第49話 二つの心 2
マルは翌朝になっても気分が落ち着かなかった。窓の外にいまだ鳥娘が張り付いているかと思うと、何だか変な気分だった。
しかし授業が始まってしばらくするうちに、鳥娘の事はすっかり忘れてしまった。しかし授業は終わって寮に戻る途中、自分達の部屋の窓の外に貼り付いている鳥娘を目にしたとたん、
「わあっ!」
と思わず声を上げ、横を歩いているタク・チセンに思わず声をかけた。
「ね、ね、ねえ! あそこに、あそこの窓の下に鳥娘がいるの。見える!?」
タク・チセンは足を止める事もなくまっすぐ前を向いたまま言った。
「鳥娘というのはお前が書いていた物語に出て来る妖怪の類の事か」
マルはその言葉を耳にした瞬間、自分の心臓の音の高鳴りを聞いた。
「おらの書いた物語、読んでくれたの?」
タク・チセンはそれには答えなかった。
「俺にはそういったものは見えた事が無い」
そう言うと、さっさといつもの足取りで行ってしまった。しかし、マルは彼の大きな背中を見ながら興奮を抑えきれなかった。
「そんな事聞いても無駄だぜ。カサン人にあの娘が見えるもんか。カサン人と俺達は心が違うんだ」
シンが言った。
「そんな事無いよ! 彼の書いた詩や物語を読めば分かるよ! 彼とおらでは、こんなに見かけは違っても、心はそう違いは無いって! それだけじゃないよ。おら、ピッポニアの小説を読んだ時だって、なんだかおらの心の内側が書いてあるような気がしたんだ。どこの国の人でも、きっと心の奥に持っている物は同じなんだよ!」
「お前の言う事も一理ある。ただな、俺達とあいつらは、違う種類の厚い鎧を身に着けているのさ」
「鎧なんて脱いじゃえばいい!」
「そうはいかねえ。俺達が着ているのは簡単に脱げない鎧さ」
「そんな事……」
マルはキュッと唇をつぐんだ。シンは頑固だ。でも、だからといって、自分もそう簡単に持論を曲げる気にはなれない。
「でも、シンは女性の前では鎧どころか下着まですぐに脱いじゃうくせに!」
こう口にしたとたん、マルは真っ赤になった。自分がとても恥ずかしい事を口にしたと思った、と思った。とたんに、シンが高らかに笑い出した。
「ハッハッハッハ! その通り!」
「ハン・マレン」
不意に背後から声をかけてきたのはエルメライだった。エルメライはクラスが違うのだが、彼がチャンスをとらえてしきりに自分に話しかけようとしている事は気付いていた。彼のまなざしは、マルをいくらかたじろがせる程の熱がこもっていた。
(エルメライはここで一人ぼっちなんだ。スンバ村でいつも一緒にいたサンのような友達はいないんだもの)
マルはエルメライに笑顔を見せつつ言った。
「ねえ、君には見える? あそこに鳥娘がいるの」
「本当だ! 驚いた。こんな所にいるなんて」
「君にも見えるんだね。おらはてっきり、ああいうのは、おら達妖人にしか見えないと思ってた」
「見えるよ。俺も小さい頃、物乞い達が語る鳥娘の物語を聞いた事があるしね」
マルはそれを聞き、胸がいっぱいになった。彼のようなお坊ちゃまは、鳥娘のような妖怪の低俗な物語など見向きもしないものだと思っていたのだ。エルメライとこんな話が出来る日が来るなんて思いもしなかった!
「ねえ、ところで君のルームメイトってどんな人? 意地悪じゃない? おらにはシンがいてくれるから頑張れるけど、君は一人で頑張ってるのかなって思うと気になるな」
「そんな事は関係ない。俺は俺でちゃんとうまくやってる」
エルメライは相変わらずそんな強がりを言うのだった。エルメライが足早に立ち去った後、シンが言った。
「全く、意地っ張りな奴だよなあ~。言っといてやるが、あいつはお前に特別な感情を持ってるぜ」
「特別な感情って?」
「うーん、まあ言ってみれば、ムギュムギュー! とかムニャムニャー! とかホニャホニャー! ていう感情さ」
「全然分かんないよ!」
「だからなあ、つまりあいつはお前を抱きしめたいって思ってる!」
「そんなはず無いよ。エルメライはおらが妖人だってこと知ってるもの、妖人に触れただけで体が腐るって、彼らはそう信じてるんだ」
「愛だよ! 愛があれば、全て乗り越えられる! 愛ってのは、それはそれは偉大なものだぜ!」
「うん……そうだね……」
マルはその時思い出したのは、故郷のアディとハーラの事だった。村役人の娘のハーラは、妖人で糞尿の汲み取りをしにやって来ていたアディの事を好きになった。二人は今、どうしているだろう。「愛は偉大だ」。シンの口から聞かされた力強い言葉を聞きながら彼らは障壁を乗り越えるのではないか。マルはなんとなく、そんな気がした。
(でも、報われない愛だってある……)
その時、マルは微かな胸の痛みを感じた。
夜中、物音にふと目覚めたマルは首を回した。闇の中、シンがまた窓から身を乗り出して、鳥女とキスと抱擁を交わしているのが分かった。
(ああ、鳥女は昼間、窓の外でずっとシンを待って待って待ちきれない気分だったんだろうな……)
マルはしばらく寝付けず、布団の下でしばらくごろごろと体の向きを変えていた。再び窓の外の方を見ると、そこシンの姿は無かった。
(あれれ! もしかしたら鳥娘と一緒にどこかに飛んで行ったのかな!?)
マルは、シンが今鳥娘と一緒にいる所を想像した。二人がどんな事をしているか、瞼の裏にありあり浮かぶようだった。
(おらはまだ、女の人の体を知らない)
マルは布団をギュッと抱きしめた。この手に女性を抱きたい、という思いは日に日に強くなっていく。しかし実際、この手にあるのは固い布団に過ぎないのだ。
(エルメライも苦しんでるのかな……でも、おらが抱きたいのは男でも鳥娘でもなく、切れ長の美しい目をした、まっすぐな長い黒髪の年上の女性……)
そこまで考えて、マルは激しく身もだえした。
(あの人のことはもう忘れるって決めたんだ! 決めたんだ! 決めたんじゃないかー
!!!!)
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