第53話 二つの心 6

マルとシンが並んで寮に向かっていると、不意に、目の前に大きな体が立ちふさがった。それはタク・チセンだった。マルは、まるで自分が巨人の前にいる小人のような気がして、とっさに下を向いた。

「!!」

「君は先生に、自分の成績が納得がいかないと文句をつけに行ったようだな」

「あ…いや……」

 マル口をパクパクさせたものの一言も言葉が出て来なかった。シンが、じりっと相手の巨体に詰め寄った。

「なんだおめえ。こんなちっこいかわいい奴をいじめに来たのかよ! おめえ、図体はでけえがタマタマはちっこいに違いねえ!」

 タク・チセンはマルの方だけをまっすぐに見詰めたまま、シンの言葉が終わらないうちに言った。

「君が提出した『カサン帝国の精神』の課題を読ませてもらったが、あれで俺を超えようなんて無理だ。お前は心にも無い事を事を書いている」

「そんな!」

 マルの狼狽を少しの間見詰めていたタク・チセンはシンの方に視線を移した。

「ところで君はなぜ猿の面を付けてる? なぜ素顔を見せない? 嘘偽りの顔の者や嘘偽りの言葉を書く人間と共に学ぶのは、俺にとって我慢ならない」

「それを言うなら、俺が猿の面を付けている事にも気付かねえ周りのカサンのバカ共に何か言ってやったらどうだ? マレン、こんな奴相手にするな」

 シンはマルの肩に腕を回したが、マルはその場から動こうとしなかった。

「俺はカサン帝国の申し子だ、カサン帝国が滅びたら共に死ぬ運命だ。しかしお前はそうじゃない」

「お、おらだってカサン帝国と共に死ぬ覚悟がある……」

 マルはそう言ったが、いくらか声が震えていた。そうだ。確かにカサン帝国のために命を投げ出す事は、帝国臣民として最も偉大な行為だし、そのような偉人の行為は教科書でさんざん読んだし話も聞いた。しかし今、自分にその覚悟があるかと問われた自信が無い。しかしタク・チエンは平然と、「自分にはその覚悟がある」と言い切る。恐らく本心だろう。カサン帝国のためにあっさり命を捨てられるという人にどうやって勝てるというのか。

「もういいだろう? くだらねえ!」

 シンはマルの袖をグイと腕を引いた。

(カサン帝国のために死ぬ……そんな事、どうやって? でもそうしたら、昔からおらの故郷に伝わる『末っ子の務め』が果たせなくなる)

 マルの故郷には、末っ子に生まれた者が絶対に果たさないといけない掟がある。それは父母や師から受け継いだ技や知識を次の世代の若者達に教える事だ。この掟を守るためには、自分は長生きしないといけない。マルは歩きながらさらに考えた。

(カサン帝国のために命を投げ出したら、あの人はおらを尊敬し、おらの死骸を抱きしめて泣くだろうか? でも、だとしても、おらはそのぬくもりを感じる事が出来ない。だとすればそれに何の意味があるんだろう?)

「カサン帝国が滅びたら俺も死ぬだと!? たわけたことぬかすな。バカじゃねえのか? ハッハッハ!」

 シンが突然高らかな声を上げて笑い出した。

「シーッ、静かに! 周りに聞こえちゃうよ!」

「だってそうだろ? 帝国が滅びたってなあ、人は生きてんだよ! あいつ、自分が皇太子か何かのつもりか? 帝国や国が滅びて死ぬのは皇帝や王の役目だ。民は生きるんだよ! それを国民に死ねだと? カサンの皇帝は何をしてるんだ? 民を殺して自分はのうのうと生きていく気か?」

 マルはシンの言葉を聞いて、目の玉が飛び出そうになった。

「そんな事言っちゃダメだ! おら達はカサン帝国の皇帝を守り、アジェンナの王様を守らなきゃいけないんだ!」

「バカ言うな。それは全く逆だ。王様や皇帝が民を守るんだよ! 国家がやべえってことになったら自分が真っ先に民のために命を投げ出さなきゃなんねえ!」

「こらあ! そこの者! くっついて喋ってんじゃない! さっさと歩かんか!」

 教官の怒鳴り声を聞いて、マルは震え上がり、サッとシンから離れた。シンの恐ろしい言葉を、教官は聞いたのではないか、と思った。


マルは寮の部屋に戻り、部屋の整頓や宿題をやっている間じゅう、じっと黙っていた。様々な思いがマルの内側に渦巻いていた。

明かりを消して寝台に横になった後も、体の内で騒音が鳴り響いているようで全く寝付けなかった。しばらくして、マルはそっと体を起こし、隣で寝ているシンの耳元に顔を近づけ、尋ねた。

「ねえ、おらね、決して誰にも言わないよ。……君は、革命家なの?」

マルは、この言葉がシンを怒らせる事になるかもしれないと思った。でも聞かずにはおれなかった。革命家。それは、『カサン帝国の精神』の授業の中で、最も邪悪な存在として教えられてきた。革命家とは社会をひっくり返し、あらゆる秩序を乱し、ぐちゃぐちゃにするのだと。しかしマルは、たとえシンが革命家であっても、ずっと彼とは友達でいたいと思った。しかし、知りたかったこのどこか不思議な友人の秘密の全てを。シンはマルの問いに返事をしなかった。寝入っているのだろう。

(シンが実際に革命思想を持っているとしたら? 革命家は武器をたくさん集めていて、平気で人を大量に殺し社会を転覆させる人達だ。シンがそんな事するなんて考えられない。でも、もし彼が実際に革命家で、危険な事をしようとしたら、おらが止めなきゃ。一番近くにいる友達として)

 マルはそう思いつつ、布団の中に潜り、体にギュッと毛布を巻き付けた。

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