第39話 ヒサリの気がかり 5

ヒサリが学校に戻ると、使用人のダヤンティが教室を掃いているのが見えた。ヒサリは、マルがいなくなってから元気が無くなったように見えるダヤンティの事も気がかりだった。以前と変わらず手際良く料理を作り、掃除や洗濯をしてくれる。しかし笑顔が少なくなり、時折手を止め、溜息をつく事が多くなったように見える。

「もう十分きれいだから掃除はいいわ。それより、ちょっと座って話さない?」

 ヒサリが言うと、

「ありがとうございます」

 ダヤンティは箒を置いて、椅子の一つに座った。ヒサリは馬をつないで戻ると、ダヤンティの隣に座った。

「アディは元気?」

 ヒサリがダヤンティの息子でありヒサリの教え子のアディの事を尋ねると、ダヤンティはまた一つ深く溜息をついた。

「ええ、元気にやってますよ。ただ、あの子にそろそろ嫁を持たせたいんですけど、ちっとも乗り気じゃないんですよ」

「そうですか」

 ヒサリにはその理由が分かっていた。アディには好きな女の子がいる。しかしその相手は、この国の常識では決して結婚出来ない相手なのだ。

「あたしが若い頃には、汲取りの家に生まれたら嫁を取るのも汲み取りの家の娘と決まってたもんです。今はそういう時代じゃありませんよ。別に汲み取りの家の娘じゃなくていいんです。でも、川向うの平民様だなんて、しかもお役人様の娘さんに熱を上げてるなんて、恥ずかしくて人に言えやしない。どうしてあんな大それた真似が出来るんだか。あんな子に育てたつもりじゃなかったのに」

「…………」

 ヒサリは、アディが役人の娘に恋している事は知っていた。マルが作文に何度か書いてきたからだ。作文から読み取れる少女は、病弱ながら芯の強い性格で、彼女自身もアディの事を思っているようだ。二人の恋を妨げる理由などない。しかしそんな事は、ここの古い慣習では到底許されない。身分違いの結婚をした者は、村の恥さらしとして殺される事も多々あると噂に聞く。二人は結婚などという事を本気で考えているのか、それとも恋に溺れて現実や将来について考える事を先延ばしにしているのか。

「もしアディが嫌でなかったら、会って話してみましょうか?」

「ええ、ええ、そうしていただければ。いい加減目を覚まして平民様の娘など諦めるように言ってやってください」

「いいえ。それよりもまず、彼の気持ちをしっかりと確かめてみないと。それから出来れば相手の女の子の話も聞いてみたいと思います。二人が本当のところどんな風に思っているのか、どれ程本気で考えているのかを聞いてみない事には私には何も言えません」

 ダヤンティは、顔の少しばかり笑いを浮かべたまま首を傾げた。ヒサリの話に納得していない事は明白だった。しかしその事をダヤンティははっきりと言う事は無かった。彼女はアマン人らしい曖昧な笑みを浮かべつつ、

「うちの子には、そういう恥ずかしい事はして欲しくないんですよ……」

 とだけ繰り返した。

 ダヤンティが帰ってしまってから、ヒサリは一人、アディの美しい顔を思い浮かべていた。彼は大人しくお行儀が良かったが、決してヒサリに心を開く事はなく、どこかとらえどころのない少年だった。自分は散々子供達に、「人は皆平等だ、平民や妖人の区別など無い」、と言い続けたけれども、アディがヒサリの言葉に感化されたとは考えにくい。恐らく彼の顔立ちの良さや品の良い物腰が、身分違いの二人の距離を縮めたのだろう。

 扉を叩く音と、

「郵便です!」

 の声に、ヒサリの胸は躍り上がった。郵便屋の声を聞く度に、マルからではないかと思ってしまうのだ。ヒサリは立ち上がり、扉を開けた。郵便屋から受け取った手紙を見て、ヒサリは失望を禁じ得なかった。それは恋人のアムトからの手紙であった。

(どうして私、がっかりしてるんだろう。本当は喜ばなきゃいけないのに)

 ヒサリは手紙を開いた。アムトは今、タガタイのラジオ局で番組の編集や脚本の執筆を手掛けている。彼は自分の仕事やタガタイでの生活についてあれこれ書いてきている。しかしヒサリの頭には、なかなか手紙の内容が入って来なかった。タガタイと言えばマルの事ばかりが胸に浮かんで仕方が無い。

「次の雨季明けにでも君の所へ行きたい」

 手紙にはそう書いてある。

(来てくれなくてもいいのに。私がタガタイに行きたい位よ)

 もちろん、ここでの仕事を放り出してタガタイに行く事は出来ない。行ったところでマルに会う事はかなわない。ヒサリは手紙を机の上に置き、もはや聞こえてこない少年の歌声に耳を傾けるように、じっと目を閉じていた。

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