第48話 二つの心 1

食堂に行く途中、モク・イアンに追いついたマルは彼に本を返した。

「どうだった?」

「うん。今まで読んだことの無いような本だったよ」

「気に入ったか?」

「気に入ったというか……ちょっとゾクゾクしたよ。なんだか、人の心の中の、うんと暗い所の覗き込んでるみたいで……」

「気に入らなかったってことか?」

「いいや、そうじゃない。人の心の真実をありのままに描いていいて、でもそれは何だか怖いような気がしたよ。君はどう思った」

「怖くはないね。純粋に、ピッポニア文学は大したもんだと思ったけど」

 マルはモク・イアンの言葉を聞きつつ、彼はそれほどしっかりこの本を読んでいないんではないか、と感じた。単に名著だから自分に勧めたのだろう。

「君が気に入ったんならよかった。他の本も読んでみるかい?」

 マルは頷いた。

 新たな本をマルから借りた事を知ったシンは、呆れたように、

「うひいいい」

 と声を上げた。

「やばいぞ。もうあの色白のそばかす君から本を借りるのはやめとけ。時々抜き打ちの持ち物検査があるらしいぜ!」

 マルは考え込んでしまった。罰を受けるのは恐ろしい。けれども、ピッポニアの本をもっと読んでみたいという気持ちはもうどうにも止めようがなかった。

「ああそうだ! 俺今、ちょっと思いついたことがある! 俺の昔の女が、協力してくれるかもしれねえ!」

「女? 昔の女なんてどうやってここに連れて来れるの?」

「まあ楽しみに待ってろや。今夜お前にも合わせてやるからよ」

 マルは微笑み返した。彼お得意の冗談だろう。しかし、一体どういう種明かしがあるのかいくらか気にはなった。

 その夜、寝台に入ってからとろとろとまどろみかけたその時だった。突然にシン肩を揺さぶられた。

「……何?」

 マルはいくらか不機嫌になりながら体を起こした。

「見てろ。今から俺の女を呼ぶぜ」

「は?」

 シンが月明かりの中、窓辺に向かって進んで行く。上級生たちの壊れた楽器のように鼾が、夜の静寂の中のひび割れのように聞こえる。シンは窓を大きく開け放った。白いカーテンがザバンザバンと風に激しく揺れる。風が強い。

シンは草を丸めた笛を口にくわえ、夜闇に向かって吹き鳴らした。

「ピーーーーーーピーーーーーー!」

 笛の音は、高く、遠くまで響いた。

(一体何が起こるんだろう?)

マルがじっと目を凝らした。闇の奥が揺れたように見えた。かと思うと、白い、大きな鳥のような、しかし鳥ではない生き物が、闇を突き破り、まっすぐこちらに向かって飛んで来るではないか!

(鳥娘……!)

 それはまさしく、アジェンナの数々の歌物語に出て来る、羽を付けて自在に空を飛び回る美女、鳥娘の姿だった。鳥娘は主にアジェンナ北部にいると言われていて、南部で生まれ育ったマルは実際にその姿を見た事は無かった。

鳥娘は、まるで本物の鳥のように、長い腕と脚を使って窓のさんにぴたっと止まった。

「久しぶりね! こんな所にいたなんて、ダーリン!」

 鳥娘の長い髪はしっとりと濡れ、水が滴り落ちているように見える。顔は驚く程白く、目は大きく、まるで渕のようだ。じっと見ていると何だか恐ろしく、マルは思わず顔をそむけた。

「やあ、ルティアン! 君は相変わらずきれいだね」

 シンは鳥娘の体に腕を回してキスをした。マルは友の大胆な行為に驚いた。

「ちょ、ちょっと、やめた方がいいよ! 先輩が目を覚ましちゃう!」

 シンはマルの忠告など無視し、自分の首を鳥女の長い首に絡ませ、しっとりと濡れた羽根や背中を愛撫している。マルは恥ずかしさの余り、視線を落とした。

「ねーえ、ダーリン、どうして急に私のこと呼んだの?」

「実はな、こいつ、俺の友達なんだけど、ちょっと助けてやってほしいんだよ」

「この子のことも抱くの?」

 マルはギョッとしてあとずさりした。

「いいや、実はな、こいつがやばい本を持ってるから、ちょっとの間預かっといてくれねえか?」

「ええ! そんな事したら、おら、本が読めないよ!」

「だから、俺達が授業を受けている間とか、荷物検査の間だけでもいい。この窓の下にいて、俺がサッと本を渡したら受け取って隠してくれ」

「お安い御用よ、ダーリーン! あなたの願いなら何だってするわ!」

「窓の下? 窓の下にいたら外から見えちゃうじゃない!」

「大丈夫。カサン人に鳥娘は見えねえ」

「でも、生徒にはアジェンナ人だっているよ!」

「見えたって、だからどうなんだ? あー、あそこに鳥娘がいるなー、こんな所にまでよく来たなーって思って、それだけの事さ!」

「おらの本隠すためだけに、ずっと窓の下にいてもらうの?」

「それだけのためじゃねえよ。時々この子と遊ぶんだよ」

「遊ぶって、どこで?」

 シンは返事に窮したのか、何も言わず、ただポカッと口を開けていた。その顔は、まるで畑を荒らす猿が人間に捉えられて、許しを請うているように、ちょっと情けなく見えた。

「どこで遊ぶっていうの!? みんなの目が光ってるってのに!」

「ええい、俺はな、女のいない生活なんてこりごりなんだよっ! ここじゃどっち向いても男、男、男! たまに女がいると思ったらみんな俺に冷たいときやがる! 遊ぶ場所なら後で考える!」

「シーッ! 静かに! 先輩達、本当に目を覚ましちゃう!」

 実際、同室の二人の先輩は猪のような巨体をゴロゴロ動かし始めた。マルは一足早く自分の寝台に戻り、布団をかぶったが、シンはいつまでも窓辺で鳥娘と抱擁を交わしている。マルは目を閉じても気が気でなく、全く寝付けなかった。だいぶ長いことたってシンが寝床に戻ったのを確かめて、マルはようやく眠りに落ちた。

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