第36話 ヒサリの気がかり 2

二人はダヤンティの作った夕食を食べながら夜遅くまで語り合った。

「泊まって行きますか?」

「いいえ。これから家に戻ります。久しぶりにメメにも会うことになっているので」

 ヒサリは、テルミが帰った後、急に空疎な気分に襲われた。カサン文化部隊の本部に送る報告書を書く作業も全く進まなかった。マルがタガタイ第一高等学校に行ってから、三度手紙を送った。しかし返事は一通も届いていない。タガタイ第一高等学校に送る手紙も逆にあちらから送られる手紙にも検閲が入ると聞いたことがある。生徒に望郷の念を起こさせるものや、生徒が学園の内情を漏らす内容のものは除かれると。マルに送った三通の手紙は、いずれも部分的にしか渡っていないか、もしかしたら全然届いていないかもしれなかった。

(いや、仮に届いていたとしても……)

ヒサリには、マルが去って行く時の

「先生――――!」

 という悲痛な声が耳について離れなかった。彼はヒサリの事を恨んでいるのではないか。

(恨まれているんなら、それでもいい)

 ヒサリは思った。

(彼から何かを書く気力さえ失われているのでなければ)

 カサン第一高等高校ではあまりの厳しさに耐え兼ね自殺する生徒が後を絶たないと噂に聞く。テセ・オクムに何度も問い合わせたものの、「私もハン・マレンがどうしているかはよく分からない。便りが無いのは良い便り、という事だろう」とつれない返事が返って来るばかりだった。ヒサリはマルの事を思う度に涙がこぼれたが、その涙を人に見せる訳にはいかなかった。教室の子ども達もダヤンティも、みんなマルがいなくなって寂しがっている。あの子は太陽のような子だった。内側からあふれる光が、醜いイボの隙間から外に溢れ出し、みんなを照らしいていた。ヒサリは人に聞かれるごとに「彼は学校を終えたら帰って来ます」と言い続けたが、実際にマルが戻って来られる可能性はほとんど無い事は分かっていた。

 マルと共にヒサリの最初の生徒達が巣立ち、ヒサリの胸には大きな穴が開いたようだった。特に勉強熱心だったダビやトンニは、アロンガの高等学校で勉強している。ラドゥは仕事の合間に、自分と同じ農民の子らを集めて読み書きや算術や、その他様々な役立つ事を教えているという。そして忙しい中、時々ヒサリの元をを訪れ、村の様子や巣立って行った生徒達の事を教えてくれた。その中で、ヒサリにとって特に気になったのは、ナティであった。

「あいつは村から姿を消しました。家族の者も誰一人あいつの行先を知らないらしいんです」

 ヒサリはラドゥの話を聞きながら、きつく結んだ唇を嚙み締めた。ナティはマルを失って怒りの余り自暴自棄になっているのではないか。

「アッサナック家をご存じですか? ナティの姉さんの嫁ぎ先です。森の際地区の者ですが、ものすごい金持ちなんです。私もかつて金を借りに行ったことがあります」

「ええ、知ってます」

「あそこの下の息子が、ナティを嫁に欲しいと言ったらしいんです。その直後でした。あいつがいなくなったのは」

 ヒサリには、ナティの気持ちはよく分かった。アッサナック家の末の息子のパンジャは、ヒサリが実際見たわけではないが、どんな少年かは散々噂に聞いていた。人の悪口などめったに言わないマルまで、「パンジャには会いたくない……」と漏らしていた。パンジャの所に嫁に行けと言われたら、自分だってナティと同じ行動を取ったかもしれない。

「ナティはどこに行ったんでしょうね。まさかタガタイに向かったんでは」

「かもしれません。ただあいつはバカじゃありませんからね。無茶はしませんよ」

「そうですね。そう願うしか」

 ヒサリの心にラドゥの言葉はとても心強く響いた。彼は自分よりずっと若いというのに、その言葉の一つ一つに人の心を落ち着かせる重みがあった。

「ただ、ちょっと気になる話も聞いてます。実はナティがいなくなる数日前、マルの兄さんをスンバ村で見かけたと言う人がいるんです。昔、マルを残して急に村からいなくなったとかいう兄さんが」

 ヒサリはハッとした。マルの兄さん! 彼の事をすっかり忘れていた! 暗い目つきをした、どこか危なっかしい雰囲気を持つ彼の存在が、マルの成長にとって良く無いと思い、ビンキャットに頼んで少年矯正所に送り込んだのだ。もしまじめに過ごしていたら、とっくに出てきているはずだ。

「マルの兄さんがナティと一緒にいたって話を耳にしました」

「二人が? 一緒にどこかに行ったという事ですか?」

「分かりません。ただ、どうもナティは姿を消す直前に見世物小屋のロロから筏を買ったらしいんです。借りたんじゃなくて買ったって聞きました。その金をどこから手に入れたかっていうと……」

「そうですか……」

 ヒサリは、胸の中に黒雲が漂うのを感じた。ヒサリは決して、マルの兄さんが邪魔だと思って追い払ったわけではない。少年矯正所では十分な食事が与えられ職業訓練も受けられる。彼自身のためにもなると思ってした事だ。しかし彼はヒサリのことを逆恨みしているかもしれない。そして、カサン帝国にマルを奪われたと思っているナティを誘い、何か反社会的な行動を起こそうと企んでいるのではないか。

(明日は休日だわ。ロロという興行主の所に行ってみようかしら)

ロロの元にはかつてヒサリの教え子だった踊り子のシャールーンやミヌーがいる。彼女達の様子もこの目で見ておきたかった

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