第50話 二つの心 3
学年が上がると、マルとシンの関係はいくらか変化してきた。相変わらず同室ではあったが、いつまでも一緒に過ごす、という事は無くなった。シンと一緒にいるとどうしても無駄話をしてしまう。無駄話も楽しいけれど、マルはどうしても良い成績を取りたかった。
……そう。タク・チセンに一目置かれたかった。成績優秀なタク・チセンに勝つには死に物狂いで勉強しなくてはならない。そのため、マルはいつしか時間が許す限り図書館で過ごすようになっていた。
やがて、その事に気付いたのか、エルメライも暇を見つけては図書館にやって来るようになった。エルメライはたいがい、マルから少し離れた位置に座って勉強する。しかしマルは時折、エルメライが顔を上げて自分の方をじっと見ているのに気付くのだった。だからといって、プライドの高いエルメライは、決してマルとそれ以上距離を縮めようとはしなかった。その事にマルは安堵した。自分もエルメライとは仲良くしたい。けれどもその思いが、自分の思う「友情」とは違うものだとしたら……と思うと、どこか気が重かった。
マルが最も力を入れているのが「カサン帝国の精神」だった。今では、カサン語は毎回一番を取れるようになっていた。しかし他の科目でタク・チセンを上回る事は極めて難しかった。この時に思い出したのが、ヒサリ先生の「カサン帝国の精神」こそが最も大切、という言葉だった。
(「カサン帝国の精神」で、絶対に一番になってやる! そうすればタク・チセンはおらの事を見直してくれるはずだ!)
そう思いつつ、必死に教科書を読んだ。カサン帝国の代々の皇帝の名前を全て覚えなければならない。どのような戦争をしたか、政治を行ったか、どのような発言をしたかを覚えなければならない。さらに、カサン帝国臣民としてどのように国の課題に対処し、国難に立ち向かうべきかを考え、レポートに書かなくてはならない。逆に、どのようなふるまいがカサン帝国の臣民としてふさわしくないかを教科書から学び、身に刻まなくてはならない。身勝手な振る舞い、怠ける事、計画性が無い事、時間を守らない事、だらしない事、嘘をつく事……それらが、様々な歴史的なエピソードによって具体的に書かれている。そうしてそのような行為を行った人には悲惨な結末が待っている。
(アマンの歌物語に出て来るサンドゥ婦人みたい。彼女は若い男と不倫して夫を殺害し、地獄に堕ちてしまうんだ)
「カサン帝国の精神」においては、「同性同士で愛欲に耽る行為」も不健全なものとして厳しく戒められている。成績が良いエルメライも当然それは知っているはずで、彼はそのために自分の行動を抑え、感情をコントロールしているのだろう……。
こんな事を考えながら課題のレポートを書いていた。ふと顔を上げた瞬間、エルメライと目が会った。するとエルメライはおもむろに立ち上がり、マルの方にやって来た。マルは緊張しながら、エルメライの顔をじっと見返した。エルメライはマルのそばに立って言った。
「君は俺の事を軽蔑しているだろう」
「そんなことないよ。どうして?」
「俺は教科書で咎められているような、堕落した悪い人間だ」
「そんな事言ったら、おらなんて極悪人のピッポニア人の血が流れてるんだよ。肌の色や顔立ちは変えられないけど、心は変えられるよ。君はいつか女の人の事を愛せるようになると思うよ……」
マルはこの時、エルメライがひどく辛そうな顔をしたのに気付いた。間違いなく、自分の言葉がエルメライを悲しませたと思った。
「そんなに簡単な事じゃない」
エルメライは早口でそう言うなり、きつく唇を結んだ。マルは何と返事して良いのか分からなかった。ただ、エルメライのほっそりした顔を見詰めながら思った。
(エルメライの気持ち、分かる気がする。おらだって、思っちゃいけない、思い出したくもない人の事をこんなに思ってばかりいる。振り払っても振り払っても……。
「昔、君の故郷の友達は、随分俺の事をからかってくれたよな。サンを覚えてるか?」
勿論覚えている。いつもエルメライと一緒にいた意地悪な少年だ。マル達を見るといつも「汚い妖人!」だの「あっちへ行け!」などと言ってきたものだ。
「お前の友達は言ったな。俺とサンがいつも恋人同士みたいにベタベタくっついている。気持ち悪いって。俺がどれだけ傷ついたか想像がつくか?」
ナティの事だ。ナティはいつも、気取り屋で意地悪な二人の事を茶化して悪口を言っていた。マルは何も言わなかったものの、心の中では遠慮無く言いたい事を言うナティを痛快に感じていたのだ。なんせ二人はずっと「上の立場の人」だから。そんな彼の口からまさか、「傷付いた」などという言葉を聞くとは!
「おらは、そんな風には……」
「まあいい。過ぎた事だ。お互い、昔の恨みつらみは言いっこなしにしよう。俺の事は誰にも言わないで欲しい。その代わり俺もお前の身分やかつての病気の事は誰にも言わない」
「分かった、分かったよ」
「サンも、随分君にひどい事を言ったね。でも、許してやってくれないか。あいつはとても弱い奴なんだ」
「分かった……」
マルがそう言っても、エルメライは不安げにマルの目をじっと見詰め返していた。
「……勉強、一緒に頑張ろうね。おら達、同じ村の出だもんね」
マルがそう言うと、エルメライはようやく口元にほんの少し笑みを浮かべた。
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