第52話 二つの心 5

「カサン帝国の精神」の授業で提出した作文が、一人一人の名前と共に返却される。この時間は生徒達にとって、ひときわ緊張感の高まる時間だった。成績下位の生徒は、必ずといっていい程厳しい叱責を受ける。しかしマルは、成績下位の者達とは違う種類の恐れを抱いていた。

(こんなに頑張ってんだ。今度こそ一番になりたい。字だって一生懸命きれいに書いた。だから今度こそ、今度こそ一番に……)

 しかしこの度も、真っ先に名前が呼ばれたのはタク・チセンであった。マルは溜息をついた。

(百点が取れると思ったのに……)

 トップのタク・チセンも九十八点だった。

「二位、ハン・マレン。八十八点」

 その瞬間、マルの頭の中は真っ白になった。

(あんなに頑張ったのに! 死に物狂いで頑張ったのに! むしろ点差が開いてしまったなんて!)

 授業の間、先生の声がほとんど耳に入って来なかった。無力感のガスだけが体の中に詰まっている。心の中は空疎だった。授業が終わる頃には、今度は怒りが込み上げてきた。授業を終えた教官が教室を出て行くやいなや、マルは勢い良く立ち上がった。

「おいおい、どこ行くんだよ!」

 シンがマルの袖を引っ張った。

「もう我慢ならない! 納得出来ない! どこが足りないか先生に聞いてくる!」

「やめとけよ。そんなの、どうだっていいじゃねえか」

 しかしこの時のマルはいつもの控えめなアジェンナ人の生徒ではなかった。どうしても、気持ちのおさまりがつかなかった。マルはそのまま教官を追って駆け出した。

「先生!」

 マルは教官の前に回り込んで言った。

「先生! 私は納得がいきません! タク・チセンに比べてなぜ十点も点数が低いのでしょうか! 一体何が足りないのでしょうか!」

 年老いた小柄な、岩石のような頭に薄い髪を撫でつけた教官は振り返った。厚い眼鏡の奥からじっとマルの顔を見返した。

「君はカサン帝国の精神を頭では理解しているが、心から理解しているとは言えない。カサン帝国精神の応用という物が身についていない」

 マルは、教官の曖昧な言い方に苛立った。ヒサリ先生は決してこんな言い方はしなかった。厳しいけれども具体的で明確な言葉で、マルが分かるまで説明してくれた。マルは、努めて先生に無礼のないようにと思いつつ、震える声で重ねて尋ねた。

「カサン精神の応用とは、どういう事でしょうか」

「つまり君の理解は頭だけで、心や身体に及んでいないという事だ。君の体と心はカサン帝国人のものになっていない」

 それがどういう事なのか、マルにはそれ以上食い下がって尋ねる事が出来なかった。それをすると、自分が取り返しようのない程傷付く事が分かっていたから。

(……ああ、それはきっとそういう事なんだ! おらが泥にまみれて藁の中で寝る生活を送ってきたから。おらがこんな顔だから。ヒサリ先生と抱き合っていたようなハンサムなカサン人でも、タク・チセンみたいな堂々とした体格のカサン人でもないからトップが取れないんだ。おらが完璧なカサン帝国人になれる日なんて永遠に来ないんだ……)

 マルは、自分の全てが否定されたような気がして絶望的な気分になった。そしてそのままますます小さくなってゆく教官の背中を見ながら立ち尽くしていた。

「おい」

 シンの手が肩に置かれた瞬間、マルの目から大粒の涙が溢れ出した。

「もういいんじゃねえか。お前が立派なカサン帝国人になる必要なんかねえ。お前はお前のままでいいんだよ! 俺は今のお前が好きだぜ」

「でも、おらが完璧なカサン人にならなきゃ受け入れてくれない人だっている」

「何!? 俺に好かれるだけじゃ不満だってのか?」

「そうじゃない、そうじゃないけど……」

 もちろん、シンはかけがえのない友人だ。けれども、どんなに頑張ってもカサン人はアジェンナ人の自分を見下すばかりで決して対等に見てくれない、という事が悲しかった。

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