第47話 トップ争い 8



「さあ、約束の本だ」

 翌日、授業が終わり、マルが寮に向かっている時、いつのまにか背後にぴったりくっついていいるモク・イアンが、鞄の中から紙のカバーで表紙を隠した本を出してマルに突き出した。

「見つからないように気をつけろ。これを読めばカサン人がどれだけピッポニア人に羨望を抱いているかが分かるさ」

 マルは本を手に取り、表紙を開いてみた。「月の出を待つ」というタイトルがカサン語で書かれている。しかしその下に書かれた著者名は明らかにピッポニア人らしいものだった。さらに、その下に書かれた翻訳者の名にマルはさらに驚かされた。

「クオ・ヌン! クオ・ヌンってあの作家のクオ・ヌン!?」

「そうさ。クオ・ヌンはピッポニアの文学を愛読していて、それに相当影響を受けて自分の小説を書いている。知らなかったろう? さあ鞄に隠せ。見つかったら大目玉だ。ここの教官達は愚かだから、ピッポニアから何かを学ぼうなんてこれっぽっちも思っちゃいない」 

 モク・イアンはそう言って立ち去った。

「あいつ! お前にやっかいなものをよこしやがったな」

 シンは舌を鳴らした。

「でも、本当にびっくりした! クオ・ヌンがピッポニアの小説の翻訳をしてたなんて!」

「クオ・ヌンって有名なのか?」

「有名だよ! こないだカサン語の授業で『トアンからナサへ』っていう文章読んだでしょ。あれを書いた人だよ!」

「お前、もうすっかり読む気になってるな。だがな、その本をしばらく借りるてぇんなら、とりあえず俺の机の中に入れとけよ」

「シンも読む?」

「いや、読まねえけどよ、バレた時の用心のためさ」

「君が罪をかぶるっていうの!?」

「そんなもん見つかったら殴られるどころじゃすまねえぜ。俺はお前が罰を受けるのが耐えられねえ」

「そんなの余計な事だよ! おらが読みたくて読むんだから、この事の責任は自分で取るよ」

「分かった、分かった、別にお前をバカにするつもりじゃねえんだ。さっさと読んで奴に返しちまいな!」

 マルは寮の部屋に戻り、雑用や宿題を済ませると、布団に潜り込み、さっそくモク・イアンから借りた本を広げた。数ページ読むうちに、たちまちその内容に引き込まれ、ページをめくる手が止まらなくなっていた。

それは、これまでアマン語の歌物語でも聞いたことがなければカサン語の本でも読んだことのないような、荒々しい情熱的な恋愛小説だった。

それは貧しい少年が年上の高貴な身分の令嬢に恋する物語だった。少年の狂おしい程の思いが、あまりに赤裸々にリアルに描かれている。また二人が生きる百五十年前のピッポニア社会の様子も緻密に描写されていた。物語では、やがて革命が起こり、没落した令嬢は売春宿に身を売る。そこで成長し革命の戦士となった少年が出会うシーンまで、一気に読み切った。長年の愛を成就させようとする元少年と、零落してもなおプライドを捨てず、男につれない態度を取る女性のやりとりが最後の場面であった。そのページを読む頃には、既に夜明けの鳥の声を聞いていた。翌日、授業が休みなのは幸いだった。マルは本を抱いたまま、とろとろと眠りに落ちていた。

 浅い眠りの中で、マルは夢を見た。夢の中のマルはすっかり成長した大人の男であった。彼はゆっくりと、石造りの建物の中に入って行く。そこには売春宿で、大勢の女性達が囚われの身になっていた。マルは、その中で、一人の女性に向かってまっすぐに歩いて行く。そこに死んだように横たわっているのは、たくさんの男たちに凌辱され、抜け殻のようになったヒサリであった。マルはヒサリの前に跪いて言う。

「ヒサリ、私です。ハン・マレンです。分かりますか? 私はあなたを助けに来ました」

 ヒサリはうっすらと目を開いて、マルの方を見返す。

「ヒサリ、つらかったでしょう? でももう大丈夫です。私はあなたを助けます。私があなたを買って解放し、自由の身にします。ただその前に一言、私を愛していると言ってください!」

 ヒサリは再び目を閉じ、冷たく顔を横に向けた。マルの心は怒りに震えた。

「ヒサリ! ヒサリ!あなたはなぜ私を裏切った! あなたはこんなに残酷に私の心を踏みにじった! 許さない! 許さない! こうしてやる!」

 マルはヒサリを押し倒し、その体の上に飛び乗る。ヒサリは顔を横に向け、苦悶の表情を浮かべる。

「目を開けて私を見るんだ! 愛していると言ってくれ! 言わないのか! こうしてやる!」

 マルはヒサリの身体を隠しているぴっちりした服を引き裂く。すると、黄土色の乳房があふれ出す。ヒサリがもがく。しかしマルは手を緩めず、さらに服を引き裂く。ヒサリの全身が露わになる……。その姿はあたかも、天界から転げ落ちて泥にまみれた女神のようだ……。

 マルはこの時、ハッと目覚めた。体じゅう汗をびっしょりかいている。その汗は驚く程冷たかった。

「おい、大丈夫か? 何だおめえ、変な夢見たか? すさまじくうなされてたぜ。歯ぎしりまでしてさ! さあ急げ。食事のベルが鳴るぞ」

 マルはとっさに、自分が今まで見ていた夢をシンに覗かれていたのではないかという気がして恥ずかしくなり、とっさにシンから顔をそむけた。何という恐ろしい夢を見たのだろう! あの夢の自分は現実の自分ではない。昨夜読んだピッポニアの小説のシーンが夢の中で再現されただけだ……そう自分に言い聞かせる。しかしその一方で、心の奥底の邪悪な本性が夢の形で現れたのではないか、という思いに体が震えた。

(悪い夢を見せる妖怪におらの眠りを盗まれたんだ! ええい、もう二度と出てくるなよ!)

 マルはこう念じつつ、ゆっくりと着替えた。食事を知らせる鐘の音も、こことは違う遠い場所から聞こえているような気がしてならなかった。

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