こんな所に座っていいの?」

「当たりめえだよ。入場料払ってんだから」

マルは椅子に身を沈めて正面のひだの付いた豪華な幕を眺めつつ、もしかしてこんな風にゆったりと椅子に座って王様の気分を味わいながら女優の顔が大きくなったり物が飛んだりする様を想像する事が「映画」なのだろうかと思った。周囲からカサン語のお喋りがさざ波のようにマルに打ち寄せる。マルの心に「王様の詩」が浮かんだ。自分が王様になったかのような気分でその詩を口ずさもうとしたその時、不意に場内が暗くなった。マルが何事かと驚いていると、周囲のざわめきが止んだ。闇の中で、正面の幕がするすると上がるのが分かった。そして正面に、パッと大きな明かりが灯った。マルはたちまち目の前の写真に心奪われた。そこには白黒の巨大な写真が文字と共に映し出される。そしてなんと、その写真が音楽と共に動くではないか!

驚いた事に 、本当に人間は大きくなったり小さくなったり、時には顔だけになる。ああ、どうしてこんな事が出来るのだろう! どんな幻術や魔法を使っているのか? ……いやいやそうじゃない。これがカサン人の持つ「文明の利器」というものなのだ! いや、モク・イアンによればこれはもともとピッポニア人が考え出したということだが……。

マルはしばらく見ているうちに、映画とは自分達が物乞いをしながら人々に聴かせていた歌物語のような物だと気が付いた。それを文明の利器を使ってより面白く飽きさせずに人々に見せる手段なのだ。自分は幼い頃、母ちゃんに歌物語を教わりながらこう言われたものだ。「お前の歌を聴いた人が、実際に美しいお姫様やきらびやかな宮殿や恐ろしい妖怪を見ている気になるように歌うんだよ」と。でも映画では、それを実際に観客に見せてくれるのだ。

 そしてマルはいつしか、物語のヒロインにすっかり心奪われていた。切れ長の目にまっすぐな長い黒髪、引き締まった唇……顔立ちが美しいだけではない。体のラインは弓のような緊張感をまとっている。一つ一つの身のこなしも洗練されていて、全く無駄が無かった。接吻のシーンで大写しになった彼女の唇の、新鮮な果実のような艶めきを目にした瞬間、マルの心臓は周りに聞こえるのではないかという程高まった。映画は悲恋の物語だった。最初は溌剌としていたヒロインが次第に人生の荒波にもまれ、表情に変化が滲んでくる。やがて、恋人に裏切られ、一人涙をこらえるシーンで、マルはいてもたってもいれれなくなり、映画の中に入り込み彼女を抱きしめたくなった。ストーリーはありふれたものだったが、女優の迫真の演技によって、ヒロインがまさに真実を生きているように感じられた。

映画の画面が消え、幕が降り、場内が明るくなると、マルは深く溜息をついて余韻に浸っていた。

「おい、早く立たねえと隣の人が出られねえぞ!」

 マルはシンに促されて慌てて立ち上がった。ロビーに出て、シンが

「ちょっとあそこに寄ってみようや」

 と指さした先には売店があった。そこには俳優達のプロマイドがずらりと並んでいた。

売店では、すぐに一枚のプロマイドに釘付けになった。それはまさしく、さっき映画に出ていた女優のものだった。

「お兄ちゃん、どうだい、アン・ウンス。人気だから今買わないとすぐ無くなっちゃうよ」

 売り子のおばさんに声をかけられ、マルは真っ赤になった。

「お前、アン・ウンスにメロメロだな。買っちゃえよ」

「いやあ、プロマイド買ったって……」

「俺は買うぜ。俺はこの子がいいな。いやー、こっちの子もかわいいなー」

 シンが次々プロマイドを買っていくので、マルもつられてアン・ウンスのプロマイドを買ってしまった。マルは大切にそれを懐にしまうと、シンと並んで外に出た。

(映画ってすごいもんだな……こんなものがあれば、そりゃあみんな、歌物語なんて聞かなくなっちゃうよな……)

 マルは小さく溜息をついた。自分がスンバ村に帰り、歌物語をしたってもう誰も聞いてくれないのではないか。

マルはそれからシンと一緒に、米粉を固めたものを薄く延ばして魚を包んだ「ゴネア」を食べた。美味しかったがそれ以上に、石畳の広場に置かれたしゃれた白い椅子とテーブルについてゴネアを食べる人々の様子がただただ楽しかった。みんな人間というより作られた人形のように美しい。地面から水が大きく吹き出し、光を受けてキラッキラッと輝いている。自分の人生にこんな事が起こるなんて! マルはタガタイに来て初めて喜びを感じた。これまでの苦労がさっぱり拭い去られた気がした。

「お前、いい顔してるよな」

 シンが言った。

「そりゃそうだよな。二年もあんな牢獄生活に耐えた後だもんな。ただまだ先は長いぜ。あと二年、アン・ウンスのプロマイドに頬ずりして耐えることだな。アン・ウンスに飽きたら他のと交換してやるよ」

 マルは笑って首を振った。それからゴネアを食べ終えるとパタパタ両手をはたき、立ち上がって、元来た道を引き返した。

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